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ダンスとか。

トヨタコレオグラフィーアワード2005 “ネクステージ”(最終審査会)(二日目)

2005-07-10 | ダンスとか
三軒茶屋・世田谷パブリックシアター。
▼新鋪美佳 『るる ざざ』
ほうほう堂。元はSTスポットで作られた作品なので、周囲の壁がないこととアクティングエリアの大きさにかなり苦戦。壁の代わりに白い帯状の線で舞台を囲んで対応したが、やはり空間の漠然とした広がりが最初から見えてしまい、その後あまり変化しなかった。動き方も全体に大味になって、微妙なニュアンスやスリリングな間合いのブレよりも、形や段取り優先の部分が多くを占める。印象に残ったのは舞台前面に出てきてど突き合う部分で、ホントに喧嘩してるみたいに見えて胸が潰れるような思いだった。今回はほうほう堂らしいデリケートさがあまり出てなくて残念。
▼岡田智代 『ルビィ』
非常にシンプルなシークエンスをいくつかつないだ作品だが、そのシンプルさを見事にアレンジ・増幅して大空間に対応。グレーの照明と同色のワンピース、そして銀色の美しい椅子。女一人の姿が、広い舞台の中央で垂直に突き刺さるように屹立し、メタリックで冷たい空気を放射する。中央でゆっくり旋回する部分では、椅子が光を反射して凶々しく煌めき、貴石とも凶器ともつかない異様で「危険」なオブジェと化した。遅い動きは、それによって体の内側でエネルギーを過剰に蓄積したり膨張させたりするのではなく、あくまでも無機質なまでに均質な動きのテクスチャーの実現を目的として行われる。ダイナミズムを押し殺しながら刻々と変化するフォルムと体の向き。刻み目のないものを凝視することの困難が目をますます活性化させ、意識が表層の奥へ分け入ろうともがく。椅子から崩れ落ち、顔を覆う場面の、徹底してアンチドラマ(「無内容」)な虚脱。アバで踊る部分はもう少し足を「枷」として否定的に機能させつつ、手振りではなく胴・体幹・腰を動かして欲しかったりとか、色々思わないこともなかったが、基本的に初演版とはコンセプトの異なる作品として見た。最初から最後まで緊張感が持続し、精神にグサッと来た。今回の8本中でのベスト。
▼岡田利規 『クーラー』
チェルフィッチュ。セリフのループが、小さな反復を重ねながら少しずつズレて先に進んで行く流れになっていた。山縣太一の動きは、他愛ないけどやってみたくなる、だらしない動きで、しかも変な脱力の仕方がむしろハイテクに思える。屈むと胸ポケットからタバコが落ちる、ネクタイを後ろに跳ね上げる、いきなり山崎ルキノに「迫る」など、ディテールも充実。二人を囲んでいる四角いスポットの、山崎の方にだけ輪郭のぼやけた丸スポットが当たって、四角の光の一辺が破れて漏れ出しているように見えるシーン。あるいは二人が手前中央から、舞台の真中へ、そして奥へと三段階に移動して行きつつ、いつの間にか声が録音にすりかわって言葉と身体が分離したまま終わる。こういう「悪意」のある表現の痛快な自由さは、不思議なことにダンス・プロパーではなかなか見られない。全体を見ると変化に乏しいためやや長く感じられ、チェルフィッチュのダンス作品としてはまだ第一歩に過ぎない(しかも出演者が直接話法のみで発話し、身体が多重化されていないという点では『マリファナの害について』以前に戻っている)というべきだが、やはり比較を絶して新しく、「トヨタアワード」がこの新しさを評価せずしていったい何を評価するのかと思う。この作品がもたらすものは完全に「ダンシー」な体験で、したがって事実上、完全に「ダンス」であるとひとまずは言えるが、むしろその圧倒的な新しさゆえに何か目が眩むような感覚があることも確かで、この動揺を見て見ぬふりをするのもまた誠実ではないと思う。行きつ戻りつするセリフと身振りの流れ、そこには手持ちの概念や思考回路からする単純な肯定も否定も許されないような途轍もない何かが、要するに手持ちの概念や思考回路の再検討(否定ではなく)を強いる何かがある。
▼宇都宮忍・戒田美由紀・合田緑・高橋砂織・得居幸・三好絵美 『kNewman』
yummydance。初演より、動きの内容がはるかに密に作りこまれている。濃い目に立ったキャラの配置とアクションのみならず、個々のダンスの間の関係が生み出すヴァイブレーションに満ちて最初から最後までとにかく楽しかった。自他の体をあくまでラフにコントロールして、互いに翻弄し合うユルい関係の「遊び」(=余白)が生きている。遊び=余白とは、「何もしない」ことではない。全ての行為(運動)が逃れることのできない手段と目的の図式の硬直の中で、絶えずどこかから逸脱やノイズを調達して来ないではいられない無限の自己否定的な衝動。踊っていてもその踊りからすら出て行こうとする。これがダンスの心、「遊び心」であり、そしてそれはここまで周到に構築することができるものなのだ。定位置に定刻通りに是が非でも滑りこむ、あるいは決まった量の距離や時間をできる限り細かく刻み込む、こうした過剰な熱に身を浸す。どこか垢抜けないナイーヴさも、開き直った弱さの露出(東京のダンスにありがちな)ではなく、武器になり得ていると思う。

結果
「次代を担う振付家賞」=隅地茉歩
「オーディエンス賞」=鈴木ユキオ(9日)、新鋪美佳(10日)
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