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ダンスとか。

トヨタコレオグラフィーアワード2005 “ネクステージ”(最終審査会)(一日目)

2005-07-09 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼岩淵多喜子 『Against Newton』
Dance Theatre LUDENS。過去に2回(新国立劇場初演03年、アイホール04年)見ている作品。中盤からずっと続く、柔道の受け身のように倒れては起き上がる動きの反復がトリオで振り付けられた部分が面白かった。見た目は生真面目な人々がスポ根的な掛け声とともに行う「倒れる」も「起きる」も、その動機はあからさまに作為であるにもかかわらず、倒れ行く/起き上がり行く僅かな過程の時間だけは物理法則との格闘になる。すかさず作為が見映え良く後始末をつける。舞踏とは異なり虚実ない交ぜのプロレスのような踊り。
▼黒沢美香 『馬をきき』
スモークと下手側からの低いライト、恐ろしげなノイズとともに、袖から蟹股で跳ねながら現われる。金色の長いゴムホース、オレンジ色の長靴。すぐに「ずいずいずっころばし」がかかる。全体に地味な動きで舞台上を徘徊、大空間を一人で支配しつつもスペクタクルにまでは至らないが、黒沢美香ダンスの精髄は堪能できた。上手寄りから真一文字に片足ずつ、出しては引っ込め、出しては引っ込めのステップの部分は最高のジャズのアドリブを聴いているかのように、無限に変形されるリズムがとにかくスリリングで、一打一打に新鮮な視界が開ける。さらに今度は下手側から、床に置いたゴムホースにそって膝を付いてバックして来る。片方の膝だけが、動く度にキュッと音を出す。反復される一歩一歩の動きにはさっきのステップのようにはっきり目に見えるアレンジは施されない。むしろストロークとストロークの間や、速度の微細な振れ幅が露わにされる。こんな単純な動きが紛れもなく「ダンス」たり得ていることの驚き。動きと、その直後に来るごく短い静止、そこに踊り手の反省の契機が挟まっているように思う。小刻みに短く止めて振り返ることで、「単位」を作り、そこに次の動きを重ねて行く。この「止め」を、「動き」と等価に扱うことができれば、それらは一続きの律動を形成するのだろう、ということを考えながら見ていた。おおむねコアな世界で、観客との物理的・心理的な距離が終始大きく、見る者を巻き込み悪意の交感を仕掛けることをあるレヴェルで断念しているように思えた。最後に仰々しく降下して来る赤い幕はフォーサイス『アーティファクト』に比肩すべきもの。
▼鈴木ユキオ 『,,,やグカやグカ呼鳴、、、』
金魚。意味不明な行為が反復抜きに(非可逆的に)逸脱し続ける出だしの勢いが強烈で思わず地沸き肉踊り身を乗り出す。STスポット初演版と比べると空間が全方位にヌケて、普通の「コンポジション」(フレームの内部を緻密にまとめ上げる)の水準からは切れていたのが良かったが、今度は編成が男4女1に変わったため「女」が求心性を生んで空間の拡散を抑止、しかも女にまとわりつく男たちの動きがアルゴリズム化。見る者の視線は混沌に泡を食って泳ぐことなく全体をまとめにかかる。作品自体、演劇的な表象というか「若者の世界観」みたいなものの描写に流れ気味だが、そういうスタティックな構造が見事に壊れていたのが中盤の男2人の怒鳴り合いの場面。無闇に大声を出しながら、ルールのないゲームのようなやり取り。バケツを投げつけ合っている内にうっかりヘンなタイミングでフェイントを入れて自分がコケたり、いきなり相手のポーズの真似をしてみせたらさらに相手の食い付きが異様に速かったりして、一方の「予想外」が他方の「予想外」へと次々に連鎖していく。もはや即興とすら呼べない域。こういう「熱」を作品化できているのは本当に凄い。
▼隅地茉歩 『それをすると』
ダンスユニット・セレノグラフィカ。木製の横長テーブルとイス2脚を中心にアンバー系のスポットで全体に薄暗い空間。下手手前にリコーダーやパーカッションのミュージシャンがいて、イスに座った男女2人とセッションっぽくなる序盤。2人の動きは指先を多用するチマチマした仕草的なものの掛け合いが多いが、照明や音響込みの全体的な質感からすると、体とその動きの生々しさがもっともっと消去されて儚いものに見えた方がフィットしたのではないかと思う。もっと暗く、あるいは遠く。スポットの外側の周囲をゆっくり経巡る隅地の、ほとんど影だけのソロが良かった。
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佐多達枝バレエ 『dogs』

2005-07-09 | ダンスとか
六本木・俳優座劇場、昼。
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