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ダンスとか。

Dance Seed 2004 ―わたくしの森羅万象―(第二日・夜)

2004-06-13 | ダンスとか
千駄木・ブリックワン。
まずは佐藤信光を先頭にしたユニゾンのシークエンスで始まる。衣装も揃えてある。
▼佐藤信光 『blood No.2』
前半は遅く動き続け、終盤でハジケる。形なんかではなく密度が見たい。
▼西村香里 『回帰』
ただ動いているという印象しか残らなかった。まだどうにもコメントのしようがない。
▼高橋佳也子 『はりなすてはならない』
先月見て今一つピンと来なかったが、良かった。やはり何かを持っている人だった。小さなハリネズミの置物を大事そうに抱えて、細かく、ただし決して慌てずに歩き回る。特にゆっくりした動きではないにもかかわらず、一歩一歩、足の裏が床に粘り付いている。そしてこの粘りが、腕や手の動きにも全く同じように現われる。宙を掻いているだけなのに、そこに粘るのだ。腰を折って動き回る。腕と脚でもって空間を丹念にすくい取りお腹の辺りにかき集めてくると、そこに積み重なる何かがある。こうなってくるともはや振りがどうこうといった低レヴェルな問題ではない。イスに腰掛けてガラスのカップと皿を手に取り、空のままあおってみるところなども、ガラスの感触がこちらの体にしっかり伝染してきて、くすぐったいような感覚になる。触っていないのに触っている感覚がはっきりある、幻肢とはこういうものだろうか。ただし終盤のデコラティヴで速い踊りは本当に必要だったのかわからなかった。
▼荒木志水 『デザート』
この人も先月見た。バレエのカーテンコールの様々なパターンを延々と繰り返してみせる。だいたいお辞儀というのはそのままですでに踊りのようなところのある様式化された所作だから、繰り返されてもなかなか違和感が生じない。しかし、それだからこそ、あまりに長く続いて「何かヘンだ」と思う時が来ると、その感覚は「日常的な所作や行為を反復してダンスに仕立てる」お馴染みのパターンにおけるそれとは微妙に違ったものになる。もっとねじれている。お辞儀(およびその他のカーテンコール的所作)は、様式化されているだけでなくコード化もされていて、とりわけお辞儀は意味性が強く、今はこれを反復しているのであってホンモノのお辞儀ではないのだとわかっていても、お辞儀されるごとにいちいち「終わった」という感覚を抱いてしまう。これはもう体にすり込まれてしまっていて、どうにも抗いがたい。わかっていて騙される感覚は、自分の体を自分とは別のものであるかのように思わせる。この冒頭シーンはやや短く感じられ、中盤は黒い上着を脱ぎ金ピカの衣装で派手に踊るのだが、これは要らなかった。後半でまたカーテンコールが始まる。今度はもっと長い気がした。様式化されているから、基礎さえあれば何度も正確に反復できる。しかし体の特性を活かしているとはいえ、アイディア勝負なので、もっと体の奥深くへの探求が見たい気もする。
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