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ダンスとか。

DanceBrazil

2006-03-08 | ダンスとか
DanceBrazil, Desafio

NY, The Joyce Theater.
芸術監督・振付家の Jelon Vieira はバイーア生まれで、アメリカでマーサ・グレアムに学び、アルヴィン・エイリーの後押しで1975年にこのカンパニーを作った(自分の国の名前をカンパニーに付けてしまうその発想は何なのかと思ったらエイリーがこのように命名したのだった)。この新作はジョイスの委嘱による初演で、Vieira と Guilherme Duerte(ダンサーでもある)の共同振付だが、Vieira の振付はカポエィラを最大の特徴とするものらしく、ここでも男性8人のうち5人は「ダンサー」の代わりに「カポエィリスタ」とクレジットされている。女性4人は「ダンサー」。カポエィラの起源ははっきりしないようだが、定説では奴隷が戦闘能力を鍛えるための稽古をダンスに見せかけて行っていたものと言われる。これに従えばカポエィラは、奴隷の共同体の内部においては外部に対する武器として理解されており、外部においては内部での社交ダンスとして理解される、というきわめて境界的なステータスをもっているわけだ。すると、あるキックが武器なのかダンスなのか判断できないというシチュエーションを想像してみたくなる。ある人の眼前に飛来するキックが、本気の蹴りなのかそれともただの遊びなのかは、主人と奴隷の自明な関係の中で予め決定されているというより、そのキックに対するレスポンスの仕方がその人を外部あるいは内部に位置付け、そして「主人」にも「奴隷」にもする。例えば奴隷同士で諍いが起こり共同体が分裂の危機に瀕する時、あるいは奴隷ではない使用人との間に微妙な関係が生まれた時、飛来するキックはそれへの応答がなされるまで、ダンスでも凶器でもない両義性を保ち得るかも知れない。そしてカポエィラは常にこうした両義性を孕んだ行為としてあることによって、共同体の枠組みを揺るがし続けるのかもしれない。おそらくこういう極端にスリリングな性質が、カポエィラの魅力の本質であるような気がする。こんな風に考えると、カポエィラを単なるムーヴメントの語彙の一種としてとらえてしまうことには躊躇いを覚えるのだが、Vieira は、あくまでモダンダンスの文法でいかにカポエィラを見せるかという風に考えているように思われた。舞台下のミュージシャンによる生演奏で、音楽は生々しいのだが、それに比べるとダンスにはあまり勢いがなく、明らかにカポエィラ的なムーヴメントが織り込まれていても、例えばアフリカンダンスとバレエが混在しているロナルド・K・ブラウンの振付のような驚きも、胸のすくようなスリルも生まれない。空中で胴を思い切り引き伸ばしつつ、体を軽やかに弄ぶような動きは、おそらく普通のいわゆるダンスとはリズムの扱い方が違う。例えば相手の隙を突く、終わりそうで終わらない、フェイントにフェイントを重ねる、などといった、「実戦」にも役立つような自在さ、屈折、捉え難さがカポエィラの遊戯的な質を支えているのだとしたら、「見せる」ための、「表現」のためのモダンダンスとの距離は相当に遠く、フォルムやコンポジションなどの手段で動きを整理することによってはカポエィラの魅力は発揮されないのではないかと思った(これに対し、ストリートダンスでカポエィラが違和感なく取り入れられているのは、ストリートダンスが技の競い合いによる「戦闘」というコミュニケーション的な要素を含んでいるからだろう)。
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