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ダンスとか。

Tuesday Cool Night no.6

2005-01-18 | ダンスとか
神楽坂・セッションハウス。
Katie Duck×勝部ちこ×野口雅子×Ab Baars(cl,sax)×河合拓始(p)
ダックはアムステルダムの Magpie Music Dance Company という即興グループのディレクターで、野口はそのメンバー、バースも交流があるとのことで、じゃあその「マグパイ」なるものを見てみようと思って出かけた。ダンサーとミュージシャンがほぼ対等な関係で絡むコンセプトのようで、役割分担は見られない。バースは訥々としたクールな音を出していたのだがわりとすぐにいなくなってしまった。初めて見るダックは中年の落ち着きだがこれといった特色はつかめず。即興の中で起こる出来事につい色々な感情で色付けをしながら見て、それが自分の今のムードであるということだなと確認したりしつつ、手前にいる誰かと奥の方にいる誰かの腕が同じ形をしているとか、前半で河合のイスを野口が奪ってしまって以降、イスをめぐる確執めいたものが人々の無意識の中に(たぶん計画されていたのではないと思う)沈殿して、後半で同じドラマが再び大規模に反復されることになるなど、いわゆる「予期せぬ出来事」、つまり、計画されていなかった成り行きであるにもかかわらずあたかも計画されていたかのように、演じる者や見る者の悟性に訴える「形」が生まれてしまうという、よくある種類のことを眺めていたりした。河合のグルーヴィなリゲティみたいな演奏がとにかくかっこよかったが、結局この人のイスが奪われて陸にあげられた魚みたいになってしまっている辺りが視覚造形的にも最も面白かった。それにしてもこの21:40開演という珍しい時間帯、音楽のライヴだったら少しもヘンではないのだが、どうしてダンスは音楽のようにもっと痛快にラフにヒップになり切ることができないのだろうか。そもそも音楽とダンスは何が違うのかということを考える際に、音楽は音を出しさえすればそれは「音」であり曲がりなりにも「音楽」であることができるのに、ダンスは体を動かしてみてもそれが「ダンス」になるとは限らず、つまり一生懸命何かを「出力」しているはずなのに何も起こらないということが往々にしてある、という風に今まで考えたりしていた。音はある種容易に「出す」ことができる。そしてダンスの場合、「出力」(いつダンスなのか)が曖昧である。しかしこれだけでは不十分だった。本当に決定的なのは、ダンスは「出力しない」ことができないということではないのか。そこに体があれば、いつもダラダラダラダラと何か「出て」しまっている。ダンスは黙るということができない。だからかえって、有意味な何かをクッキリ明瞭に「出す」のが難しい。ハケたらハケたで、ハケ方が何かニュアンスを持ってしまうし、「ハケた」という事実を空っぽの舞台が語ってしまう。いわばこのオン/オフのメリハリのなさが、例えば「朝まで」とか「休憩の後、第二部」とか「アンコール」とかいう類の盛り上がり、熱狂を遠ざけてしまうのに違いない。単なる生活、単なる生、単なる生における様々な悦びとの差の曖昧さ。でもこれが即興ではなくて振付だったら、もう少し話は違うのだろう。「曲」があれば、メリハリが出る。とはいえ音楽ならば即興だろうが何だろうが問題ないわけだから、やはり音楽とダンスの質的な差異がここに突き止められたことは確かだといえる。
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