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ダンスとか。

JCDN「踊りに行くぜ!!vol.5」選考会

2004-06-29 | ダンスとか
浅草・AsahiスクエアA。
▼松本大樹 『タンタンティキダン』
この人は一昨年のソロ×デュオで見て以来二度目、その時よりずっとソフィスティケートされた作品。若松智子とのデュオで、同じくらいの背丈の二人が黒縁メガネに黒のシャツ&パンツ/ワンピース、裸足で出てくる。若松が後半でメガネを取られ、さらに目隠しまでされてどんどん視力を奪われていく展開がちょっと興味深かったのだが、あまり具体的な筋立ては追求されず、あくまで隅々まで作り込まれたムーヴメントが主役のようだ。振付や動線や空間の使い方や照明の明滅などオーソドックスなヨーロッパ系の語彙でできていて、体を細かく割らない大振りなフォルムや、呼吸で合わせてユニゾンでジャンプ移動とか、基本的にはそういうタイプの振付なのだが、時々奇妙な小刻み歩行が混ざっているのが気にかかった。本当はもっとヘンなアイディアを持ってるのではないか。語彙の幅が広がれば構成にももう少しメリハリが出て整理されるだろうし。
▼たかぎまゆ 『UNDERGROUND CHEER LEADER』
この作品をライヴで見るのは二度目。岡本太郎の言葉で「人生」を無条件全肯定されてしまった懐疑主義的チアリーダー、というアイロニカルなキャラクター造形が秀逸なのだが、とにかく構成がまず過ぎるため小ネタも音楽もことごとく空回りし、ダンサーもそれを背負い切れずにグニャグニャになってしまっている。テンション任せの即興に寄りかからないで、何をいつ出せば最も効果的かという黄金パターンを煮詰めてしまった方がこの作品は絶対に活きる。完成したらちょっとした事件になると思うのだが。
▼白井剛 『Parade』
今年の3月にショーイングで見た作品。基本的な構成は変わらず、プリンスを三曲(ただし最初の二曲を繰り返してから三曲目に行く)使って淡々と動きのトーンを変化させていく。前回見たときはすごく曖昧な動きがクリアなリズムを刻む不思議な感触だったのだが、今回は何だかただブレイクダンス風に部位をバラしつつ舞踏みたいなフォルムを動かしているようにしか見えなかった。こちらの見え方が違ったのかダンスそのものが変わったのか、何しろ前に見たのが「曖昧」なものだったので判然としない。また時間をおいて見てみたい。
▼鹿島聖子 『のぶちゃんとしょうちゃん』
久しぶりに見るザンゾランの人(元レニ・バッソ)。樋口信子とのデュオだが、コンセプチュアルなアイディアとかギミックが排除されているという以外は印象が前とあまり変わらない。アイコンタクトで合わせて走り出し放物線を描くとか、全体にフツーすぎてよくわからなかった。
▼三浦宏之 『第三惑星怒れる男・たびお・愛の短編』
ソロはたぶん初めて見る。金髪に黒縁メガネのサラリーマンが紙袋を提げて現われ、ブツブツ言いながら観客を軽くいじって、タバコを取り出しものすごい勢いでフカす。これを大仰な交響曲が盛り上げてしょうもないスペクタクルに仕立ててしまう辺りがちょっと面白かった。ジリジリと燃焼していくタバコと、鼻と口から大量に吹き出る煙の即物的なスピード感が、人を人ならざる方へと前のめりに煽っていく。ピナ・バウシュだったらもう少し芝居っぽく処理して小市民的な笑いへ持っていくところだが、三浦はふいごマシーンとしての自分の無為な労働のマゾヒスティックな快楽に圧倒されるがままに、出口の見えないプロセスをひたすら見せようとする。とはいっても普通のタバコだからそう長い時間がかかるわけもなく、かといってこれが不自然に長く続くような仕掛けがしてあればそれもまた興醒めなわけで、このジレンマは一体どうしたらいいのかわからない(例えば1.5リットルのペットボトルの水をストローで一気吸い、とかだったらどうか)。惜しいのはタバコの後、我に返ったように「何だったんだ今のは」と言ってしまうところ。これはシラける。タバコの後は自分の髪を触って「ヨコワケ」と言ってみたり、ネクタイを触って「ネクタイ」と言ってみたり、メガネを触って「メガネ」と言ってみたりする。これも無意味すぎてちょっと面白いのだけど、「ヨコワケ、ネクタイ、メガネ」と高速で連呼し始めるともうお約束になってしまう。「ネクタイ」とただ一言、一回だけ、ただし完璧なタイミングで発するべきだ。そのまま「パンツ」とか「ボタン」とか言いながら服を脱いで、予想外なまでの筋肉質の立派な体を見せながらフツーに踊り出してしまう後半は、前半とのつながりがわからなかった。
▼伊東歌織・高野美和子 『ハレンチモーション』
この作品も二度目で、マイナーチェンジした他の作品も見ているが、今回ようやく高野美和子という人のテイストが飲み込めた気がする。ほとんど常にバラバラなことをやっている二人の間の淡すぎる関係、一見あまりにもガサツに見える小道具(イスや、ヒモ付きのかつら)、何とも味気ない、それでいて微妙にイヤーな感じの衣装、シャカシャカいうノイズ系の音楽。今回はなぜか、この居心地の悪さがそのものとして面白く見られた。何が違うのか。たぶんやっていることはいつもと変わらなくて、ただ自分の見え方が違っただけだと思う。主に、空間が小さいからダンサーの身体の質感とか集中度とかがクリアに立ってしまったことに起因するだろう。それでも別にいいのだが、あえて、一種の「わかりにくさ」を主題としているのならその「わかりにくさ」がわかりやすく明確に伝わるのでなければ成功とはいえない、と問いを立ててみると、「わかりやすさ」の反対としての「わかりにくさ」が必然的な展開として滲み出してくるためのストーリー(流れ)ないしエクスキューズが用意されていて然るべきと思えてくる。つまり「噛み合わなさ」「居心地の悪さ」「わかりにくさ」を何らかの破綻、逸脱、裏切りとして(何かの否定形として、つまり否定的な内容をもった一個の「文」として)舞台上で肯定してみせるだけの説得力あるファクターが作品に内在しているべきなのではないか。その点、砂連尾理+寺田みさこも同じ問題を共有していて、これに対する一つの模範解答は例えばニブロールに求めることができる。ニブロールの場合、空間処理や運動の連鎖の仕方など非常に整理された振付語彙を用いながら、にもかかわらずそのフレームを、ダンス的な質感やフォルムやリズムを排したアクション的身振りでもって隈なく埋めていく。これによって「ダンス」なるものへの「否定」を作品として提示しえている。もしこれが「ハズし」一辺倒だったら、ただ「ハズれている」としか見えず、それは本当にハズれているにすぎない。作り手は何かを否定したつもりでも、見ている方には「チガウ」としか映らないのだ。
▼岡本真理子 『まばたきくぐり』
同じく二度目。これも小空間ゆえに活きたところがあって、また初演時より動きが増えて密度が上がっている面もある。それでもやっぱりつまらない。体や動きの質感と、落ち続ける砂の質感、ちゃぶ台の質感、コーヒーカップやスプーンの質感、音楽の質感、こういうものの間の不協和音が、単純に放置されているように感じられる。どこがどうなったらどのように良くなるのか、ぼくにはちょっとわからない。
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