統一家の混乱の最終的収拾のために Ⅶ ‐1
2.統一家に混乱が生じた要因と、解決のために必要な3つの視点
金容成氏はそのブログの中で統一家の混乱の発生の要因とその解決のために三つの視点を明らかにしています。
①「原理的総観」を守るということ
第一に必要な観点は「原理的総観」と言うことです。
平和神経の第1章には、「モデル的理想家庭の根本秩序が、原理的総観において明らかにされた秩序である」と言明されています。「原理的総観」とは、創造本然の家庭が神様に侍ることの根本的な秩序であることを明らかにした原理的な物事の見方です。
2008年以降お父様は一見理解できないような歩みをされることが多くなります。実はお母様が原理的総観から見て懸念すべき状態でいらっしゃったので、お父様はそれ(お母様に関しての懸念)を解決しようと務め続けておられたことから来ていたことがわかります。
「原理的総観」とは何か?お父様のみ言を紹介してみましょう。
<み言> 「原理的総観」について 1997.4.8
お父様の命令をお母様が絶対服従し、お母様の命令を長子が絶対服従し、長子の命令を弟が絶対服従しなければなりません。このようになるのです。そのような家庭にならなければ神様に侍ることのできる家庭になれないということが原理的総観です。総観です。
:天聖経1398ページ、み言選集283巻-56ページ
真のお父様はこの原理的総観をあくまで守り抜いて摂理を進展させていくことのに腐心されていたのです。その原則を守って行かれるお父様であったがゆえに、そのお父様の摂理に逆行する働きが大きくなった時、混乱と困難を生じざるを得なかったのです。
②教権勢力の反逆はお父様が思っておられた以上に酷かった
第二にお父様は、教権勢力がまさかそこまで酷いとは思われていなかったと言うことです。お父様は父子協助時代が始まって当初から、父子協助時代に抵抗する動きがあることは察知されていました。しかし、お父様と言う方はそのもともと人を疑うと言うことを知らないお方でした。ましてやそれまで寝食を共にしてきた弟子たちの言うことを疑うことはされませんでした。
彼らの中に謀略や策略があることを知らないお父様ではなかったはずです。弟子たちの中には自己中心的であったり、私利私欲に走る者たちもあることはお父様も十分理解しておられたはずです。しかしそれでもお父様は総いう弟子たちをも使って摂理を進めて来られていたのです。それは何人をも愛し赦して行かれる真のお父様の愛の性向の故でした。お父様と言う方は一見するならば本来疑うと言うことを知らないお方であるかのごとくでした。騙す人がいたとしても敢えて騙されることさえ良しとされるお父様でした。お父様は、相手を疑ってみると言うことは基本的にされない方です。相手をどこまでも信じて疑わないという、宗教家としては当然の性向を持っておられたのです。
実はお父様は実際のところは教権勢力の実像を看破されていたのだろう思われます。偽りを看破はされながら、それでも最後の最後まで弟子たちを信じ、疑うことを止め弟子たちの間違いも赦して受け入れて行かれようとされていたのではないでしょうか。
しかしながら実に残念なことには、お母様を前面に立てた教権勢力の者たち動きはお父様の懸念される以上のスピードと現実で進んでいきました。信頼していた弟子たちの、創造を絶する酷い裏切りの現実にお父様は直面されました。信頼していた弟子たちの反逆の事実に困惑せざるを得なかったのです。
2012年になってそのような現実に直面されたお父様は病院のベッドの上にありながら、このままでは基元節を前にしてお父様の最終的摂理の進展自体が困難になって行っていることを懸念されもどうしても顯進様に会わなければならないと必死の努力をされました。顯進様もそのことを悟られてお父様に何としてでも会おうと務められました。しかし、教権勢力の徹底した冷たい妨害によりその願いをお互いに果たすことが出来ないままに、真のお父様は聖和の時を迎えられてしまったのです。
③偽りが巣食ってしまっていたので分立せざるを得なかった
第三は、統一家に偽りが巣食ってしまっていた為、分立は必然とならざるを得なかったと言うことです。偽りと真実は両立できません。偽りのあるところに神様は臨在することができません。教権勢力は、2000年初期から顯進様の摂理的使命について明確に知っていたことは明らかです。顯進様の摂理的使命を知っていたがゆえに、却って徹底的に顯進様を否定して行ったのです。摂理の現場から顯進様を追放し、さらには真のお父様との関係を断絶させることに腐心していきました。統一家は分立の時を迎えざるを得ない事態に陥っていたと言うことです。
父子協助時代を迎えて、お父様は顯進様を長子として統一家に宣布され、顯進様が長子の役割を果たすことのできる万全の準備をされていかれました。父子協助時代は長子が父親の継代を継ぐというみ言をくださり、お父様は後の時代の中心人物を明確にされました。お父様のこのみ言を基準とするならば、統一家におけるお父様の後継者に関する議論に何等の異論もなかったはずです。