NY, Dance Theater Workshop.
▼Ivy Baldwin Dance, Gone Missing
一面に雪が敷き詰められて背景に針葉樹のシルエットが見える、気合の入った具象的な舞台美術と照明。真横から照明が入ると、ダンサーが四つん這いになったもう一人の上に乗り、ロシア語らしき歌に合わせてゆっくり船を漕ぐように前後へ揺れている。あからさまに演劇的な身振りとあからさまにダンス的な身振りを緻密な曖昧さでもって交錯させ、詩のようなドラマを作り出す作品で、ロシア語と英語のセリフが少しと、特定の人がはっきりと人物を演じる場面もある。ダンサーは男1女4、普段着のような格好。抽象的なフォルムがかき立てるイメージがいつの間にか物語的な意味に回収されたり、物語が動き始めると唐突に非描写的な身振りが挿入されて意味がはぐらかされる、という「揺らぎ」が独特な手法で作り込まれていて面白かった。例えば女が男を突き飛ばすと雪の中に倒れてしまって、そのまま両手両足を動かすと雪が水の波紋のような形を描き、するとなぜか女も飛び込んで、二人で溺れた後、氷の下から何とか抜け出すという場面がほとんどマイム抜きで演じられる。少し後では似た場面が繰り返されるのだが、男が女の名前を呼んで探している一方、その足元で四人の女たちがユニゾンで「溺れて」いたりする。幻想的で、悲惨で、美しいイメージ。あるいは、一人だけ手前に出て顔を覆っていた女の背後で、なぜか全員がピョンピョン飛び跳ね、振り返ると「だるまさんが転んだ」のように止まる。また前を向くと飛び跳ねて、振り返ると止まるのだが、一人だけ止まらない人がいて二人の目が合ってしまう。この瞬間などは全く唐突に「演劇」が発生したように感じてゾクゾクした。跳ねる動きが別の誰かに見られることで対象化された途端、単なる「フォルム」だった身体の内側に人物としての「内面」が立ち上がって見えてくる。それでいてなおピョンピョン跳ね続ける人の顔は微妙におどけたような表情で硬直したままなので、何ともいえない不気味さが醸し出される。規則性(=ある種の硬直)としてのダンスを演劇的な地の中に図として置き入れ、身体を絶えず抽象と具象の間で行き来させることにより、人の温もりが端から冷え込んでいき、そして冷え込んでいくことでかえって肌が紅潮して熱を帯びるといったような、「寒さ」の劇が成立している。36分。
▼Kate Weare, Wet Road
社交ダンスを題材にした作品はNYに来てから本当によく見るが、これもタンゴをベースにして性的な含みの部分を拡大していったもの。ダンサーは男2女3で、音楽はノイズとタンゴが使われる。しかし女の足が男に絡み付いたり跳ね上げられたりする動きが、そのまま床の上での性行為のような動きにつながっていったり、全裸になった男を女が大股開きで待ち構えていたり、発想はやや安易といわざるを得ず、ダンスとしても相当にヌルいため説得力に欠ける。性的なテーマがあまり月並みなので、そこはスルーして単に「足」のことばかり考えながら見ていた。例えば目隠しをされた男を女が横から体当たりしてド突き回す場面などは、外的な力でもって動かされる「足」、という異常な事態について考えさせられる。踊る身体において足は、足以外の全ての部位を支えたり運んだりしなければならないため、相対的に最も自由の利かない部位で、それだけに余計、足においてはダンス(自律した動き)がダンスならざるもの(労働)とギリギリの境を接しているといえるだろう。しかしド突かれてよろめく男の足は、そのどちらでもない。外的な強制力で動かされながら、それでもなお床と自重の間を架橋しなければならず、その即興的でいい加減(アド・ホック)な処理において、この足は作品中の他のどの部分よりも複雑な動きを見せていた。ド突かれる(移動させられる)ことは、足に何ら具体的な指示を与えない。それは強制と自由の間の、どちらでもない領域をさまよっている。44分。
▼Ivy Baldwin Dance, Gone Missing
一面に雪が敷き詰められて背景に針葉樹のシルエットが見える、気合の入った具象的な舞台美術と照明。真横から照明が入ると、ダンサーが四つん這いになったもう一人の上に乗り、ロシア語らしき歌に合わせてゆっくり船を漕ぐように前後へ揺れている。あからさまに演劇的な身振りとあからさまにダンス的な身振りを緻密な曖昧さでもって交錯させ、詩のようなドラマを作り出す作品で、ロシア語と英語のセリフが少しと、特定の人がはっきりと人物を演じる場面もある。ダンサーは男1女4、普段着のような格好。抽象的なフォルムがかき立てるイメージがいつの間にか物語的な意味に回収されたり、物語が動き始めると唐突に非描写的な身振りが挿入されて意味がはぐらかされる、という「揺らぎ」が独特な手法で作り込まれていて面白かった。例えば女が男を突き飛ばすと雪の中に倒れてしまって、そのまま両手両足を動かすと雪が水の波紋のような形を描き、するとなぜか女も飛び込んで、二人で溺れた後、氷の下から何とか抜け出すという場面がほとんどマイム抜きで演じられる。少し後では似た場面が繰り返されるのだが、男が女の名前を呼んで探している一方、その足元で四人の女たちがユニゾンで「溺れて」いたりする。幻想的で、悲惨で、美しいイメージ。あるいは、一人だけ手前に出て顔を覆っていた女の背後で、なぜか全員がピョンピョン飛び跳ね、振り返ると「だるまさんが転んだ」のように止まる。また前を向くと飛び跳ねて、振り返ると止まるのだが、一人だけ止まらない人がいて二人の目が合ってしまう。この瞬間などは全く唐突に「演劇」が発生したように感じてゾクゾクした。跳ねる動きが別の誰かに見られることで対象化された途端、単なる「フォルム」だった身体の内側に人物としての「内面」が立ち上がって見えてくる。それでいてなおピョンピョン跳ね続ける人の顔は微妙におどけたような表情で硬直したままなので、何ともいえない不気味さが醸し出される。規則性(=ある種の硬直)としてのダンスを演劇的な地の中に図として置き入れ、身体を絶えず抽象と具象の間で行き来させることにより、人の温もりが端から冷え込んでいき、そして冷え込んでいくことでかえって肌が紅潮して熱を帯びるといったような、「寒さ」の劇が成立している。36分。
▼Kate Weare, Wet Road
社交ダンスを題材にした作品はNYに来てから本当によく見るが、これもタンゴをベースにして性的な含みの部分を拡大していったもの。ダンサーは男2女3で、音楽はノイズとタンゴが使われる。しかし女の足が男に絡み付いたり跳ね上げられたりする動きが、そのまま床の上での性行為のような動きにつながっていったり、全裸になった男を女が大股開きで待ち構えていたり、発想はやや安易といわざるを得ず、ダンスとしても相当にヌルいため説得力に欠ける。性的なテーマがあまり月並みなので、そこはスルーして単に「足」のことばかり考えながら見ていた。例えば目隠しをされた男を女が横から体当たりしてド突き回す場面などは、外的な力でもって動かされる「足」、という異常な事態について考えさせられる。踊る身体において足は、足以外の全ての部位を支えたり運んだりしなければならないため、相対的に最も自由の利かない部位で、それだけに余計、足においてはダンス(自律した動き)がダンスならざるもの(労働)とギリギリの境を接しているといえるだろう。しかしド突かれてよろめく男の足は、そのどちらでもない。外的な強制力で動かされながら、それでもなお床と自重の間を架橋しなければならず、その即興的でいい加減(アド・ホック)な処理において、この足は作品中の他のどの部分よりも複雑な動きを見せていた。ド突かれる(移動させられる)ことは、足に何ら具体的な指示を与えない。それは強制と自由の間の、どちらでもない領域をさまよっている。44分。