HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

「良心は両親に優る・・・」その2

2018-02-13 07:14:32 | 新しい希望に向けて!

  希望に向けて3

良心は両親に優る・・・2



お父様が済州島・水沢里で語られた、「良心は両親に優り・・・」のみ言をもっと深く考えてみました。



東洋では儒教的価値観が長らく国民や指導者の倫理観として長らく尊重され様々な教育が国民に対してなされてきました。勿論儒教や儒学の果たした役割がとても大きかったことは認めますが、その価値観が却って発展を妨げて来たことも確かです。忠誠の封建的時代には儒教の何上k氏ら固定的な価値観が社会の安定には役に立ったのですが、近代にいたると、その固定的な倫理観が社会の発展を阻害するようになってきました。

儒教、中でも朱子学が主張した倫理観は、主君に対する忠や親に対する孝が強調されてきました。その価値観が行き過ぎると、主君や親の言うことには絶対従わなければならないという固定的価値観を産み、先進的な科学技術や様々な政治手法を取るようになった西洋諸国が進出するにつれて、時代の発展に取り残されるようになって行ったのが東洋の諸国でした。幸い日本は、東洋の諸国の中ではいち早く西洋の思想や文化を取り入れることに取り組み、明治維新を通して西洋諸国に匹敵する文化や経済を有する国家に生まれ変わって行きました。



親の言うこと、先生の言うこと、主人の言うことは絶対と教えられた

儒教、中でも朱子学は長らく東洋の政治理念、倫理観として国家の指導者のみならず、一般国民教育においてもその価値観が繰り返し教えられてきました。

その中で強調されたのが「忠孝」ですが、この儒学(朱子学)が教えた忠孝は、今にして思うと明らかに主体側の親や先生や主人を絶対化して、親の言うこと、先生の言うこと、主人の言うことは絶対であり、それを絶質的なものとして信じ従うことが美徳とされるように教えられてきました。

もとより、儒学は国家社会の指導者となる、中国や朝鮮半島の諸国で長らく行われてきた科挙試験の学問となり、それは本来指導者が持つべき倫理観、道徳でしたが、数多くの国民や被指導者の側には教えられるものではありませんでした。

却って科挙試験に合格したという国家の管理者たちは科挙試験と言う難関を突破した優秀者であり、四書五経を丸暗記して諳んじる能力が指導者の資質として尊重され、逆に四書五経を暗唱する能力さえあれば実態がいかなるものであっても、高い地位や名誉を得るものとなって行ったのです。

そこで「自分たちは選ばれた者」という、傲慢さが生じるようになってきました。このような経過の中で儒教が本来あるべき指導者の倫理的・・・、ここでは思いやりの深さや愛情のような人格的資質ではなく、「学問を治め科挙の試験に合格した我々の言うことに従えばよい!」という、最近はやりの言葉を使えば「上から目線」そのものの行政が行われるようになってきたのです。国民や目下のものは、ただ優れた能力のある上のものに従順に従いさえすればいいということになっていったのです。



(続く)


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