夢中人

sura@cosmic_a

狂言の現在 2010

2010年05月16日 | Weblog
5月12日 長崎チトセピアホールに狂言を観にいきました。



『鈍太郎』

鈍太郎 野村万之介

下京の妻 深田博治

上京の妻 高野和憲

後見  岡 聡史

三年振りに九州の旅から都へ戻った鈍太郎は、下京の本妻と上京の愛人のもとを訪れるが、二人とも本当の鈍太郎と思わず、
追い払われてしまうのです。
悲観した鈍太郎が出家して修行の旅に出ようとします。
訪ねてきたのが、本物の鈍太郎と知った妻と妾が、二人で力を合わせて出家するのを思いとどまるように頼み込むのですが、
鈍太郎はなかなか承知してくれません。
ますます懸命に詫びて引き止める妻と妾に、鈍太郎は虫のいい条件を突きつけてくるのです。
最後は、妻と妾の手車に乗って帰って行くのです。


この狂言のことを、「女狂言」というそうです。
「女狂言」ってどんなのをいうのかな?単に女子が出てくるものというわけでもなさそうだし、
夫婦ものとか、男女関係もののことをいうのかな。
でも「女狂言」と言うわりには、「鈍太郎」という男子の名前がタイトル。
まぁ、狂言と言うのは、だいたいが男子が主役ですもんね。
歌舞伎は何回かしか観た事がないのですが、女子が主役のものも少なくないような気がする。
なんてったって、玉三郎なんていますからね。時代の移り変わりなのでしょうか。

この「鈍太郎」という話。普通にみている分に関しては、なんで妻と妾が力を合わせて男を引き止める?
などと疑問も出てくるのですが、、鈍太郎、そして妻と妾の三人の背景がわからないのでなんともいえないところもあるワケです。
もしかしたら、この鈍太郎は、女子に「私がいなければダメだわ」なんて思わせるタイプなのか。。。
それは置いといて、私はこのお話に、今のメディアのことを当てはめてみました。

妻はテレビ。妾はネット。鈍太郎はユーザー。
私個人的には、今はほとんどテレビは見ません。ネットばっかりです。
ちゃんと見るのは朝のNHKニュースくらいかなぁ。あとは本当にチラ見です。
でも、以前はテレビが大好きだったんです。しかし、今はネットが楽しい。

今はネットが楽しくてしょうがない私ですが、でも、もしかしたら、ネットはもういい、なんて日が来るかも。
テレビもネットもイヤになっちゃった。。。なんてね。
今は、テレビやネットというのが(他もいろいろあるけど)いろんなことを教えてくれるけど、情報なんていらないと拒否反応がでてくる。
もしだよ、多くの人が、情報なんていらないなんて状況になったら、世の中はどんな風になるのだろう。想像できそうで、できないなぁ。。。
でもまぁ、そういうワケにはいかないでしょうね。。。。と思うのですが、「情報なんていらない」なんて流れができつつあったらですよ、
素人的に考えてもマズイことなのかなと思うワケです。
もしそうなったら、この流れをなんとか変えようと、各業界が力を合わせて、人々の意識を変えていくかもなと思ったワケです。

「情報はいらない」なんていうのは極端なのかもしれませんが、今、テレビ離れが言われてますよね。
それはいろいろ要因があるのかもしれないけど、1つにネットの存在があるみたいですよね。私も、ネットがあるからテレビを観なくていいのです。
テレビにとってネットは、ライバル的な存在なのかもしれないけど、その一方で、テレビとネットの融合というやつですか、ありますよね。
テレビ(妻)とネット(妾)が力を合わせてユーザー(鈍太郎)を離さないのです。

「鈍太郎」は、自分に頼み込む妻と妾にワガママ言いたい放題。
自分の思い通りになってると思いきや、でもよく見てみると、結果的には「妻」と「妾」の思惑通りに流れているワケです。

その辺りが、「鈍太郎」という名前になったのかなとも思いました。




『木六駄』

太郎冠者 野村萬斎

主 月崎晴夫

茶屋 石田幸雄

伯父 野村万之介

後見 高野和憲

六頭の牛に撒きを、六頭の牛に炭を積み、酒樽を添えて都に届けよと命じられた太郎冠者。
大雪の中、思うように動かない十二頭の牛を追いながら山道を急ぎ、ようやく峠の茶屋にたどり着くが、
身体を温める、お目当ての酒がない。
つい届け物の酒樽に手を付けて、上機嫌で謡い舞ううち、すっかり飲み干してしまい、
盛り上がって酔ったあげくに、薪を茶屋にくれてやり、炭を積んだ六頭の牛を連れて、主人の伯父を訪ねる。

季節感は大事だと思うのですが、私は、季節はずれの話を観るのは好きかも。
今は春まっさかり。でも、この曲は、真冬の話。
舞台となっている、峠辺りは、すごく雪が降っているみたいで、黒い雪が降っていると言ってました。
十二頭の牛と太郎冠者が、そんな雪の中を、都を目指して歩いているのです。
寒い。すごく寒いのです。太郎冠者は、頭や肩に雪を積もらせています。
十二頭の牛達は、言うことをききません。太郎冠者は、ムチ1本で、なんとか牛を動かします。
その場面はおもしろい反面、太郎冠者のつらさも伝わってくる場面でもあります。
下手すれば、凍え死んでしまいそうな感じなのです。
でも、そこで、峠の茶屋が現れてくるのです。
そこで、さっきまで凍えてしかたがなかった身体がだんだんと暖まってくるのです。
観ている方としては、ちょっとホッとする場面。

狂言を、しばらく観てきていますが、たまにこのように、つらいかなという場面もあったりするのです。
狂言というと、「笑い」なんてイメージがあるけど、いろいろ知っていくとそれだけじゃない。
いろんな感情が詰まっていると思うのです。

太郎冠者は、その峠の茶屋で、凍えた身体を温めようと、お酒を注文するのですが、無いとのこと。
で、ここからが狂言と言う感じなのですが、太郎冠者は茶屋の主人と一緒に、贈り物にたのまれたお酒を飲み干してしまうのです。
ムム~。。。やってしまいました太郎冠者。酒の勢いで、やりたい放題。
しかし、この太郎冠者が、おいしそうに酒を呑むワケです。楽しそうに踊るワケです。気分上場、千鳥足もかろやか。
さっきまでつらかった反動か、この酒盛りの場面が、えらく楽しく見える。
峠は大雪。黒い雪が降っているのです。でも、茶屋は暖かく、大盛り上がりです。

この「木六駄」という曲は、とてもドラマティックに感じました。
今回は、ホール会場だったので、照明の演出があったりしたせいかなぁ。。。
能楽堂では、照明の演出というのは無いみたいなんですよ。でも、能楽堂の舞台には、ホール会場とは違う光と影が存在するに感じがします。
なんというか、能舞台任せの光と影という感じでしょうか。能楽堂で、狂言を観たのは2回くらいなのですが、そう感じました。
能楽堂は、ホール会場とは空間の広さや、観る角度も違う。

光と影でドラマティック。
誰も立っていない能舞台の光と影を見ているだけでも、いや、街角の陰日なたを見ているだけでも、そこにドラマテックなものを感じれるのかもしれない。
そんな事を感じた曲でした。
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