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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



長年写真に関しては、私ならではのジレンマを抱えていた。最初に写真を発表した時には、それはジャズ、ブルースの人形を撮影したものであったが、某ファッション誌の編集者が、被写体と共に写真を展示しているのに、写真は人間を撮った写真だと勘違いした。わざわざ人形を作って、既存のジャズ写真を再現したい訳ではない。思えば最初に写真を発表したときから、ジレンマは始まっていた。それならば、作り物でなければ出来ないモチーフを、と十数年続けたシリーズから一年後に、作家シリーズに転向した。もちろん書斎の作家など、いくらでも残っているような物は作らない。本当のことなどどうでも良い、と真を写すという意味の写真という言葉にあらがい続けることになる。江戸川乱歩にピストル持たせて気球にぶら下げてみたが、それが乱歩の書斎の机に置いていただいていて、その机が、雑誌の表紙に使われたが、編集者はあろうことかを実写と思い込み、慌てて私のところに挨拶に来た。私は作品のフレームの中にはまこと、など写してなるものか、とファイトを燃やし続けてきたが、その後も、たとえ、この人形を被写体にしました、と作品の横に書いてあっても信じない人もいる。ことさら人間に見せたい訳ではないので、人形は粘土感丸出しなのは、ごらんになった方はお判りだろう。しまいには作り物だと判るように、写る所にサインを彫ろうかと思ったのは本当の話である。 しかし、よく考えてみると、そんなジレンマを抱えていながら、無意識に、人の思い込みを利用していたのは私自身でなかったか?本人はそこに気付かず、こんな老人がこんなデカイ太鼓を背負う訳がないだろ、と口を尖らせていた。 そんな訳でジレンマを抱え続けてきた訳だが、私の大リーグボール3号こと石塚式ピクトリアリズムは、何しろ陰影がなければ、艶も空気感もない。つまり写真の写真たるところを排除して、作り物にしか見えない手法にようやく至り、私が抱き続けたジレンマからようやく解放されたのでああった。これがいかに目出度いことか、被写体制作と撮影の二刀流ならではの物語?である。

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