Romeo Castellucci, Inferno
フェスティバル/トーキョー09秋
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
『Hey Girl!』の時のような物質的な面白さは、舞台が遠くてあまり感じられなかったとはいえ、ガラス張りの箱が鏡面となって客席を鮮明に映し出し、見ているこちら側が作品の中にはっきり取り込まれた瞬間から、舞台への集中度が否応なく高められた。冒頭で「私の名はロメオ・カステルッチ」と名乗るので、本人がダンテを演じるのかと思いきや、狂言回し的な存在としてアンディ・ウォーホルが出てきて、さらにメガネの少年みたいなのも出て来るので、どんどんわけがわからなくなる。ウォーホルがダンテなのか、だとしたらウェルギリウスは…なんてことを考え続けながら最後まで行ってしまい、直後の印象は曖昧だったけど、事後的に思うことは、様々な記号がこれほど多義的なままで配列されているということ自体に驚くべきなんじゃないかということ。だいたい「死」のイメージが様々に変奏されているのだけど、『地獄篇』はそもそも死後の世界なのだから死とか生とかは本当はあまり関係ない。けれども、何度も反復されてしまう死、不可能な死、あるいは「死」の不可能性みたいなことが、『地獄篇』のイメージとウォーホルを介して語られているようにも思えるし、単に現代の世界が「生」を奪われた地獄のようなものなんだということをひたすら見せているようにも思える。見る人の視点や取り組み方次第で色んな風に見えるのだろう。客席が白い布で覆われた時も、地底かどこかに閉ざされたような感じもしたし、他の観客との横の距離が縮まって客席に一体感が生まれたような気もしたし、ふと布を透かして外を見てみたら、辺り一面が雲海みたいにも見えて、あっ、と思ったりもした。あっ、と思っても、それが何かはっきりと意味をなすわけではなくて、ただ感覚的なインパクトのままに留まるのだけれども、それが何かの意味につながっていきそうな予感だけがずっと尾を引きずる。イメージを淡々と羅列していくインスタレーション的な、あるいはロバート・ウィルソン的な舞台作りはやや平板に感じたとはいえ、ドラマ的な時間軸を設けないことで、どこからでもどうとでも読めるような構造が獲得されているように思った。しかもどう読んだところで必ず不整合な部分が残るので視点を変えながら見ていると、時間の中に展開しているにもかかわらず全体が一つの三次元の物体であるように思えてくる。それでいて全体がなかなか視野に収められないところにもどかしさが生まれるのだろう。個人的には、ウォーホルの作品タイトルが制作年とともに次々と文字表示されていくシーンが妙に感動的に思えてしまったことが、一番わけがわからなくて当惑した。
フェスティバル/トーキョー09秋
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
『Hey Girl!』の時のような物質的な面白さは、舞台が遠くてあまり感じられなかったとはいえ、ガラス張りの箱が鏡面となって客席を鮮明に映し出し、見ているこちら側が作品の中にはっきり取り込まれた瞬間から、舞台への集中度が否応なく高められた。冒頭で「私の名はロメオ・カステルッチ」と名乗るので、本人がダンテを演じるのかと思いきや、狂言回し的な存在としてアンディ・ウォーホルが出てきて、さらにメガネの少年みたいなのも出て来るので、どんどんわけがわからなくなる。ウォーホルがダンテなのか、だとしたらウェルギリウスは…なんてことを考え続けながら最後まで行ってしまい、直後の印象は曖昧だったけど、事後的に思うことは、様々な記号がこれほど多義的なままで配列されているということ自体に驚くべきなんじゃないかということ。だいたい「死」のイメージが様々に変奏されているのだけど、『地獄篇』はそもそも死後の世界なのだから死とか生とかは本当はあまり関係ない。けれども、何度も反復されてしまう死、不可能な死、あるいは「死」の不可能性みたいなことが、『地獄篇』のイメージとウォーホルを介して語られているようにも思えるし、単に現代の世界が「生」を奪われた地獄のようなものなんだということをひたすら見せているようにも思える。見る人の視点や取り組み方次第で色んな風に見えるのだろう。客席が白い布で覆われた時も、地底かどこかに閉ざされたような感じもしたし、他の観客との横の距離が縮まって客席に一体感が生まれたような気もしたし、ふと布を透かして外を見てみたら、辺り一面が雲海みたいにも見えて、あっ、と思ったりもした。あっ、と思っても、それが何かはっきりと意味をなすわけではなくて、ただ感覚的なインパクトのままに留まるのだけれども、それが何かの意味につながっていきそうな予感だけがずっと尾を引きずる。イメージを淡々と羅列していくインスタレーション的な、あるいはロバート・ウィルソン的な舞台作りはやや平板に感じたとはいえ、ドラマ的な時間軸を設けないことで、どこからでもどうとでも読めるような構造が獲得されているように思った。しかもどう読んだところで必ず不整合な部分が残るので視点を変えながら見ていると、時間の中に展開しているにもかかわらず全体が一つの三次元の物体であるように思えてくる。それでいて全体がなかなか視野に収められないところにもどかしさが生まれるのだろう。個人的には、ウォーホルの作品タイトルが制作年とともに次々と文字表示されていくシーンが妙に感動的に思えてしまったことが、一番わけがわからなくて当惑した。