goo blog サービス終了のお知らせ 
明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



旅館の玄関前に車を駐車させた。しかし背景の玄関と角度が合わない。車を三等分に切断し、鼻面をいくらかこちらに向けた。イメージに近づけるため、水平線だろうと地平線だろうと歪ませてきた。人の作った車などどうということはない。  旅館の玄関には看板である。今まで『目羅眼科』『三人書房』だの劇中の看板を作ったが、歌舞伎役者や軍人の書など集めたせいで、どうしても手書きの書を使いたい。そこで7月頃だったか、初個展のDMに書いてもらった岡山のNさんに依頼したことは書いた。ノンビリした人ではあったが『桂井館』の三文字である。いくらなんでも書きあがっていても良いだろう。電話してみると、実は書に関してはお袋の方が上手いので、頼もうと思ったら急病になり一時危篤状態になってしまったという。驚いていると、人工肛門になったが、いまは草むしりしてるほど元気なので改めて聞いてみるという。私は陶芸家を目指していた頃の友人であるNさんに書いてもらうのが面白い、と思ったのだが。 お袋さんはかつて大学で事務をやっていたが、証書の文字も担当し、看板などの揮毫も依頼され、石碑の下書きなど書くような人なんだそうある。それにNさんはむしろお袋さんにやらせたがっている感じである。勿体ないような気がするが、上手な嘘をつくには、本当のことを混ぜるのがコツである。有り難く待つことにした。
雨の日の河童撮影にそなえる。赤沼の三郎は生臭くてベトベトしている。ただ水に濡らしただけでは粘液感がでないであろう。そこでネットで検索して長時間にわたり乾きにくい、という一瓶を注文した。“アナラーにも最適!”なんだそうである。 

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




舞台を大正から昭和の初期に設定するとロケ場所が難しい。幸い『貝の穴に河童の居る事』は房総の海辺の村、鎮守の森の神社が主な舞台なので、余計なものさえ入らないよう気をつければそのまま使える場合もある。使えるといってもイメージカット的なものであって、鏡花がこうなっている、といえばそのままではイメージ通りにならない。結局背景になる風景は、ほとんど作り変えることになるが、ただの風景に見えなければならないところが辛いところである。映画関係者に、時代劇を撮影する苦労を聞いたことがあるが、映画と違い、私の場合、ページの横にこうである、と書いてあるので始末が悪い。本日も、一日山道を作っていた。時間をかけて制作したが、地面と周囲に生えている雑草の雰囲気が合わず、各局別カットで作り直した。 いつかも書いたが、過去の風景を作ろうとしたら、地面のデイテール、特に土の道など見つけたら、即 コレクションしておくべきである。露出している関東ローム層の記憶がある私としては、ここまでアスファルトで覆ってしまって良いはずがない、と思うのだが。 合成をするようになったのは、1冊目の『乱歩 夜の夢こそまこと』でストーリー仕立てににするに際し、それまでの、人形が手前にあるから人間大に見えるということでは、主役が常に手前にくることになる。そこで合成を始めたのだが、乱歩が上京後、団子坂で営んだ古書店を再現した時、100以上のパーツを合成するハメになったが、初めて地面が必用になったのがこの時であった。結局小雨降る中、深川公園で傘をさし、邪魔する鳩を追い払いながら撮影した。ベンチでぼんやり雨宿りする老人達が私の“奇行”を眺めていた。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神主姿の柳田國男の仕上げを始める。柳田にはヘナヘナとした烏帽子を被らせている。作中には烏帽子を取るシーンなどないが、取った場面も作りたい。人間の頭の形は重要である。額の形など、ないがしろにすると、金輪際その人物にはならない。眼鏡を外し、烏帽子を被っていても柳田には見えるが、せっかく作った禿げ頭も見せたいのである。幸い“揉み”烏帽子といって柔らくポケットに仕舞えそうな烏帽子なのでかまわないであろう。  小津安二郎生誕の地、江東区の古石場文化センターに収蔵いただいている小津安二郎像だが、予算が降りて専用ケースを用意することになった、と連絡がきた。小津コーナーのレイアウトも変えるという。ウチでただムスッとしていることを考えると、常に見ていただけるのは有難いことである。 
明日はようやく雨が降りそうな気配である。待ちに待った、といいたいが、目的の場所が、月曜が祝日の場合翌日が休みだという。まだ天候に関する運の悪さが続いているとしたら、明日は雨で、明後日は晴れ、ということになるであろう。明後日曇りか雨になったらすぐ撮影に行かなければならない。 人間の撮影が二人残っているのを忘れていた。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




姫神様乾燥に入る。乾燥機を使うと室内温度が上がるので使う気がせず、久しぶりにベランダに置いている。 それにしても、昼間の晴天の海岸のシーンを別にすれば、物語のほとんどが梅雨のドンヨリした風景が舞台なのだが、いいかげんにしろ、というくらいずっと雨が降らない。房総でのロケでも、夕暮れを待ち、東ドイツ製の陰鬱に写る妙なレンズを持っていってなんとかこなしたが。その後の東京でも、濡れた樹木を撮影したのは一度きりである。それもあわてて現場に着いた時は晴れている有様である。 ここの所、色々なお誘いをすべて失礼している。何しろ寝心地を悪くして制作時間を延そう、という状態である。1時間もかからない実家にもまったく帰っていない。だらだらするには良いが、創作用筋肉が緩んでしまう場所でもある。 それでも曇りもしくは雨が降れば、即撮影に出かけなければならない場所があり、台風に期待するしかない。お百姓の方々にはもうしわけないが、水の精ともいわれる河童を不細工に描いた呪いかもしれない。姫神様を早急に完成させる必要があろう。 

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨年の『三島由紀夫へのオマージュ展』の制作時同様、本を並べたりして寝床の寝心地を悪くし、睡眠時間を短くしていたが、これも昨年同様、ある時を境に効き目がなくなる。昨日は改修工事のドリルの音が響く中で寝てしまった。ここからは昨年同様、寝たい時は短時間、小刻みにでも即寝る作戦に変更する。 柳田國男の表面が乾いたところで乾燥機に入れる。神主の衣装はかさが大きいが、それを支える脚は“蚊脛”つまり細いスネに支えられている。乾燥機に容れるためには固定している台から切り離さなければならないが、ここで急ぐと足首の芯のアルミがグニャリと来る。芯はコーテイングのおかげで錆ず、曲げやすい盆栽用のアルミ線をずっと使っている。ほとんど最初から使っているので慣れているが、柔らかいアルミゆえ不安定である。しかしそのまま完成すると、自動的に支えも無く、自立するバランスを持った作品となる。 次におおよそ頭部が出来上がっている姫神様の胴体の制作に入った。人毛を植える予定だが、着彩後になるので、今のところツルッ禿げなのが今ひとつであるが、かまわず進める。当初からこの姫は、人形っぽく、多少、雛人形じみた感じにしたかった。“任侠の御気風ましまし、ともあれ、先んじて、お袖に縋すがったものの願い事を、お聞届けの模様がある” 姫に願い出る河童がドタバタしているので、対する姫はクールに描いてみたい。私としては、若い頃ならともかく、今はちょっと。という姫様になるような気がしている。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




柳田國男は異界の翁にしては、鼻の下のヒゲが少々俗っぽい。ヒゲの形の話である。どちらかというと町のご隠居風である。たとえばもう少し横に伸ばしてアゴヒゲを足せば、大分変わってくるであろう。実際そうするかは判らないが。もちろん眼鏡は異界の翁には似合わない。 昨日お会いした弦書房の石原さんに、河童と柳田國男の共演について聞かれ「思い付いた時、すぐ飲みに行ってしまいました」とお話した。河童の三郎に対し、我が息子のように優しく接する対面シーンは、できるだけ美しく描いてみたい。腕を折った河童に対し『この老ぼれには何も叶わぬ。いずれ、姫神への願いじゃろ。お取次を申そうじゃが、忰、趣は――お薬かの。』娘の尻を触ろうとして結果的に怪我をした三郎に『ああ、約束は免れぬ。和郎たちは、一族一門、代々それがために皆怪我をするのじゃよ。』そして終盤大団円をむかえ、三郎が空を飛んで棲み家に帰る際には『漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手負が、白い脛で落ちると愍然(ふびん)じゃ。見送ってやれの――鴉、鴉。』  鏡花の本作における河童の描き方に対し、柳田は“河童を馬鹿にしてござる”と手厳しく批判している。それをあえて登場させる私としては、柳田演ずる翁の三郎に対する眼差しには、こだわらない訳にはいかないのである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




午前中、娘の追加カットを撮影。脚に絡まる3匹の蛇の場面である。今回、説明はあるが実現していないイメージカットが2カットある。一つは河童の三郎が人間への仇討ちのため、滞在中の旅館に大魚イシナギの死骸を放り込んでほしい、と姫神に願いでるが、人手不足だと断わられる。結局実現しなかった座敷にイシナギが放り込まれているシーン。もう一つが娘に絡まる蛇である。脚に絡まり、どこへでも連れて行ってしまう能力があるらしい赤背黄腹の蛇だが、これもそういう蛇だ、というだけで、能力を発揮せずに終るが、サービスカットということで。 夕方、今度は大事にしている長靴に河童に穴を開けられてしまう旅館の番頭である。番頭役のTさんには、K本に飲みに来るついでに、というつもりでいたが、本日K本は休みなのに気付かず、わざわざ来てもらってしまった。 本来客のステッキで三郎の腕を折るのはこの番頭であるが、呪いをかけた河童の唾で長靴に開けられ、これが三郎にいわせると『奴に取っては、リョウマチを煩らうより、きとこたえる。仕返しは沢山でしゅ。』。当時長靴はそれほど貴重であったということであろう。撮影はマンションの入り口で撮影した。ちょうど旅館の玄関と同じような光線具合だったからだが、Tさんには半纏を着てもらい、穴が開いた長靴を手に困ったような顔をしてもらった。Tさんにとっては、マンションの住人がウロチョロする中、この撮影自体が困った状況であったか、河童に長靴に穴を開けられたとしか思えない表情が撮れた。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本日は泉鏡花の命日である。そんな日に、盟友であり理解者である、柳田國男を作っている。今回は鏡花は登場しないので、河童と翁役の柳田の競演が楽しみである。河童が最初に会うのがこの翁で、台詞のやりとりもある。翁の河童の三郎に対する愛情あふれる接し方が良く、見る人には、例えばこの柳田と三郎の競演が、ドラマなどで知らん顔して共演する親子の役者。みたいな味がでないか、などと余計なことまで考えてしまう。
早々にできあがっていたはずが、物足りなくなってしまった女顔のミミヅクを残し、明日で人物の撮影は終る。笛吹きとその妻は終了し、踊りの師匠である妻の師匠仲間の娘であるAちゃんの追加撮影である。一見そうは見えないが、この二人実の母娘で、Aちゃんは、一人より母娘二人のほうがやりやすい、といっていた。特に嬉しそうに着物のまま海に入るシーンなど、はたから何をやっているのだ、というようなカットは、一人よりやりやすかったであろう。青春ドラマで噴水に入ってはしゃぐ中村雅俊など、観ているこちらが恥ずかしかったくらいである。 明日はその娘のふくらはぎに蛇がからまるシーン他数カット撮る予定である。Aちゃんのふくらはぎに蛇がどれだけ食い込むかに成否がかかっている。そんなに引っ張ったら蛇が千切れるだろう、ところまでいく所存である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日友人の写真スタジオに出かけたおり、小説家で好きな三人は、ときかれ、乱歩、鏡花、谷崎と答えた。私は油断すると小説を読んでいる間中、頭の中に映像が浮かび続ける。よって画として面白くない場面が続く物はあまり好まない。男と女がただ延々としかめ面して話し合われては閉口するのである。その点この三人は、映画化され続けていることから判るように、面白い画にはことかかない。 作る側からいうと、最も危険なのが乱歩である。以前書いたことがあるが、乱歩は魅力的なイメージを創造するわりに、子供っぽいとか整合性云々をいわれる。これをうっかり私だったらこうする、などとやって映画は失敗するわけである。あれは乱歩の文章をもってしか描けない特殊な世界である。特により具体的に描く映画の場合は一見優しそうな乱歩に飛び込んで行って、巴投げをくらって失敗するわけである。投げをくらわないよう乱歩とは適切な距離を保つことが肝腎である。 同じく幼児性をもっていると思われる泉鏡花は『貝の穴に河童の居る事』ではそれが炸裂しているように思われる。毎日付き合っていると、楽しそうに書いているのがよく判るのである。潔癖症だからこそ、というべきか、河童の肺が腐れたようなきたならしい様子も、「汚ねえなァ」などと楽しそうに感じる。私が本作を選んだ理由も、今頃になって判ってきた。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




挿絵の場合は読者の想像力を邪魔してはならず、肝腎な箇所に効果的に配されるわけであるが、制作中の作品は、挿絵というよりビジュアル本として作品も多く載せることになり、その分、場面をより具体的に描くことになるが、鏡花の狂言じみたセリフなどにより、登場人物は今どのような状態でどうしているか判り難い場合がある。 先日編集者から、元となる岩波版の鏡花小説・戯曲選のコピーが送られてきた。解説は寺田透で、作中の三人が化かされ踊らされる場面に言及し、『こういう集団的神がかり現象は鏡花積年の、問題だった』等々興味深く読んだ。 河童が鎮守の社に、人間へのあだ討ちを願い出る。地面に頭をすりつけ「願いまっしゅ、お願い。お願いー」そこでまず登場するのが、姫神様の後見人たる翁である。禰宜(神官の一種)のいでたちの描写があり、『ー半ば朽ち崩れた欄干の、疑宝珠を背に控えたが。屈むが膝を抱く。』寺田はこのくだりを『という言い方はちょっとまごつかせるが、屈んでいた河童の三郎が、禰宜の膝を、哀訴のしるしに抱いた、と読むべき表現だろう』と書いているが私にはそうは思えない。自己本位な河童であるが、案山子の着衣をはいで着てくるし、飛ぶのが得意なのに、それでは失礼だ、と石段をとぼとぼ登って来た。自己紹介もしていない段階で、いきなりそれはないのではないか。まして昼間、娘の脱いだ足袋の中に隠れていて、河童の粘液が足袋に付着し『あら、気味の悪い、浪がかかったかしら』といわれたのに明らかなように、河童は生臭くベトベトしている。本人も承知しているだろう。よって私はこの場面は、折れていない方の手を地面につき、伏した状態のまま、と考える。 それにしても、寺田透をも“まごつかせる”鏡花作品。手掛けて以来、私がまごつきっぱなしで当然、と安心した。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人間が登場する部分の撮影はあと3カットである。1カットは、河童が隠れているとは知らず、マテ貝の穴を客のステッキで突っついて、河童の腕を折ってしまうのが旅館の番頭だが、そのため、大事にしている長靴に唾を吐き掛けられ、呪いによって穴を開けられてしまう。旅館の玄関で、大事にしている長靴が何故?と穴の開いた長靴を手にガッカリしている番頭。 2カット目は貝の穴を覗く娘の目のアップ。そして最後のカット。異界に住む赤背黄腹の蛇は、人の脚に絡み、どこへでも連れて行ってしまう能力を持っている。姫神の命令で、芸人3人を連れてくるはずが、信仰心によって守られている連中のようだ、と止められる。つまり結局能力を発揮することなく終るのだが、しかし絵柄として人間の脚にからむ蛇は面白い。作ることにした。イメージカットゆえ芸人3人の誰に絡んでも良いわけだが、撮影する私の都合はともかく、新東宝の怪談映画を観るまでもなく、蛇が絡みつくのは若い娘の脚にこしたことはない。もちろん蛇は、何もそこまで、というぐらい食い込む予定なのはいうまでもない。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




担当の編集者は、私がインタビューでパソコンやデジタルのことに関して全く興味を示さず、ボロクソにいったらしい雑誌を未だ持っていて、ことあるごとにそのことをいう。確かに画像を加工することなど夢にも思わず、HPを作ろうと思っただけだったので、ウインドウズをずっと使っている。  昔から使っている画像加工ソフトのフォトショップだが、私の制作上、特に問題もないので、大昔のバージョンを使い続けている。しかし今回、どうしても旧バージョンではできない作業があり、データを持って友人のスタジオにお邪魔させてもらった。そんな時、泊りがけで作業してくる、といってあるのにKさんから電話。朝から飲んだらしく、何を喋っているんだか判らない。しばらく大人しくしていたと思ったら元の木阿弥である。 集中して制作したおかげで、人間の登場シーンが凡そ揃ってきた。そのかわり始める々といっていた神主姿の柳田國男は、明日からの制作になるだろう。本日は帰りの車中で考えた、クライマックスを迎えるあたりのシーン(背景)を作った。娘の尻を触ろうとして怪我をした河童の三郎。人間に復讐するつもりが色々あって機嫌が直り、空を飛んで沼に帰ることになる。そこで翁役の柳田がカラスにいう。「漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手負いが、白い脛で落ちると愍然(ふびん)じゃ。見送ってやれの――鴉、鴉。」つまりこの好色な河童が、行水中のスネでも見てまたヨロヨロしないよう見送れ、ということであろう。早く柳田にいわせてみたい場面である。 生ける河童Kさんにも、こんなカラスが必用である。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日完成した、しゃもじとすりこぎを持って踊るというのは、鏡花はどこの何祭りとは描いていないが、実際愛知県で今でも続いており、鏡花が実際目にしたのは明らかであろう。作中では河童に化かされた三人が、しゃもじとすりこぎを持って踊らされてしまう。我に返って慌てて旅館に戻り、私たちはなんであんな可笑しなことをしたんだろう、と話していると、実際その祭りを見ている笛吹きが薀蓄を語る。『青いおかめ、黒いひょっとこの、扮装いでたちしたのが、こてこてと飯粒をつけた大杓子、べたりと味噌を塗った太擂粉木で、踊り踊り、不意を襲って、あれ、きゃア、ワッと言う隙ひまあらばこそ、見物、いや、参詣の紳士はもとより、装よそおいを凝らした貴婦人令嬢の顔へ、ヌッと突出し、べたり、ぐしゃッ、どろり、と塗る……』見物客が、嬉しそうに顔にすりこぎで味噌を塗りつけられている映像をネットで見たが、すりこぎは当然男性器の象徴であり、味噌を塗りつけた木製のまさにそのものを持って踊る画像もあった。  制作に集中してくると、創作の神が見ているのか、参考にせよといわんばかりの物や事に出会う、ということを度々書いてきた。今回笛吹き役をお願いしたMさんがK本にいるというので行くと、いつももぎ立てのピーマンをいただくSさんから、30年前に作った物を昨日預かったという。もと大工で現在80過ぎのSさんが、自分が死んで、こんな物が残っても、と持ってきたそうである。紙袋を開けてみるとでてきたのは全長50センチの木製の男性器であった。私の想像であるが、子供のいないSさんが願いを込めて作ったものではないだろうか。謹んで撮影に使わせてもらうことにした。 それにしてもこういう出来事は、いったいどう解釈すればよいのであろうか。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最近Kさんは朝から飲まなくなったので、一日中泥酔して怪我をしたり周囲に迷惑をかけることがなくなった。夏バテ気味だとか、他にも理由はあるが、それはともかく喜ばしいことである。房総で大はしゃぎしたのが今のところ最後である。口癖の死んでも良いを連発した翌日、はしゃいだ原因が帰ってしまい、屍のようにニコリともしなくなった晩。ベランダにイタチ、カワウソの類が一瞬表れた。ニホンカワウソは絶滅したと公表された。あれはなんだったのであろうか。ハッキリしているのは、いわゆるキツネ色ではなく黒かった。  

制作中の泉鏡花作『貝の穴に河童が居る事』は河童が自分の腕を折った人間に復讐するため、鎮守の森の姫神にあだ討ちを頼みに行くという話であるが、そんなこととも知らない三人組は、河童の術で酒に酔ったかのように踊りながら街中を行く。踊るシーンはもう一つ。鎮守の森の神様に障ってしまったのでは、と鎮めるために踊る。この2カットが完成した。綺麗な着物を来た人たちがすりこぎとしゃもじを持って踊っているのである。人に見られるわけにいかない撮影であった。
出版社が潰れて廃版になってしまった私の初出版は江戸川乱歩である。12人の作家を扱った2冊目。そして3冊目が泉鏡花になるのだが、趣は異なるが、乱歩と同じく鏡花も相当幼児性の強い作家である。私がこの二人選んだのは偶然ではなく、クレヨンを握ったまま寝てしまい、体温で溶けてシーツを汚して叱られた頃と変わらない陶酔感を感じている私も、幼児性に関しては御同様のようである。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ベランダの物干し。そうとう頑丈な物を選んだが寿命が来た。頑丈さを謳うだけあり、洗濯ばさみが外れることはなかったが、紫外線による劣化であろう。端の洗濯ばさみから次々に砕けはじめた。自然に回転していたせいで、申し渡したように両サイドから中心に向って砕けていく、面白くなってそのまま使っていたが、ついに本体が折れ破れ傘のようにぶら下った。再び売り場で最強と思われるものを選んだ。
先日書いたように、人間共が予定より生き々としてしまい、その分、それに対応する異界の者達の再考を迫られている。 赤背黄腹の蛇が登場する。人間の脚に絡まって異界に連れてくる役割であるが、張り切って登場するわりに、人間の信仰心に気づいた姫神にそれを止められ、なんら仕事することなく終る。女顔のミミズクと違って赤背黄腹以外、特徴は描かれていないので、ただの蛇のつもりでいたが、半日かかって石段にそわせ、異界の住人らしく変えた。これで異界の方針は決まった。 暗いうちから始めて、すで暗くなっている。Mに行くとKさんと、Kさんの後輩の現役のトラックドライバーのSさんがいた。Kさんに“荷物運んでた人がお荷物になってどうする”と上手いこといった若い彼だが、携帯に入れた完成したばかりの異界の蛇を見せると、画像を見た後、私の顔を見比べるように瞬間見た。「今、なに馬鹿なことやってるって思ったでしょ!?」「いやいやそんなこと思いませんよ!」感心されるくらいなら呆れられたい私である。トラックドライバーに呆れられないでどうする。という話である。 もう一人ドライバーが加わり愉快に過ごす。パチンコが出たというSさんにご馳走になってしまった。

去の雑記
HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »