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摂理的葛藤の“真実”を読み解くために2 統一教会と清平のルーツ-① (雪風)

2018-06-10 18:15:16 | 摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 

 

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために 2

摂理的葛藤をどう読み解くか!

摂理的葛藤の“真実”を読み解くために1 に続いて雪風さんの引き続きの投稿を紹介します。


統一教会と清平のルーツ-   (雪風)

 

統一教会以前の歴史はさまざまな説があるので、それを整理すれば新しい発見があると思いまとめてみました。「ちゃぬの裏韓国日記」を読んでみると、清平のルーツは「祈禱院」だと書かれています。

 

「祈禱院」が出現した第一期は、1930年代の朝鮮において神秘主義的キリスト教の流れをくむ信仰運動が起こった時期で、後の韓国のキリスト教系新興宗教のルーツにあたる「血分け教」の開祖として知られる李龍道(リー・ヨンド)・黄國柱(ファン・ククジュ)といった復興師達が現れた時期であった。

1930年代後半、黄國柱はソウルの三角山に「祈禱院」を作り「血分け」、「首換え」を教理として「霊體交換」を行った。黄國柱の「血分け教」は、その後も1940年代の中頃まで勢力を誇り続けていた。李龍道・黄國柱の信仰運動は、多くの醜聞を残しながらも、後の韓国のキリスト教系新興宗教のひとつの系譜となっている。

「血分け教」の流れをくむ新興宗教集団は、1945年の解放後南へ下って行ったが、その後も韓国キリスト教の周辺に断続的に現れては、巫俗信仰の断片をその秘儀の中に散りばめた「血分け」儀式を再現し「血分け教」の再生をはかっている。世界基督教統一神霊協会のルーツはこの時代の「祈禱院」に遡るものである。引用終わり

 

雪風コメント

金孝南氏が清平を去って、家庭連合の指導者の一人が役事を始めた時私(雪風)は、これで清平に来る人はいなくなるだろうと思ったが、実際は何も変わらなかった。今までそれを一般教会員の無知から来るものだと思っていたが、どうもそうではないような気がしてきました。

金孝南氏が清平を去っても何も変わらなかったということは、一般の信者は金孝南氏を信じたのではなく「清平」の、ある霊的な力を信じたのではないでしょうか。それは「祈禱院」とおなじような霊的な力のような気がしてきました。このようなことを清平のルーツを調べていくうちに、思いつきました。

それに、家庭連合は宗教団体でありながら、それなりの宗教施設がなかったのも理由の一つだと考えます。清平のルーツを遡ってたどっていくと結局、聖主教団などの霊的集団にたどり着くので、これらをまとめてみました。

 

その前に、分かりやすくするために、家庭連合が主張している、統一教会以前の摂理史観を書いてみました。

http://spfjpn.com/moon/k-j/sc/john/#2-4_1945 2-4. 1945年当時の洗礼ヨハネ型人物より

 

1次摂理

聖主教団の金聖道婦人(西海岸)と元山の白南柱牧師が一体化できず、摂理は次に移る。白南柱牧師  韓国における最初の洗礼ヨハネ的使命者

 

2次摂理

腹中教団の許孝彬女史と李龍道牧師が一体化できず、摂理は失敗

注 李龍道牧師が死亡したのは1933年というのが有力なので、この説には矛盾点が多い。胎内教は平壌でおこった。それが正確にいつかは不明だが、1935年ころのこととされる。聖主教が創始されたのは1935年という説があるので、この二つの教団はほぼ同じ時期であり、摂理史観には矛盾点が多い。

 

以下に、各教団を説明します。

(統一教会の現象学的考察より)

多くの新キリスト教集団のなかで、とくに統一教会の出現に意味を持つものが五つあげられる。統一教会では、その五つの集団が復帰劇でそれぞれの位置を占めていると説く。西海岸の二集団と東海岸の二集団は、それぞれルシファーとイブを象徴し、またそれぞれが「蘇生」と「長成」の二段階、そして統一教会が「完成」段階を表している。これらの団体はさまざまに関係があったといわれるが、これは天使長の位置にあった東海岸側がイブ(西海岸側)に近づいたことに置き換えて説明される。イブの位置を占める集団は、その後韓国に現れる第三のアダム、つまり再臨主を見つけ出さなければならない。

 

1 胎内教(プクジュンギョウ腹中教)許孝彬女史

胎内教は平壌でおこった。それが正確にいつかは不明だが、1935年ころのこととされ、少なくとも1940年から1947年にかけては確実に存在していた。ホ・ホビン女史はキム女史の弟子で聖主教の信者だったし、事実胎内教は聖主教の平壌支部として発足した。ムン師によるとこの教団は千人の信者を集め「12使徒と70人の弟子」はもちろん、キリスト再臨にそなえて花嫁まで用意したという。平壌に豪邸を購入し再臨主に罪なき家庭を築いてもらうため、最適な環境を整えていたそうだ。

1945年朝鮮半島が解放されると、キム・イルソン(金日成)を中心とする共産主義者が北朝鮮を支配した。平壌警察が胎内教の捜査に入り、信者を逮捕して聖衣を押収した。信者は平壌で投獄された。このときムン・ソンミョンも投獄されており、ファン(腹中教信者)ら信者たちと同じ房に入れられた。ファンは再臨主が面前にいるとは信じなかったものの、ムン・ソンミョンに強く惹かれるものを感じた。ファンが胎内教について語ると、ムン・ソンミョンは教えを捨てて釈放をのぞむべきだと説得した。ホ女史も投獄されているのを知ったムン師は、魚の骨をペンに、古い布きれを紙に、埃とつばをインクがわりにして書いた手紙を渡そうとした。こうして手紙を書いている私の真の姿のために祈ってください、釈放のために信仰を捨ててください、とホ女史に懇願したが、ホ女史は信仰を捨てず、その手紙は発見されてしまった。ホ女史は銃殺、ムン・ソンミョンは過酷な拷問を受けた。

腹中教の結末

許孝彬集団の失敗のゆえに、1950年に韓国戦争が起きた時、彼らはすべて虐殺されました。

許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまったのです。

 

2 聖主教団 金聖道女史 西海岸 統一神霊協会と合流した。エバ格の使命者

(ムン師の妻ハン・ハクジャの母ホン・スンエはキム女史の教団に属していた)。

 

(統一教会の現象学的考察より)

聖主教は西海岸にあった宗教集団である。北朝鮮の鉄山でおこり、キム・ソンド女史が率いた。キム・ソンド女史は1920年代の初めにキリスト教に改宗したが、牧師に不倫関係を強いられ思い悩む。なぜ牧師が罪を犯したのか、さらには一般に罪の原因とは何かを理解したいと思い、熱心に祈った。彼女は毎晩、夜中の1時から昼近くまで祈ったといわれる。

イエスその人が現れ、罪の根源は不義であり、エデンの園で果実を食べたことではない、そして十字架で流された血でこれを正すことができる、と教えたという。その堕落と磔刑は神がもっとも悲しんだ出来事だった。しかし今や地上にエデンの園の復帰が待たれている。朝鮮半島は日本から解放され(キム女史には解放の正確な日時が啓示されていた),韓国の新たな救世主は人間の姿で現れて、イエスの未完に終わった務めを成就し、世界復帰を果たす。

来たる主は新しい血統を確立し、主を受け入れる者は身心を清めなければならない。このため婚姻関係にあっても性行為は慎まなければならないとした(キム女史の長男は妻と性交したせいで死亡したらしい、とムン師は述べている)。

人間同士の結婚は真の結婚ではないのだから、男と女は結婚すべきではない。ひとたびエデンの園が復帰されれば、人類はサタンの支配から免れ、男も女も裸体を恥じなくなる。聖主教では肉食が性衝動を強めると信じられていたため、信者たちはもっぱら菜食で通した。

聖主教が創始されたのは1935年。少なくとも一度は裸でも恥ずかしくないという考えが教会での礼拝式で採用されたらしい。統一教会の初代会長、ユー・ヒョーウォン夫人はつぎのように証言している。

大学(梨花女子大学)当局や既成教会が、私たちのことを裸で踊っていると思ったのは「原理講論」の要点が聖主教の教えと似通っていると考えていたからです。聖主教が南(韓国)に来てソウルで布教していると思ったのです。

 

キム・ソンド女史の孫によると、女史は遺書にこう述べていたという。

将来、性的告発を受けて迫害されるような集団や教会があれば、そこが再臨の地かもしれないので、調べにいきなさい。

ユー夫人の証言に出てくる事件の結果、ムン師が1955年に逮捕されると、聖主教の信者たちは、キム・ソンド女史の遺書はムン師の教会のことを指しているのだと結論し、全員聖主教を捨てて、ムン・ソンミョンの世界基督教統一神霊協会と合流した。

 

 

 

 


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