ネットの自浄作用なのか許されざる私刑なのか

2005-10-24 03:17:08 | Weblog
久々に新潮を買ったところ、最近炎上したブログの話題が載っていた。

バスの運転手を恫喝した武勇伝を相手の会社の名前や写真をさらした上で堂々と掲載したブログに、非難の声が集まったのはつい最近のことである。

ネット上では、常識を超える不遜な書き込みのブログには、たくさんの人が殺到して非難の書き込みを行ったり、ブログ主を調べ上げてさらすなどの攻撃をして、いわば「私刑」にすることがある。

「私刑」と言っても、直接手をだすわけではないけれど、そうしたブログは『炎上』して消えていく。

さて、この場合、新潮が非難したのは、「非常識な記事を載せたブログ」なのか「非常識さに怒りを覚えた無数の匿名の人々」なのか、私には読解できなかった。あるいは、どちらの人種も怪しいって言いたいのかもしれない。

自分の意見を自由に発信できるブログシステム。それだけに広い世の中、時に恐ろしく唯我独尊に陥ってしまうだけでなく、真摯な忠告をシャットアウトして「あらし」認定したあげく、まったく自らを省みない人もいる。(私もか・・・?)

そんな時、ブログは燃える。

行き過ぎることもあるのだけれど、炎上中のコメント欄は決して暴論やいやがらせではなくて、真意を問うというスタンスのものが多い。ブログ主の、その対応さえ誠意あるものなら、大抵は初期消火可能なようにさえ見える。

だから、こうした炎上は、まだ過渡期のブログの一種の「自浄作用」なのであって、単純にそれを問題視する新潮の記事には、違和感があった。

国会でさえ、論議はとても上手とは思えないのだから、日本人は概して議論は下手なのだろうと思う。ブログの中では、条件に制約はあるけれど、冷静な議論はしやすい気がするので、将来はユーモアを軽く混ぜながらの大人の議論をする人が、コメントの応酬をする中から育っていくのではと淡い期待をもっているのだけれど、はてさて。

仏壇の前

2005-10-24 03:09:46 | Weblog
長いこと私にとっての仏壇は、神聖なだけのものだった。
近年、私をかわいがってくれた祖父母があいついで亡くなって以来、そこがなんとも近しい安らぐ場所になったのは不思議だ。
義務としてではなくて、花を飾りたいとか何か供えたいとか思うし、しばし静かにその場所に座っている気分は、畏まったものではなくて、どちらかと言えばくつろいだものになっている。

でも、残念ながらというか、私は他家の長男の嫁なので、将来守ることになろう仏壇には私を慈しんでくれた人はいないわけで、果たして同じ気持ちで手を合わせられるかどうかは自信の持てないことのように思えるのだ。

靖国にしても、近親の方が祭られている場合と、直接に関わりがない場合とではずいぶん違った見え方をしているのかもですねえ。