HOPE 

Day of Hope「希望の日」の到来は間近!

善主権と悪主権

2018-03-05 10:20:11 | 新しい希望に向けて!

 

復帰摂理には神を中心とした善の主権とサタンを中心とした悪の主権が登場する。

善悪闘争史が復帰摂理の現実である。そしてそれは今の今も続いている。



善主権と悪主権

民を虐待し、搾取し、その人権を奪って権力を維持し続ける悪の主権と、民の幸福を願い、平和と繁栄を実現する善の主権が対立闘争を繰り広げられてきた。悪の主権はその暴力的手段で民を支配し、その主権を奪おうとする者に対しては常に暴力的手段で弾圧や圧殺や殺戮を繰り広げて来た。

何故神はそのような悪の主権を見過ごしてこられたのだろうか?それは、この地上に悪の歴史の始まった経緯が、人間自身の責任分担の不履行に起因しているからである。

だから悪主権の歴史を終焉させて、善主権の歴史を全面的に実現するためには人間自身の責任分担が不可欠なのである。

その復帰の原則を教えて来たのが、復帰摂理歴史である。

エソウとヤコブの対立と復帰の歩みは、「ヤコブ路程」として、サタン屈服の典型路程であると復帰原理は教えている。

 

サタン屈服の道

サタンは如何に屈服して行くのか!

サタン屈服の最大の武器はやはり「愛」である。神を中心とした「愛」が決定的な統一の手段伊なって行く。

神側の戦いとサタン側の戦いにおいては決定的な違いがある。サタン側の戦いはその戦いの相手を徹底的に否定し、抹殺して行こうとする。それに対して神側の戦いは戦った相手をも最終的には赦し愛し、共に生きる家族として行こうとする。

 

ヤコブ路程の最後は兄弟の和解であった。かつて二人は決裂し、エソウはヤコブを殺そうとした。しかし、最後の戦いはヤコブがエソウを徹底しして愛することを通して、和解し、ともに兄弟としての契りを取り戻して行くのである。

 

どこでその心を身に着けたのか?

ここでテーマはヤコブは自らを殺そうとさえした兄エソウを、どのように愛し抱擁することのできる「心」を持つに至ったのかということである。ヤコブは単に義務や使命でその路程を歩んだわけではない。心に深く決するところがあり、何よりもヤコブは目に見えない神との深い交流の日々があった。ヤコブは故郷のカナンからハランに旅立つときも、逆にハランからカナンに帰る時も、神との深い交わりと約束があった。神への深い信頼と交わりを通しての約束が彼の心をより強固なものにし深い心情とともに、兄エソウを深い愛で抱擁する心情を育てて行ったのである。

 

ヤコブの息子ヨセフも、その歩みの中で神との交わりと信頼の関係があった。どんな困難が襲ってきても、神への信頼は揺るぐことが無く、その信頼にこたえる如く、結果として、ヨセフは様々な知恵とこれから起こりうる未来への展望まで持つことのできる能力を身に着けて行った。さらに彼は自らを捨てて商人に売り渡した、本来憎むべき兄弟たちをも許すことのできる大きな心まで身につkて行ったのである。

 

善主権の世界を実現する主人公

神中心の善主権の世界を実現する主人公とは、実にそのような人々だった。

聖書にしるされた全ての人物の歩んだ物語は、神を父として、親子の契りを結んで生きた人々の勝利の歩みが記されているのである。

だからイエスは「私は父のすることを見てするしかない」と言われながら、神を父として親子の心情関係を結んで歩んだ人々の歩んだ道とその心をそのごとく歩んだのである。

 

再臨主として歩まれたその方も全く同じであろう。そしてこれからも、神の全の主権を打ち立てるために歩むすべての神の子たちは同様の歩みを継承して行くに違いない。