金容成のブログに引用されたお父様のみ言から読み解く”真実”
4 <混乱を克服する為のお父様による二つの予言>
神様はお父様を通して二つの予言を下さった。最初の予言は1961年2月1日であり、二つ目の予言は1999年10月15日ウルグアイであった。
お父様は終わりの日に、神様が望む人々を見つける為に必ず7年の大患乱があると語られた。お父様が具体的に予言されたことは、統一家の混乱の中で、祝福家庭がどのような立場を取るべきかを明らかにされたみ言であると考えられる。終わりの日というのは、基元節の勝利を成す時であり、父子協助時代が曲折される時期である。ということは、お父様が顯進様を追い出された9年3月8日を基点として7年、15年までと考えられる。したがって、私の主観的な考えでは、お父様が言及された7年の大患乱は、9年〜15年であると思われる。今年は、7年混乱期の最後の年である。偽りの勢力が悔い改めなければならない最後の時期でもある。教権勢力と、つまずいた祝福家庭がこの時期を逃すと、人類の歴史路程において最も悲惨な立場に置かれるのではないだろうか。
1)最初の予言
予言時期:1961年2月12日
神様は人類に対し、終わりの日には7年の大患乱があると予告された。この患乱時期は、6千年の歴史路程における天の悲しい曲折が聖徒たちにぶつかる時です。人間たちの因縁が全て崩れ、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しくあったとしても、その良心が、自身の生涯を主張することのできない時です。
その時は希望がぐらつく時です、私たちが信じる信仰の中心がぐらつく時です。信じてついて行った指導者がぐらつく時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までも全てがみな、ぐらつく時です。
神様はなぜそのような時代を創らなければならなかったのでしょうか。それは、歴史的に苦労された神様に賛同したという価値を与える為です。神様は6千年の間、多くの惨状を見て来られ、多くの曲折にあわれたので、終わりの日にあっては良心だの、主義だの、信仰だの、ということによって中心を立てることのできない環境にぶつけるのです。
そのような患乱の中でも神様を愛するという、そのような困難な位置でも神様と共に生きるという真の息子娘を探す為に、そのような時が来るでしょう。
その為皆さんは、教会がぐらつくのを見ても悲しまず「主義、主張、信仰」が動揺するのを見ても悲しまず、いかなる主権者が倒れるのを見ても悲しまず、自分の父母が変わったと悲しまず、自分の兄弟が変わってしまったと悲しまないでください。
頼りにし、信じていた世の中の全てのものが動揺しても、皆さんの心は泰然でなければなりません。神様は動揺されず、この時も訪ねて来られることを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様の貴重な一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結び与える為の大きな約束であることを知らなければなりません。
そのような位置で天を捕まえて「共に行きましょう」「共に戦いましょう」「共に行動しましょう」と叫んで立ち上がる人を探す為にそのような世の中が必要であるというのです。ですから皆さん、進む道が閉ざされたと失望しないでください。この国が乱れると落胆しないでください。神様は死んでいません。
世界がどんなに騒がしくても落胆しないでください。神様は死んでいません。神様は必ず訪ねて来られます。全てが動揺しても、天に対するひたむきさを失わず動揺しないでください。天に縋り、望みだけは変わらないでください。
その心を変えようと神様が皆さんをどのような苦痛の位置に追いやったとしても、その位置でアボジを叫ぶ懇切な心を持たなければなりません。どのような位置に落ちても、その位置で天の心情の紐をつかみ、上がることに努力しなければなりません。
地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、アボジと共に賛同する立場に立ってアボジの苦痛を知り、アボジが私の苦痛を知ってくださることを信じて、そのような位置でも行くという責任と義務を感じて歩めば、皆さんは滅びないでしょう。
アボジを私のアボジとし、アボジの事情を私の事情として、アボジの心情を私の心情とし、アボジの願いを私の願いとし、訪ねてこられるアボジの前に凛々しく進み「あなたの息子を探すことがあなたの望みであることを知り、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解放することがあなたの事情であることを知り、失われた息子を抱えて愛したいあなたの心情を知りました。患乱と困難の中にあったとしても、私があなたの希望の実体であり、事情の実体であり、心情の実体であります」と自信を持って立つことができなければなりません。このような者がアボジの息子であり、またそのアボジに侍ることのできる者であるということを皆さんは知らなければなりません。
今日、皆さんがこの場を訪れたのは、栄光の中、空中で主に会う為にはありません。天の御座から数多くの天軍天使を従える、そのようなアボジに会う為ではありません。跳弾中に、患乱と共に戦い、苦痛と共に過ごされるアボジに侍る為です。
神様が公平な方であるなら誰を祝福されるでしょうか?そのような者を祝福されるというのです。それでは、皆さんの心にアボジを本当に迎えたいと思うでしょうが、どうすれば良いでしょうか?皆さんが豊かであるとして、豊かな環境で侍られることを望まれる神様ではありません。
大富豪のような贅沢な暮らしの中で侍られることを望んでおられるのではありません。では、どこで侍られることを望まれるのでしょうか?一番悲惨な位置で侍られることを望んでおられるのです。
イエス様が十字架で亡くなられる直前、「わが神、わが神、どうして私を捨てられるのですか」と言いましたが、死の位置でも神様は会おうとされませんでした。死の位置を越えて会おうとされました。なぜ?死亡の線までサタンが侵入した為です。イエス様は、その死亡の線上を越えなければなりませんでした。
今日、私たちがアボジと再会したいならば、人間が避けていくような苦痛以上の位置で天に侍らなければなりません。そんな位置で慰労されたいというのではなく、アボジを慰労してさしあげなければならないのです。私の願いの為にアボジを呼んではいけません。
資料:み言選集11巻97-99ページ 1961.2.12<侍りたいアボジ>
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