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ダンスとか。

ダンス トリエンナーレ TOKYO '06(Dプログラム)

2006-11-02 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼尹明希 『交際とカナリア SDRAPエディション』
民族音楽風の音色も入った金属的なビートの音楽が何度も繰り返される一方、暗転の度に変化する照明によって空間が様々に切り取られ、それぞれの場面では、立ち位置固定で上体でフォルムを作る動き、あるいは両足のステップによる旋回、あるいは体に直近の空間を腕などで転がしながら移動、といった特定のモティーフが踊られる。しかし終始、「動き」が「踊り」になりそうでなり切らないのがもどかしい。形に対して丁寧に動き過ぎているということなのか、それとも単にノリ切れていないのか、動きの中でエネルギーが抑え込まれていて体の表面から離れていけずにいる感じだった。せめてもう少し踊りが波を起こしていれば、音や照明がいきなり寸断されては再び始まるという構成も力強く機能するはずと思う。「振付家・演出家」の欲望と「ダンサー」の事情、いいかえれば「見せる」ことと「踊る」こととの分裂が辛うじて終わり近く、光の柱に腕や頭を差し込んで影を散乱させる辺りでつながったように感じた。しかしそれにしても、今回のようにヨーロッパや日本の色々なダンスと並ぶと、こうして舞台上でただひたすら正直に踊ろうとする「ダンス」は相当異質に見える。「戦略」性に頼っていないために、全てが結果次第の厳しい道である。24分。去年8月こまばアゴラで初演。
▼コンスタンツァ・マクラス/コンスタンツァ・マクラス&ドーキーパーク 『I'm not the only one - Solo Projects』
Constanza Macras / Constanza Macras & DORKY PARK.
自分の服をテーブルに着せてその上でゴロゴロする、ハイヒールでよろめきながら勢いよく踊りまくる、などといった「動き」のディスオーダーぶり、そしてその演劇的な表象。NY~メキシコ・シティ間の飛行機を電話でキャンセルしようとして英語もスペイン語も通じないだとか、スペイン語(=メキシコ)で罵られる、あるいはキリスト教における「奢侈」の象徴としての楽器(=道具)の機能不全。こういう風に「労働」も「ダンス」も不可能な人たちを疎外論的に「表象」してしまうのには、タンツテアター的な手法は便利だなあと思う。全体にノリ良く流れて全く退屈しない。しかしながら「演劇」の一言で片付けてしまうには惜しいところもある。テーブルから色々な風に転落する男の、とりわけ二つに割れたテーブルとテーブルの隙間につっかえ棒のように引っかかってずり落ちる動き、いわば事故との間に未知のバランスをまさぐり続ける動きには目を奪われた。成功と失敗との中間に宙吊りになってブルブル震える身体は、精妙でありながら剥き出しである。巧くやる技術は所詮テクニックでしかない。こういう危うい技術、否定に晒された技術にこそ真のスリルがある。去年秋の『バック・トゥ・ザ・プレゼント』を見た人たちはみんな前の方が面白かったと言う。47分。初演。
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