「田舎教師」再訪(PART 1 OF 3)
館林の田山花袋・旧居
小百合さんが(2008年)11月7日(金曜日)に行田にやって来ました。
かつて子供と一緒に行ったという行田市役所の近くの「駒形屋」へゆきました。
(デンマン注: フライマップが不正確に描かれていたので間違えた。実は「珈琲苑」でした。)
ゼリーフライの店です。
行田観光協会のフライマップにも載っている店です。
コーヒーも飲めるので、小百合さんは、この店に行きたくなったと言うことでした。
この店のゼリーフライはオリジナルの“ゼニフライ”に近い味でした。
“オカラ”を使って揚(あ)げた懐かしい味でした。
でも、中に入っている具が、わずかに違っていました。
同じゼリーフライでも、お店によって味が違うのでしょうね。
2008年の日本への帰省は、なぜか不思議に白鳥と縁がある。
館林駅に着くと小百合さんが迎えに来てくれて「花山」へ行きました。
「花山」と呼ぶのは地元で育った40代の人たちが、そう呼ぶらしい。
館林市のガイドマップを見ると「県立つつじが丘公園」と書いてある場所です。
五月ごろ来れば、きれいな“つつじ”がたくさん咲いているのでしょう。
当然のことですが、11月なのでつつじは咲いていなかった。
ところが桜が咲いているのですよね。
11月に桜が咲いている!
ビックリしました。
この写真ほど見事なものではありませんでした。
でも、間違いなく桜の一種です。
小百合さんもビックリしていました。
名前は分かりません。
バンクーバーやバーナビーの植物園のように名札をつけてくれればいいのに!
小百合さんは、そう言っていましたね。
ごもっともです。
旧秋元別邸(最後の館林藩主・秋元家の別邸)の菖蒲園(しょうぶえん)のすぐそばにある橋の近くに
白鳥が3羽居ました。
泳ぎ疲れたのか3羽とも岸辺に上がって草原(くさはら)の上で羽を繕(つくろ)って
これから昼寝するところでした。
小百合さんは近寄るのが怖いと言うのですよう。
40代の女性の怖さを持っている小百合さんにも
こういう童女のような繊細さがあるのですよね。
小百合さんの“かわゆい”ところです。
僕は50センチまで近寄りましたが
その白鳥たちも、人に慣れているようで
全くビクビクしませんでした。
旧秋元別邸の近くに田山花袋が9歳から14歳まで住んでいたという旧居が保存されていました。
田山花袋の『田舎教師』を読んだ事がありますが、
僕の記憶では、主人公は羽生の田舎にあるお寺に下宿して僕の母校・熊谷高校(当時の旧制熊谷中学)に毎日、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて通っていた、というような事を読んだことがあります。
初めて読んだ時、信じがたい事をしていたものだと驚きました。
僕が通ってた頃、校長室の前の廊下にガラス張りのケースがあって、
その中に旧熊谷中学校第三回卒業生の写真の中に、
田山花袋(訂正: 小林秀三)の少年時代の姿を見たことがあります。
小百合さんが卒業した館林女子高校は田山花袋の旧居から歩いて5分のところにありました。
女子高時代、校門の近くの食べ物屋さんで
ラーメンだか、うどんだか、あるいはカップヌードルだったか。。。
それを買って戻って来る時に校門のすぐ前で、それをぶちまけてしまい、
後片付けをしなければと思ったけれど、
結局、何もしないでそのままにして教室に戻ってしまった。
そんな事をいつだったか小百合さんが書いていました。
12月にバンクーバーに戻るまでに
小百合さんの面白いエピソードが、もっともっと聞けるような気がするのです。
楽しみにしていま~♪~す。
では、小百合さんに捧げる短歌を。。。
館林 季節外れの 桜咲き かわゆいきみに 胸ときめかせ |
『愛しい人 (2008年11月14日)』より
デンマンさん。。。、また小百合さんが桜の園でビキニになている写真を貼り付けたのでござ~♪~ますか?
いけませんか?
小百合さんがビキニになるのは今日のテーマとは関係ござ~♪~ませんわア。
でもねぇ~、バンクーバーは、もうすっかり秋らしくなってしまったのですよう。
マジで。。。、マジで。。。、こんなに落ち葉が、もう散っているのでござ~♪~ますかァ~♪~?
いや。。。上の写真はちょっとオーバーだけれど、朝晩、めっきり冷え込むようになりましたよう。夏は遠くなりにけり!なんですよう。
それで。。。、夏を懐かしむために小百合さんのビキニ姿を再度貼り付けたのでござ~♪~ますか?
そう言う訳なのですよう。。。うしししし。。。
分かりましたわ。。。。デンマンさんがそれ程、夏を懐かしがっているのでしたら、この際、あたくしも。。。
卑弥子さん!。。。あなたは、また。。。、また。。。、十二単を脱ごうとしていますねぇ~。
そうですわ。。。。あたくしも、こうなったらビキニになってしまうのでござ~♪~ますわア。
たらァ~♪~
うふふふふ。。。いかがでござ~♪~ましょうか?
あのねぇ~。。。、卑弥子さん。。。、今日はビキニとは関係ない話題なのですよう。
だから、あたくしも、そう言ったのでござ~♪~ますわ。。。それなのにデンマンさんは、しつこく小百合さんのビキニの写真を貼り付けているではござ~♪~ませんかア!
つまり。。。、つまり。。。、卑弥子さんは対抗意識をメラメラと燃え上がらせてしまったのですか?
おほほほほ。。。デンマンさんにもお分かりになりますかァ~♪~? うふふふふふ。。。
うふふふじゃないよう!。。。卑弥子さん!。。。いい加減にしてくださいよう!いつまでもビキニにこだわっている場合じゃないのだから。。。
デンマンさんが小百合さんのビキニ姿を持ち出すから、このようなことになるのでござ~♪~ますわ。
そろそろ本題に入らないと、また記事が長くなって、あさってに持ち越しになるかもしれないのですよう。んも~~。。。卑弥子さんも協力してくださいよう。
分かりましたわ。。。んで、「田舎教師」の何についてお話になるのでござ~♪~ますか?
僕は8月31日の記事の中で次のように話したのですよう。
田舎教師の主人公・林清三
(実在のモデルは小林秀三)の銅像
。。。んで、強烈だったのは主人公の通学時間だけだったのでござ~♪~ますか?
いや。。。もちろん、それだけではありませんよう。
他にどのようなことが強烈だったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、『田舎教師』の主人公は、廃娼県である埼玉の教師であるため、利根川を越えて娼婦を買いに行くのですよう。
明治時代には埼玉県は、廃娼県だったのでござ~♪~ますか?
卑弥子さん!。。。僕は何度も言っているように第2次世界大戦後に生まれたのですよう。明治時代に埼玉県が廃娼県かどうかということを僕が知るはずがないじゃないですかア!
あたくしは、デンマンさんが娼婦を買いに利根川を越えて群馬県まで歩いて行ったのかどうか?とお尋ねしているのではござ~♪~ませんわ。
しかし。。。、しかし。。。、僕をなんとなく疑いの目で見つめているじゃありませんかア~!?
やっぱり。。。、デンマンさんには、何か?やましいことがおありなのでござ~♪~ますか!
ありませんよう。。。僕が買いに行こうかな?。。。そういう年頃になったら、日本は全国的に1956(昭和31)年に売春防止法が制定されたのですよう。1958(昭和33)年3月以降、完全に「赤線」は廃止になったのですよう。
デンマンさんは、ずいぶんと詳しいのでござ~♪~ますわねぇ~。。。
でもねぇ~、赤線内のカフェーは一斉に廃業したものの、やがて、トルコになったり、ラブホになったり、「風俗」になったりして、現在に生き残っている店もあるわけですよう。
それが強烈だったのでござ~♪~ますか?
違いますよう。
。。。んで、何が強烈だったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、明治の頃には廃娼県と娼婦を認める県があったのかと。。。つまり、地域差があったのか?。。。そう思ったのですよう。
それが強烈な印象となって『田舎教師』のモデル・小林秀三さんをしっかりと覚えていたのでござ~♪~ますか?
違いますよう。
だから、何が強烈だったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、朝4時から5時ごろに起きて4時間歩いて羽生から熊谷まで歩いて通っていたのですよう。。。通学時間が往復で8時間ですよう。
それで。。。?
さらに、『田舎教師』の主人公は、廃娼県である埼玉の教師であるため、歩いて利根川を越えて群馬県まで娼婦を買いに行ったのですよう。。。たぶん、片道2時間かかるでしょう。。。すると往復で4時間ですよう。。。つまり、学校が休みでない時には、夜と昼あわせて12時間歩くのですよう。さらに。。。、さらに。。。、布団の中で娼婦と活発に運動するわけですよう。。。仮に1時間としますよう。。。さらに、昼間、学校で体操の時間があったとしたら、もう1時間。。。合計で1日に14時間も運動するのですよう。。。これだけ運動エネルギーを燃やし尽くすゥ。。。結核に冒(おか)されない方が不思議ですよう。
『田舎教師と熊谷 (2009年8月31日)』より
デンマンさんは、何か間違った事でもおっしゃったのでござ~♪~ますか?
あのねぇ~。。。読み返してみて自分でも変なことを書いてしまったと思ったのですよう。
その「変な事」って何でござ~♪~ますか?
主人公が学生時代と小学校の先生であった時を区別せずに、ごちゃ混ぜにして僕は書いていた。そのために「合計で1日に14時間も運動するのですよう」という事になってしまったのですよう。
言われてみれば確かに、そうでござ~♪~ますわ。。。でも、学生時代に学校から帰って、それから利根川を歩いてわたって群馬県の赤線のお姉さんに会いに行った事だって考えられるではござ~♪~ませんか?
あのねぇ~、いくらなんでも、中学生の時に赤線のお姉さんに会いに行くことは考えられないと思うのですよう。
そうでしょうかしら?。。。もし、当時、デンマンさんが旧制熊谷中学の生徒だったら、絶対に赤線のお姉様に会いに行ったと思うのでござ~♪~ますわ。
卑弥子さん!。。。いい加減にしてくださいよう。僕は青少年の頃は、とっても真面目だったのですよう。10代のうちに赤線のお姉さんに会いに行くなんてぇ、とても考えられませんでしたよう。
マジで。。。?
卑弥子さん!。。。あなたは、まだ僕の言葉を疑うのですか?。。。今日の話題は僕の青少年時代の性問題ではないのですよう。あくまでも「田舎教師」について語るのですからねぇ。。。
分かりましたわ。。。それで、主人公の林清三さんが学生時代ではなく、先生であった時に赤線のお姉様に会いに行ったという確証でもあるのでござ~♪~ますか?
ありますよう。。。「田舎教師」を読めば主人公が小学校の先生をしている時に利根川を渡って群馬県の赤線のお姉さんに会いに行ったと書いてありますよう。
主人公の実のお姉さまでござ~♪~ますか?
やだなあああァ~。。。、違いますよう。僕は「娼婦」という言葉が嫌いだから「赤線のお姉さん」と言ったまでですよう。。。でもねぇ、主人公が赤線のお姉さんに会いに行ったのは、どうやら田山花袋の創作らしいのですよう。
つまり、モデルになった小林秀三さんは、実際には群馬県まで赤線のお姉さまに会いに行かなかったのでござ~♪~ますか?
田舎教師のモデル・小林秀三
(熊谷中学卒業時)
あのねぇ~、小林秀三さんは日記をつけていたのですよう。教師に成って2年目の明治35(1902)年の正月には次のように書いてある。
「ああさても好んでしかも詩人となり得ず、
さらばとて俗物となり得ず」
この頃から結核菌に冒(おか)されて小林秀三は倦怠感に悩まされた。羽生と弥勒(みろく)の1里半の道を往復するのがつらくなったのです。当時は弥勒にある小学校の先生をしていた。
。。。んで、どうするのでござ~♪~ますか?
小学校の宿直室に泊まることが多くなってゆくのです。明治35年の2月半ばには寺を出て小学校の宿直室に寝床を移すのですよう。そして2月末に次のような詩を書いたのです。
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