goo blog サービス終了のお知らせ 
明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 




寒山拾得図というと、国立博物館収蔵の織田信長旧蔵の道釈人物画で知られる顔輝作が一番だろう。あくまで伝であり顔輝作ではない、という説もあるらしいが、名品であることは間違いない。例のアルカイックスマイルではあるが、グロテスクが過ぎず、発するものも違う。もう一品、顔輝作品で有名なのが『蝦蟇鉄拐図』である。鉄拐仙人と蝦蟇仙人は、日本でも散々模写され、様々描かれて来た。しかしこの二人が、ペアで描かれた理由が良く判らないらしい。何だそれは?という話しだが、そこがまた禅画のモチーフらしく、そもそも寒山拾得自体が良く判らない話である。どちらかというと何でそうなる?ということにこだわる私だが、これらのモチーフに関しては、私の何かが気にするな、といっているので気にしていない。この歴史ある描き継がれてきたモチーフを制作し、その末席にただ座ってみたい。腹の中では『だけど私のは写真だけど。』と思うだろう。 2月に入ったら豊干を作るといいながら、ああだこうだ腹の調子が、とかいってまだ始めない。今始めると、朝始めて夕方にはそれらしい頭部が出来てしまいそうである。こんな時は避けたい。
 
 


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




核戦争が起こった後の世界や、タイムスリップ、ヤクザ社会をモチーフにして始めて描ける世界がある。そういう意味では、元々私小説嫌いでもあったが、あまりリアルな世界より、江戸川乱歩のように“夜の夢こそまこと”タイプの作家の方がやりようがある。そうなると、寒山拾得など仏教や道教の人物を描いた道釈画の世界は、やりようという意味では、一人の作家がイメージした世界以上であろう。 問題があるとするならば、室町や鎌倉時代に流行ったモチーフを今時、と考えると多少流行遅れの感がしないでもない。しかしそれはこれまでの作家シリーズと大差ない。例えば室生犀星の懐からヌルリと金魚が顔を出しているのは、犀星の『蜜のあはれ』を知らなければ意味判らないし、三島由紀夫が何故唐獅子牡丹の刺青を背負っているかというと、市ヶ谷に向かう車中、みんなで歌ったからであり、それを知らなければ何で?ということになる。今さらそんなことを気にする私ではない。それよりモチーフ、作品の変化すなわち私自身の変化であることが肝腎であろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人形は頭部が出きれば出来たも同然である。なので仮に火事にでもあったら、まず首だけ引っこ抜いて逃げるだろう。昨年制作した北斎、芭蕉、三島、太宰はすでに頭部があったので、最後に頭部を作ったのは室生犀星ということになる。実在した人物の場合年6体ペースだが、架空の人物の場合参考資料が要らない分当然制作時間は短い。しかしここまで来て前のめりになっても良いことはない。わざわざ自分を焦らして、という悪癖もあるが。 作家シリーズの最初の一体は、多分澁澤龍彦だったが、それまで黒人ばかり作っていたから脚を4回くらい切断することになった。最初の豊干禅師が基準になろうから、慌ててはならない。最近腹の調子も悪いし。また一つ歳を取る。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





小学生の頃、子供向けの古事記やギリシャ神話の類いが好きで、学芸会で大国主命が主人公の紙芝居をやったことがある。たしかウンコが出てくる話で、別な時には靴下に角や牙を着け東京コミックショーのように八岐大蛇の人形劇風をやったこともある。それを思い出すと、最近、仙人のことなど考えてるし、何だか、これからやろうとしてることとあまり変わらないような気がしてきた。私の創作の原点である“頭に浮かんだイメージは何処へ消えて行ってしまうんだろう”と丁度思い悩んでいた頃であろう。しかし大人に質問しても無駄だ、ということはすでに知っていた。肝腎なことは誰も教えてくれない。金魚を眺めるか、じっと目を閉じるか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




描かれた寒山拾得図を始めて観たのは大分前、千葉の美術館の曾我蕭白展だったろう。奇想の絵師といわれるが、まさにそうで、私にもイカレた人物と思えたものだが、ここのところ、寒山拾得以外のモチーフについて思いを巡らせていると、待ち伏せしているかのように必ず、そこに蕭白がいる。無頼の徒ということになっているらしいが、私にはむしろ、真面目をこじらせイカレて見える、もしくはイカレているのではないか。という気がしている。 まずは明日より豊干の頭部を作り始めることになるが“考えるな感じろ”ブルース・リーにいわれるまでもなく、その点だけは何故か知っている私は、このモチーフ制作には向いている。という気が本日する。ジタバタせず金魚をただ眺めていた。おかげで間に合った。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




思った通り下手な頭を使おうとせず、金魚を眺め暮らして待てば海路の日和あり。これでしばらく作らないでいて、久しぶりに粘土を手にしたら、上手くなっていた。という奇妙な現象を期待するだけである。 しかし幼い頃から、写生、デッサンの類いを嫌っていたのに、約三十年、写真を参考に見ながら人物を作り続けた。少々やり過ぎた。これを取り戻すには、寒山拾得ぐらいでないと合わない、とヘソ下三寸辺りの私が判断したのだろう。 水槽内の寒山役の桜東錦、丸い体型の金魚になりがちな転覆病。腹を上に沈んでしまう。三回目の薬浴。プラス塩。塩は浸透圧の関係で、魚が楽になる。転覆病は原因は色々あるようだが、ひっくり返っていても餌にはすぐに気が付いて、体を起こして食べている。バケツに一匹にしていると、どういう訳か体勢も戻り大人しくしている。一週間は絶食を試す。寒山拾得主役の一匹。作り始めたら死ぬ、なんてことは避けたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


迷う  


寒山拾得は、どう扱えば良いか。当初は昔から描かれて来た場面をただ私なりの方法で制作し、と考えていた。最初に知ったのは森鴎外が『寒山詩集』の序文をもとに書いた『寒山拾得』を読んだことであった。であれば、寒山詩集を編んだ閭丘胤が頭痛に悩んでいたところに豊干が現れる所から、そのストーリー通り描き、そこに四睡図(豊干、虎、寒山、拾得が寄り添い寝ている)などの外せない名場面を差し挟む。だが、そうなると出版するならまだしも、名場面でもない場面も作ることになる。であれば、三島由紀夫のオマージュ展といいながら、芭蕉や北斎、太宰も出品したように、例えば虎渓三笑図のようなモチーフを選ぶか。 棚からボタモチのように降ってくるイメージは結論まで出ている状態で降って来るのに、頭で考えることはああだこうだ迷ってしまう。まあ、両方で私、ということなのだろう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日の虎渓三笑図だが、修行のため山から降りないと決めていた老人が、友人を送って行ったら、話が盛り上がってしまって、気が付いたら、決めていたラインをうっかり超えてしまって大笑い。というバカバカしいような話だが、惠遠は仏教、陶淵明は儒教、陸修静は道教を象徴していて、ただのお笑い三人組ではない。 私は昔から、ホントのことはどうでも良い、といってるわりに融通が効かないところがあり、ヘンに整合性にこだわってみたり。しかし寒山拾得、この虎渓三笑などは俗世離れした味わいがあるが、作り話である。そのせいもあるのだろう。ある場面は実景を使い、ある場面は作業台の上に作った山々、ある場面は陰影たっぷり、等々、かまわないという気になってきた。 長らく制作してきた作家シリーズの中でも、昨年5月の個展『三島由紀夫へのオマージュ 椿説男の死』は、それまでと違い、実際本人がやらなかったことばかりを選んで創作した。そう思うと、架空の寒山拾得の世界も、自覚はなかったものの、喉元まで出て来ていたのだ、と改めて思うのである。もっとも私が自覚出来る程度のことにロクな物などはなく、何故か判らないが、やらずにいられない衝動に準じるべきである。“考えるな感じろ”だって自然物だもの。 表層の脳の出来の悪さ、使い物にならなさ、あてにならなさ加減に小学校の低学年ですでに気付いていたことだけは自分を褒めてやりたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




禅僧が描いたという悪戯描きのような禅画は、そこがいかにも禅的ではあるし、禅僧が描くのだからホンモノではあろうが、やはりアマチュア画であり、へのへのもへ字みたいな寒山拾得は全く趣味に合わない。 平成六年、栃木県立博物館で行われた『寒山拾得 描かれた風紀狂の祖師たち』の図録は、寒山拾得に関しては決定版と思われ、引っ越しの際忘れて来たので昨年買い直した。久しぶりに眺めてみたら。図録の内容がまるで変わったかのように、良いと思う作品が少なくてびっくりしてしまった。“自分が変われば世界も変わる”。その実にコンパクトな感じを味わう。自分の外の世界にアプローチすることなく、こんなことが可能なのが、この渡世の良いところである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






掛け軸は梁からぶら下げると長過ぎて掛けにくかったが、塩ビパイプに巻き付け、短くすることが出来たので『虎と豊干図』をかけているが、隣に『虎渓三笑図』を並べてみようと考えている。禅画のモチーフは面白い。 高僧惠遠は、盧山で三十年間山から下りないと誓い、修行をしていた。客人を送る時も俗界との境界である虎渓という谷を越えることはなかった。ある日、友人陶淵明と陸修静が訪れ、見送る際に話に熱中し、つい虎渓の石橋を渡ってしまった。それに気付いて三人で大笑いしている図である。実にたわいがない。禅画のモチーフは、禅僧、また絵師の作品にしても簡素化されていることが多い。私がもし手掛けるなら、あえて無駄にリアルにしてみたい気がする。 私のモットーの一つに“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”というのがある。2000年、HPを始めるにあたり、身辺雑記のタイトルを危なくそれにするところであった。今考えると、“明日出来ること今日はせず”。似たり寄ったり、どっちがどうというほどのことはなかったけれど。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




絵で描けば良いではないか、という意見はあるが、絵などほとんど子供時代以降、悪戯描きばかりで、デッサンも数える程しか描いたことがない。今でもアイデアスケッチなどしない。 写真で試みるメリットはというと、何度か書いているが、私の人形作品は、拡大すればするほど、作者の意図を超えてリアルになる。もう一つは、被写体のサイズ、メディアを問わず、平らかにすることが出来る。50センチ程の人形に、実景、人間、オブジェ、筆描きの炎などと画面の中で共演させ、一枚の写真作品とすることが可能である。なのでどうせなら『寒山拾得写真展』としたいものだが、私がそれを聞いたら、定年退職した初老の男が長年苦労かけたかみさんを伴って、中国に旅行に出掛け、寒山寺辺りでアナログカメラで写真撮って帰ったのだろう、と思うだろう。呆れるほどつまらなそうである。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


禅画  


禅画とは禅僧が描いた物をいうそうである。そんなことも知らずに寒山拾得もないもんである。もっとも白隠や仙崖など、私の趣味ではない。ざっと描かれた略画的な作品は幼い頃から苦手である。描き込まれていればいる程良く、挿絵が気に食わず手に取らなかったことが何度もあった。とにかく子供向けが嫌なのである。見える物に大人も子供もない。それはともかく。 あの描法こそが禅的なのだろうけれど、性に合わない物は合わない。もっとも私は禅画をどうしようという気はなく、そもそも写真だし。 禅とはなんぞや、ということに関しては、肝腎なことではあろうが、私が寒山拾得を手掛けるに当たり、必要なことは学ぶことになろうし、必要でないことは必要ではなく、それは私が決めることである。なぜなら誰に依頼された訳ではないので問題は何もないのである。 たださすがに歴史あるモチーフである。知ってしまって、やりずらくなることもあるだろう。そのためには、座禅など、せずにいられなくなる前にやり遂げたい。 ほとんど頼まれもしないことばかりで約四十年。これがまさかの勝手に自主的にやっていることを知らなければ、ハタから見たら結構修行風に見えたかもしれない。好きなことばかりで修行とはいわないだろうけれど。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




判っていたこととはいえ、ようやく我に返ったかのように、次第に気になって来たのは、寒山拾得が唐の時代って何だよ、ということである。最初に架空の黒人ミュージシャンを作り始めた頃。始めてスーツを着て、以降、背広を来た人物が登場した。眼鏡を掛けた人物も、始めて眼鏡を掛けるまでは作ったことがなかった。その後、突然日本人の作家シリーズに転向した。さすがに身近な日本人に関しては、どんな物かは頭に入っていたが、それでも泉鏡花を作る前に、着物を買ってしばらく着て過ごした。私は着物を着たことがある。という既成事実を得て、自信を着けようということであったろう。 それがここへ来て中国はともかく、よりによって唐の時代である。数ある寒山拾得図、特に豊干禅師に関しては、これはどう見ても日本の僧侶だろ、という作品も散見する。虎に乗っているような僧侶がこうであってはならないだろう。まだ肝腎の頭部すら作り始めていないのに、今から心配していても始まらないが、しかし作り始めたら余計なことで立ち止まりたくない。今のうちに下地を作っておくべきであろう。今回はさすがに妙な格好で家でウロチョロする予定はないけれど。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




当初奇態な寒山と拾得に対し、豊干禅師は人格者的にし、二人とのコントラストを着けようと考えたが、そもそも豊干自体が、虎に乗る奇人なので、と方向を変えた。 森鴎外によると”唐の貞観(じようがん)のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。” たまたま、まさにこれから日本では大化が始まろうという頃である。誰も知らないからいいや、といいたいところだが、いや是非そういわせて貰いたいが、ぼろ雑巾をまとったような寒山と拾得はともかく、官吏である閭丘胤、またその住まい。豊干禅師、寒山拾得のいる天台山国清寺、またそこの僧侶達、等それぞれ調べることは多い。それには唐時代の絵画など、ある程度は調べなければならない。架空の話でもあるし、せっかく実在した人物達の呪縛から解放されるのに、時代考証など、そこそこにしておきたい。そしてこれは架空のお話しですよ、というためにも豊干の次に手掛ける予定の虎により、何某か基準、また象徴としてみたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




寒山拾得図に関しては、今のところ国宝級でもない限り、あまり気に入った作品はない。元々禅画にありがちな、サッと描かれたような作品は子供の時から好きではない。豊干の図は我が家にぶら下がっているが、この藤本鉄石作品のお陰で、寒山拾得、豊干それぞれが見た目奇怪であるように、豊干禅師に寄り添う虎もまた、勇猛な虎ではない方が、と思い始めている。 掛け軸は梁に掛けると畳に着いてしまったり、スレスレだったり格好の悪いこと甚だしい。そこで掛け軸の長さを調整する巻き上げ用の筒を自作した。竹筒の中に巻き込む物は、竹筒にスリットを開けただけの物が平気で7、8千円もする。そこで塩ビ管を入手し、そこに外側に巻き付けるタイプの物を作った。これで掛け軸の裾に下げる重り兼飾りの風鎮を下げることが出来る。後は下に床の間代わりの板を置きたい。NHKで谷崎潤一郎の『陰影礼讃』を見ていたら、掛け軸を床の間に掛ける際、床の間に上がってしまっていた。外部のスタッフかも知れないが、NHKは存外躾のなってない連中が混ざっている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »