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ダンスとか。

ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス 『アメリア』

2004-06-16 | ダンスとか
与野本町・彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)。
5年前の『ソルト』もその前の『2』も確かに見ているのだが、印象が薄くてあまり記憶に残っていない。今回はポワントワークを前面に押し出したということで、とにかく超高速のパ・ド・ドゥなどがひっきりなしに90分続く。異様なのはやはり頻出するサポート付きのピルエットで、右右・左左左・右右右とか平気でこなしながら、そこに脚や腕の小さい動きをギュウギュウ詰めてある。速いのは確かに凄いのだが、だんだん慣れてしまってむしろサポートしてる男性のしっちゃかめっちゃかな動きの方が面白くなってしまった。パートナーが組み変わったりもするから何かの忙しいゲームみたいだ。作品の主題は速度、ひたすら速度で、ダンサーの動きと照明と音楽(ピアノとヴァイオリンとチェロ)が一体になって時間を煽り続ける。とりわけ驚くのは照明の速さと細かさ。一体どんなキューで進行しているのか。基本的に白のピンスポしか使っていないのだが(一箇所だけ横から来る場面がある)、無数のスポットが怒涛の勢いで動いて目まぐるしく空間を変化させていく。まるで照明もダンサーみたいに思えてくる。中でも真上からスポットが来ているところへ斜めからもう一本が射さり、さらに次のが射さったり、あるいは後から射さったやつが少しだけ角度の違う別のスポットに切り替わったりするというのが面白かった。光量自体はそれほど変わらなくても、フリッカーのように一瞬だけ意識が寸断され、同じ舞台なのにまるで「画面が切り替わった」ように感じるのだ。これを見ていて「カット割り」ということの意味を考えた。異なるカット同士がつながれて仮想上の空間が展開されることだけが重要なのではなく、持続が切られてなおかつその断絶を飛び越える運動が意識の中に起こるというところに意味があるのだ。中井正一が「コンティニュイティ」と呼んだやつだが、初めてピンと来た。こんなシンプルな手法で新しいことをやってしまっている照明のジョン・モンローは偉い。しかし速度に限らず、知覚における「量」一般というものはその絶対値ではなく変化の度合こそがキモなのだということをエドゥアール・ロックもまた理解していないようだ。以前ダムタイプ『memorandum』の時にも思ったのだが、どんな凄い光も音も、程度が高まっていく過程が大事なのであって、プラトーに来てしまうと何でも同じになる。高速道路を走っていたって居眠りはする。スピード狂とはスピードではなく加速感の長い持続への執着のことなのだ。舞台左右にアラベスク模様(バレエ=社交ダンスの原型的モティーフ)の紗幕が降りてきたり、菱形のスクリーンにCGのダンサーが映ったりと色々やっているし、男性のカルテットなど必ずしも速度だけではないのだが(スキンヘッドの人が良かった)、せっかくなのだから速度そのものをその増減を通じて体感させる仕掛けにもう少しこだわっても良かったんじゃないかと思う。音と光とダンスのタイミングのスカし具合も均質で、90分はちょっと長く感じた。
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