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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日から原稿に合わせ、今まで完成しているカットを並べて全体のバランスを考えている。 河童の造形からスタートし、梅雨雨をあてこんで房総に撮影に行き一適も雨降ららず。次に芸人の3人組を撮影したが、撮影に向かおうと歩いていると黒雲が湧き出し、帰りには晴れ間、という、どう考えても誰かがわざと電気を点けたり消したりしているようにしか思えず。結局2回に分けて撮影した。何度も書いているが、これが私の想定より面白く撮れ、全体の底上げをすることになり異界の物共は後回しにし、最後に仕上げることにした。そして実に良い素材を撮影できた漁師の若者二人。 原稿の進行にあわせ配置していくと、芸人3人のシーンに隙間があるように感じられてきた。来年早々、3度目の撮影をすることに。私のほうも、ハードルを上げられてしまったおかげで、そう見えてきたのであろう。それに笛吹きの妻の踊りの師匠が、河童に化かされて踊らされたり、上から飛び込んできた大魚にビックリしたりの表情は最高なのにかかわらず、澄ましていたり、普通にただ座っていたりするカットが、ことごとく目をつぶっている。当初はあれだけ撮ったのだから、とたかをくくっていたら、目をちゃんと開いているカットが1カットしかない。その場のノリばかりを優先し、チェックしなかった私が悪いが、こんなことがあるとは思わなかった。当人はつぶってはいけない、と意識しているにもかかわらずである。撮影現場をビデオにとって、どれだけすごい瞬きを始めるのか確かめてみたいものである。前回の撮影では、全員が知り合いであることを利用し、普通に談笑しているところを撮影したが、漁師の若者二人に使った、表情を作る方法で一人づつ撮ってみようと思う。 K本に行き、笛吹き役のMさんと話していて、来年の干支が蛇だと知った。そういえば年賀状をまだ作っていない。作中に赤背黄腹の蛇が出てくる。実際に蛇を撮影したカットを元に制作したが、なんだか赤い透明なゴム製で、中から発光しているようになってしまった。まあ堅気?の蛇でなく、異界の住人ということでかえって良いだろう。 この蛇は、脚にからまりどこへでも連れて行ってしまう能力があるようである。しかし行動は迅速だが、結局、お前らはいらない、ということになり、活躍する場面はないが、絡まったらこうなる、というカットを制作してある。河童が見初めた娘のふくらはぎに絡まる蛇である。堀辰雄はこの作品を「なんと色つぽいのだらう」と評した友人の話を書いている。かなり想像力の発達した友人のようだが、色気といったら、作中、お転婆だから行き遅れているのだ、といわれてしまうこの娘が担当するしかない。この作品を手掛けなければ、娘のふくらはぎに蛇をからませる機会はなかっただろう。十二分に食い込ませてある。無言でこんな年賀状が送られてきても、と考え、台詞を横に抜書きしておくことにしよう。

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『貝の穴に河童が居る事』の原稿を持って、パソコン内の完成しているデータと照らし合わせる。展示会場で仕事。忙しい作家のようにみえる。 ただシャッターを切っただけのカットはわずかであり、1カットに数日かけてきた。ここまでくると無駄にはできないし、無駄になるカットを作ってもいけない。今回つくづく思ったのは、読書は読むためにするものであって、“作る”ために読むものではない。特に鏡花は鏡花独特のリズムがある。あまりディテールにこだわって読んでいると、せっかくのリズムの味わいを阻害することになる。逆にいえば、けっこう勘違い、読み間違いをしていたことが判った。読み間違いの結果、作中ありもしない山道を作ってしまった。これがなかなかのできで、未練がましく消去できないでいる。編集者は雰囲気があるからいいではないか、というが、私は基本的に作者にウケることを想定して作っている。やはり違うと知ってしまって使うことはない。 画の多さからいうと、挿絵というより絵本に近い。某社の解説者でさえ、頭の中に事実と違う画を浮かべているくらいである、今回、普段鏡花など読んだことがない一般人に出演をお願いしたわけだが、事前に読んでもらっても、何をいっているのか判らない、という声が多かった。本来、そこまで描いてはダサい、という場合も、それらの理由からそうはならないであろう。 今回会場には、九州帝国大学医学部の卒業アルバムを展示している。重量もかなりある大判のボロボロである。国立にお住まいの西原和海さんにご来場いただいた。夢野久作を作るにあたり著作を拝読させていただいた。写眞帳を熱心にご覧になっていた。貴重であることは確かのようである。制作中、ときたま枕にしてしまって申し訳ない。正木教授のモデル下田光造を見て『ドグラマグラ』の桂枝雀にそっくりなことに、見た方はだいたい驚く。 今回の展示は、数年前に発表したものであり、わざわざ来ていただいて、見たことあるよ、では申し訳なく、私からはあまりDMを送っていない。芳名帳をみると、それでも来ていただいた方があり有難かった。やはり一度観ていただいている新保博久さんにも来ていただいた。前回『白昼夢』の亭主に殺され、バラバラにされ、死蝋化されてショーウインドウに飾られてしまった女房。私は首とトルソとして描いたが、制作後に五つに解体されているので首は切断されていないないことに気付いた話をさせていただいた。講談社版の横尾忠則さん以降、私の知る限り6つに分けるのが通例となっている。 地元へ帰り、来年スタジオを借りて音を出そうといっているトラックドライバー2人と飲む。何故か関係ない小さい爺さんが横にいる。ドラムを叩くメンバーがいないが、酒も飲まず、酔っ払うこともないドラムマシーンで済ませることに衆議一決。

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何度となく書いているが、集中して制作していると、これを使え、あるいは参考にせよ、などと、まるで私の制作する様子を、高いところから眺めている存在があるかのようなことが起こる。 制作中の作品には、不可欠な生き物が登場する。それはおそらく爬虫類より飼う人も少なく、そこらにはいない物であろう。ずっと検索していた。都内にもいることはいるのだが、オフシーズンだったり、ハードルが高そうな施設だったり、今ひとつであった。関東圏内に範囲を広げれば、たとえば千葉県の自然豊かなあたりまで行けば、撮影可能な施設はありなんとかなりそうである。 そうこうしていたら、その生き物と身近に接することができる店を、数駅の距離に見つけた。しかも10月にオープンしたばかりで、まるで私のために用意したかのようである。やはりこういうことは起きるものだな。と思っていた。ならば慌てることはない。悠長に構えていた。だがそんな私に早く撮れ、という天の声であろうか。自宅から2百メートルも離れておらず、T屋から数10メートル。T千穂から見えるところに“それがいる店”ができることを知った。これはいったいどういうことか?このネットカフェにもその店の前を通ってきたが、近日オープンの張り紙があり、あれだけ探したそれがいた。不思議としかいいようがない。このまま放っておけば、隣人がそれを飼い始めることは間違いないであろう。

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一日  


人間の登場人物の撮影が終了した。終わってみれば丁度七人。K本で志村喬かユル・ブリンナーの調子で酔客の品定め。この人は誰に使えそうだ、などとやっていたのは随分前のような気がする。最初に作り始めていた河童、姫神、灯ともしの翁はしばらく手付かずの状態であったが、それは素人の劇団の面々の意外な奮闘に、当初考えていた異界の描き方にレベルアップの必要が生じてしまったからである。そこに予定数を越えて制作してしまった漁師の二人。導入部に厚みができた。しかしこ のまま放っておいたら、人間が主役になりかねない。自分で制作していうのもなんだが、それだけは阻止しなくてはならない。後半は異界の住人がほとんどなので、是非盛り上げていきたいものである。

夜、T千穂にて4月に亡くなった飲み仲間のミドさんを偲ぶ会。本来照れ屋のミドさんのこと。そんな集まり恥ずかしいから止めろというだろうが、ポックリ逝ったあんたが悪い。もっとも献杯をすませてしまえば、いつもの飲み会と変わらない。久しぶりの顔もあり、良い集まりであった。 途中から、頭をぶつけ過ぎたせいで、いつもニコニコしている人物が呼ばれもしないのに入ろうとする。みんなは性質の悪さを知らないので、小さな野良犬が紛れ込んできたぐらいの調子でいじっているが、何かしでかしてからでは遅いので追い払うが聞こうとしない。良い人から死んでいくというのは本当のことだとつくづく。

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漁師の二人が4時過ぎに来てくれた。心配だったのは坊主頭が伸びてしまうことであったが、気になるほどではない。今日はフンドシでなく上半身だけだが、それにしたってどこで撮影しても良い、ということでもないので、マンションの屋上に来てもらった。前回、全身が入ったカットが多かったが、彼等の顔が気に入ったので、もっとアップで撮ろうと考えた。もう何を撮るかは決まっている。大魚イシナギを丸太にぶら下げて運ぶ横からのカットと、今俺達が遭遇したのは河童か?と話し合っているところである。そのカットは向かい合ってやってもらえば、自分達は寒い中裸で、屋上で何をやらされている、と笑ってしまうだろうから、一人ずつやってもらった。 プロであったなら、それこそ「畜生。今ごろは風説(うわさ)にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。」とかなんとか言いながら演じてくれるだろうが、こちらはドが付くシロウトである。そこで今回多用した方法を取った。一応シチュエーションを説明した後、眉間あたりの演技をしてもらい、“ア、イ、ウ、エ、オ”といってもらって撮影。途中、笑わないよういったが、良く見ると笑っていない。図体のやたらと大きい二人だが、人柄が出ていて、目元にケンがないというか優しく穏やかな雰囲気がある。なるほど、私が彼らに決めたのはこれか、とファインダーを覗きながら思ったのであった。 合計5分もかからなかったであろう。前回風邪をひいて延期になった彼は、まだいくらか鼻声であった。K本で一杯、と思ったが、彼らがバイクで来るといっていたのを忘れていた。別れた後すぐ制作開始。物語の導入部だが3カットのつもりが増えてしまった。しかしここでの若者が、後に登場する柳田國男演ずる灯ともしの翁の年寄り臭さや、河童の不健康さまで強調してくれれば良いと考えている。

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本日、漁師二人の撮影予定であったが、一人が風邪気味ということで延期。何しろ屋外で上半身裸になってもらわないとならない。 先日人形撮影時に予期できない要素を画面に入れる話を書いたが、今回人形と人物の撮影をしてみて、何が面白いといって、人間が、私の想定外のことをした時に限って面白い。これは乱歩作品のビジュアル化をしていた時には考えたこともなかった。 長い間制作してきた。近頃は頭の中でイメージさえすれば、いずれはおおよそ思った通りの物が目の前に出来上がる。そこに思った通りではない要素をプラスするのが、私にとっての写真の役割といえるであろう。特に人間との共演は、私が造形したわけでない、生身の人間を加えることにより、刺 激や動きをもたらしてくれる。飲み仲間や近所の、いわば素人中の素人を使い、なおかつ、たいしたアドバイスもせず自主性に任せてしまう理由はそこにある。というのは後で考えたことである。 正直いうと自分の作品、さらに出版を前提にしている作品に、ここまで放ったらかしにしていいのか 、という気持ちがないわけではなかった。しかし私の口から出るのは、「それで良いです」「かまいません」「それでいきましょう」。ばかりでただ笑っていた。 常日頃思っていることだが、表層の脳はたいしたことがないが、頭以外に、もう少し性能の良い物がどこかに備わっていて、そうせずにいられ ない場合は、そちらに任せたほうが結果が必ず良い。実に悲しむべきことではあるが、私が頭を使って励んだことで結果が良かったことなど皆無といってよい。だったらそんなボンクラ頭など使わず直感で行こう、というのは当たり前の話である。しかしその最中は、なんでそうしているか判らない場合が多い。それではまるで馬鹿みたいなので、初めから考えてそうした、という顔をしているのである。 踊りのシーンの撮影の時のことである。鎮守の森の神様の機嫌をそこねたかと三人が踊りを奉納するシーンである。さてもう一カット、という時に、出演者の一人がトイレから出てきた。手には縦に裂いたトイレットペーパーを持っているではないか。それをヒラヒラさせて踊ろうという訳である。なんてことを?!即採用!!

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未知の方から大きな魚イシナギはあのイシナギですか、と質問をいただいた。半分そうだといえるが半分は違う。これは当初、最初に頭を悩ませた問題であった。ネタばらしになってしまうが、完成まで間があるし、当ブログの読者数もたかが知れている。それに私としても、近所の酔っ払いの話より、できれば制作に関することを書きたい。 おっしゃるとおり、ネットで検索しても判るが、鏡花が作中『かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって』と書くように、一メートルなど軽く越してしまう魚である。今では高級魚であるが、マグロのトロと同じく、昔は脂の強い魚は好まれなかったのか、以外に安価なことに鏡花も作中驚いている。だったら村に持ち帰って自分達で食べようと二人の漁師は考えたのであろう。いわゆるクエ、アラ系統の鍋にして絶品の類らしい。肝臓にはビタミンAが多量に含まれ中毒を起すので、現在は肝臓を取り出さないと販売ができないという。 そう簡単にあがる魚ではない。仮にどこかの市場に入ったとして、運良く撮影できたとして、まず合成する背景と市場の照明が合わないだろう。丸太に吊るされて漁師に運ばれるのだが、それがドンと寝ころがっているのを撮ったところで、吊るされているようにはならない。しかもそれだけでなく、死んでいるはずが『ヌサリと立った』などという演技をしてもらわなければならない。 編集者は粘土で作ったらどうか、とかスズキで代用したらとかいっていたが、潔癖症の鏡花が、だからこそというべきか、この魚に対し、無残にも血を滴らせた描写をしている。おとぎ話のような話であるが、ここは本物にこだわった。いつもいっているが、嘘をつくにはホントを雑ぜるのがコツである。そこで考えたのが小さなイシナギを入手し、巨大に見せられないか、ということである。かつて40センチ程の瀬戸内海産のタコを、巨大化させた経験がある。そこで検索して網で獲れたイシナギの幼魚を販売している岩手県の店をネット上に見つけた。それで安心してしまったのだが、さてそろそろ撮影を、と思ったら、そのサイトがネット上にあるだけで反応がない。更新した日付を見ると、どうやら震災のために移転、もしくは廃業したようである。 それでも制作の合間に検索し続けていて、青森に毎日入荷した魚の画像をアップしている鮮魚店があり、その中にイシナギを見つけた。さっそくメールをすると、これからシーズンで40センチクラスの網にかかった物が入るので、入り次第メールをくれるという。そしてクール宅急便で到着したそれをマンションの屋上に持って行き吊り下げ、自製の血糊をかけ(演劇用の血糊を入手したが、魚の血の感じとは違った)撮影した。撮影中子供がニ、三人上がってきた。面倒臭いと思ったが、屋上で血だらけの魚をぶら下げ這いつくばって撮影しているオジサンに話しかける子供はいなかった。イシナギは撮影後、すぐにT千穂に持ち込み、刺身と潮汁にて無事成仏。

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ビートたけしの『アウトレイジ』は2作品観たが、役者かどうかさえ判らない登場人物がリアルである 。お茶の間でお馴染みの役者は殺されても、お疲れ様、とでもいいながら起き上がりそうなのはしかたがない。そういう意味においては、私の知人、またそのツテのみでキャスティングしている制作中の作品は、誰も知らない演者ゆえに、私が漁師だ、と決めたら漁師である。
昨日撮影の二人。一人は麦わら帽子、一人は鉢巻である。麦藁帽子は使いたおした物を借りていて、おかげで取り出した時点で、一部破れ傘のようにりリアに破けた。私が鉢巻用の手拭を忘れてしまい、念のため持参してもらっていたフンドシ用の白いサラシを裂いてもらった。二人のうちどちらが帽子で、どちらが鉢巻でも良かったので任せたが、一方の彼の使用感の出たフンドシを鉢巻にするのを、もう一人が「俺は嫌だよ!」と拒否。隣りの部屋で彼等の笑い声を聞いていて、弥次郎兵衛と喜多八コンビのような二人をイメージしていたので、今日の撮影は上手くいくだろうと確信した。 小雨がパラつく中撮影が終わり、撮影場所のマンションの駐車場から引き上げる途中、1カット思いついてしまい、急遽上半身だけ裸になってもらった。 今回、出演者全員、顔で選んでいる。彼等も当然そうだが、大きな魚を担ぐだけに、全身をとらえたカットが多い。そこで彼らの顔を生かそうと、とっさに思い付いたのは、突然出合った河童に驚いて二人は一旦は逃げてしまう。恐る々、イシナギを放りだしたままの神社の石段の下に戻ってみると河童はもういない。河童が登っていったであろう石段を呆然と眺める二人。この場面は、石段を見上げる後姿を想定して撮影していたが、せっかくの顔を生かしたい。脚立の上から、見上げる彼らを撮影した。10カットほど撮り終了。後でチェックすると、まさに河童を見た直後の若者二人にしか見えない。目がそういっている。アップにしたら、二人の瞳に河童の後姿が写っていそうである。最後に急遽思い付いたカットが本日のハイライトとなった。 素人の皆さんの意外な演技力に撮影のたびに驚いている。もちろん私が運が良いのであろう。ここに河童がいて、とか大きな魚が上から落ちてきて、といって、ちゃんと頭の中にイメージできる人でなければこうはいかない。また、むしろより肝心なのは、楽しんでやってもらえている、ということであろう。

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朝から曇り空。設定は梅雨時の暗くなりかけた夕刻である。漁師役の二人は寒くて申し訳ないが、画としては絶好の日和である。今回の作品は制作中、イメージどおりの天候に出くわす確立が極端に低く、今日のようなことは珍しいのである。Mさん宅に集合し、私が用意した赤いフンドシに着替えてもらう。神輿担ぎでフンドシには慣れている。二人のうちの一人は、始めにMさんが町会の若者で誰かいないか、相談してくれた若者で、顔が良いので、そのまま出てもらうことにした。Mさんを子供の頃から知っていると聞いていたので、撮影の前に、Mさんがこのぐらいやってくれたのだから、とMさんの名演技を見せた。少なくとも神妙な顔をして演ずる作品でないことだけは、伝わったであろう。 二人には巨大魚イシナギを丸太で担いでもらうのだが、めったに獲れないというイシナギはすでに撮影済みで、様々な場面で登場してもらっている。今日は特に物語の冒頭の重要なシーンである。獲れたイシナギを村に運ぶ途中、神社の階段のふもとで河童に出くわし逃げ出してしまう。恐る々引き返してくるが、河童の姿はすでにない。 マンションの駐車場に移動。合成のために切り抜きやすそうな塀の前で演技をしてもらう。もともと仲の良い二人だけに、楽しそうにやってくれた。見ず知らずの二人にフンドシ着けてもらっても、素人では、この雰囲気は出ないであろう。  今回身近な素人に出演してもらっているが、誰一人としてカンの鈍い人はおらず、簡単な説明の後は、それぞれが自分で考えて演技をしてくれる。私がああだこうだいうより、任せてしまった方が良い場合が多かった。これは嬉しい誤算であり、おかげで今日もファインダーを覗きながら、まるで房総の漁師そのもののリアルさに笑ってしまいながら、あっという間に終わった。念のために、とか押さえに、などとグズグズ撮影していると、その了見が集中力を阻害するだけでなく、すでにカメラに収まったカットもカメラの中で腐る。というつもりで撮影に集中した。

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朝寝ぼけ眼で『貝の穴に河童が居る事』を読んでいて一気に目が覚める。 房総で撮影してきたカ ットをもとに作った風景の間違いに気付いてしまった。人を妙な世界に引き込むテクニックは鏡花が日本一だと思っている。二つの場面を平行に進めながら、あっちへ行ったり戻ったりすることがある。同じ時間として描いた部分を、数分の時間のずれがある、と解釈してしまった。数分とはいえ、イメージ上ではかなりの変動がある。時間にずれがあるのだから、この道はここにこうでなければならない。と作った。このカットだけならまだしも、この風景が遠方に見えたり、その道筋からいって、この辺りは当然こうであろう、など、その場面の影響が大きいのである。いったい全部で何日かかったであろうか。鏡花の文章から、見逃さないよう解析して場面を制作していたつもりが、寝ぼけ眼のおかげでかえって鏡花の妖術が素直に入ってきたということであろう。つくづく読書はただ楽しみでしなければならない。 参ったなァ。仰向けに大の字に寝ころがったところで、外壁補修の業者のおじさんとカーテンの隙間ごしに目があってしまった。“判ったよ。今日はロクなことはないだろう。止めた。 ギターの糸巻きの部分、ペグを付け替えることにした。ビンテージといえば聞こえが良いが、かなりボロい。しかし入手した部品は、ギターヘッドに左右対称に3つずつ取り付ける用で、一列にならんでいるギターには3つしか取り付けられない。判ったよ!今日は何もしない。
K本は本日常連で過ごす、恒例のお酉様である。昨年どこかのサラリーマンが、見たこともない連中を大勢連れてきて常連の座る席がなくなった。女将さんはそれを心配していたが、今年は酔っ払いも返し、無事納まった。 娘の同級生に、森鴎外の直系の娘がいる、という人がいたので、ひょっとしてお母さん?大昔の『月刊太陽』の鴎外、漱石特集のグラビアに、鴎外の孫娘が写っているのでわたす。アヒルをペットにしていた。鴎外以降、そこらにある名前をつけないのは一族の伝統のようである。 某町内会の若者二人。フンドシ一丁の撮影日が決まった。おそらく今頃、180センチ超と190センチ超の二人、ひまを見つけては腹筋や腕立てをやっているだろう。それならば撮影の直前、寒いことでもあるし、バンプアップタイムを設けることにしよう。ボデイビルの大会では直前に筋肉を酷使し、一時的に筋肉を膨らます。三島も取材の前には必死でやっていたのは間違いない。それが何時間保つのかはしらないが、ある程度もつのだとしたら三島は市ヶ谷行く前に“最期の仕上げ”をしたことであろう。出かける直前、村田英夫に紅白連続出場のお祝いの電話をしたくらいだから、そのぐらい余裕である。

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鎮守の森の姫神様に仕える、灯ともしの翁の柳田國男がほぼ完成である。河童が神社の長い階段のふもとで漁師の二人組みを驚かせ、階段をとぼとぼ登り、最初に顔を合わせるのが翁である。初登場シーンをまず制作しようと考えている。地べたにひれ伏した河童の目に映った神主姿の柳田。作るのがもったいないような気がする。しかしそんなことをいっていると私の癖の一つ、作り惜しみをして作りたい自分を盛り上げ、我慢できなくなるまで自分を焦らす、という癖がでてしまうかもしれない。快感を得、長引かせるためにはどんな手でも使う私である。 しかし異界の住人の翁。ただ逢う魔が時の境内に立っている老人、ということで良いのであろうか。ちょっと頭を絞りたい。 せっかくの河童と柳田の対面である。何カットか考えているが、必ず作ろうと考えていた場面がある。クライマックス直前、人間に腕を折られ、あだ討ちを頼みに姫神の元を訪れた河童の三郎は、色々あって機嫌がおさまり、住まいの沼に空を飛んで帰ることになる。それに際し、町は行水時である。道中、また若い娘のスネでも目にして、フラフラと舞い降りてしまいかねない。そこで翁はカラスに向って三郎の見送りを頼むのである。『漁師町は行水時よの。さらでもの、あの手負が、白い脛で落ちると愍然(ふびん)じゃ。見送ってやれの――鴉、鴉。』河童の後見人?たる柳田にいわせたいセリフである。 実は翁のいいつけに耳を傾けるカラス2匹は、翁の灯した燈籠の上に随分前から待機している。

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夕方、漁師役の候補者がK本に来てくれるというので出かける。人間部門の撮影で残されているのが漁師の二人である。某町会の神輿を担ぐ若者の中から選ぼうというわけだが、一人は候補探しをお願いしていた彼に決める。初めて会ったときツラ魂は即合格であったが180センチを超える体格で、イメージからすると大正あるいは昭和初期の漁師という感じではない。しかし現在都合よく顔は良いは胴長短足だは、とそう都合良い若者が見つかるとは思えないので、やはり顔で決めることにした。 もう一人は彼の相棒のような存在らしく、撮影に際しては、その方がノリが良くなるのは間違いがない。ただ墨を入れていて、それが洋風なのが問題であるが、幸い面積が広くなさそうなので消させてもらうことにした。 ところが立ったら190センチを越えている。二人には丸太で巨大魚を担いで運んでもらうわけだが、凸凹コンビも面白いと思ってはいたが、180センチ超の彼がまさか凹の方になるとは思わなかった。おおよそ150センチクラスのイシナギを担いでもらうのだが、ぶら下った尾っぽはほとんど地擦れで、と描かれている。この二人に担がれてはイシナギもだらしなくぶら下ることになろう。かなりサイズアップを要する。 二人は幸い河童以外、他の人間と接触する場面がないので助かった。他の人物とのかねあいで、漁師も普通サイズの人として描くとしたら、ただ縮小すれば良いわけではない。190超の彼など頭が大きなオニギリ程になりかねない。かといって頭だけを大きくすれば、本人もふくめ悲しむ人もでてくるであろう。 撮影までの間に無精ひげでも、といってくれた。昔の房総の働く漁師であるから、その方が感じがでるであろう。撮影の直前に、それにそなえて床屋に行かれてしまった旅館の番頭さんの例もあるから気をつけなければならない。 フンドシ一丁になるので、撮影までに身体を鍛えるといっていた。三島由紀夫ならずとも、そういうものであろう。

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岡山より旅館の看板用の筆文字がようやく届く。初個展のDMのタイトルを書いてもらった、20年は会っていない友人に7月にお願いしたのだが、自分よりお袋のほうが上手い、と実際看板や石碑の文字を頼まれるというお母さんに書いて貰うことになったが、緊急に手術をされたとかで、ようやく届いた訳である。結果は待ったかいがあった。幼稚園から小学4年まで習字塾に通った程度の私が書かないで良かった。 イメージは田舎の老舗旅館が創業当時、地元の名士に揮毫を頼んだ、という雰囲気である。Sさんは母親が気に入ったものがなかなかできない様子だったので、自分が書いた物も送ってくれたが、何も聞かずに私が選んだのは、お母さんの書かれた文字であった。病み上がりのお母さんには、ご迷惑をおかけしてしまったが、しかしこうして書かれた文字は、複写されデジタル化され看板に合成され、網点により印刷されても、変わらずそれだけの効果を発することを私は知っている。

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妄想  


入手した日本髪のカツラは、おそらく貸衣装屋あたりから出た高島田である。花嫁用の、もちろん独身者用なわけで、実際は40くらいの女房の丸髷に加工しなくてはならない。一般の花嫁が使う高島田に対して、丸髷の需要が少ないのは当然で、手頃な中古となると高島田を選ぶしかない。 撮影時には、日本髪について調べている余裕もなく、あとで合成することに決めていた。気持ち悪いだなんだ、といいながら、櫛、笄など入手したこともあり、合成を始めている。それにしても自分が始めたこととはいえ、島田と丸髷の違い、笄の使い方、使われる布は手柄という、等々、いちいち知らないことばかりで大変である。それに素人と玄人の違い、年齢、身分により様々だ、というのだから、私がこの件を後回しにしていたのは、人毛のカツラの薄気味悪さだけではないのである。 しかしこんな物を入手し、着物に関してお世話いただける方が近所にいるとなると、妙な虫が湧いてくるのを抑え難い。もちろん当初考えていた鏡花の『高野聖』も良いが、乱歩、鏡花、と来たら谷崎である。その他、伊藤晴雨であんな場面やこんな場面を作らなければ殺す、と脅迫されたなら、しかたなく?作るであろう。 手持ちの私家版には、日本髪が徐々に崩れていく様子を描いた付録が付いている。いやこんな妄想している場合ではない。まずは鏡花作品を完成させなければならない。いやその前に森鴎外の仕上げをしなければならない。

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柳田國男は仕上げも終わり、着彩を残すのみとなった。鏡花がモデルにしたと思われる神社に柳田國男を立たせ、そして主人公の河童と対峙させる。思い付いてすぐ飲みに行ってしまったアイディア。大事に制作しなければならない。見つめ合う二人。“やっと会えたね”は誰かがいった臭いセリフであった。 冒頭、大魚であるイシナギを担ぐ若い漁師の二人がいる。陽に焼けた逞しい若者でなければならない。この人材ばかりは酒場で見繕うわけにはいかない。「焼けたね海?」。などとうかつにいうと、黒いのは別の理由があったりするので気をつけなければならない。 他の登場人物はより良いカットと入れ替えながらほぼ完成しているが、問題は踊りの師匠である女房の丸髷である。オークションで入手したカツラは独身用の島田なので、そのままでは使えないし、カット数も多いので厄介である。カツラは正確なサイズが判らないので、初めから合成するつもりであった。女房役のK子さんは実際被らないのを残念がっていたし、はやく見たい、といわれているのだが、ぐずぐずしていて最後になってしまった。届いた時、箱をあけ取り出すこともなく、アコーディオンでも入っていそうな取っ手付きの箱は、本棚の上に置きっぱなしである。相撲取りとは違う鬢付け油の匂いと艶が生々しい。人毛でさえなければどうということはないのだが、我ながら口ほどでもなくガッカリである。 近所にヒマを持て余しているオジさんがいるので、持っていてもらって撮影する手もある。普通の神経の持ち主ではないので、どうということはないだろう。

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