夢中人

sura@cosmic_a

2008年09月18日 | Weblog
旅に出かける前に、それなりに飛鳥に関する本を見ていたんですよ。
そしたらその中に、飛鳥の食膳の再限写真があったんです。
その当時の貴族の食膳は(私からみて)そーとーなおごちそうですよ。
現代からみても、かなりいい物だと思います。
で、その中に気になる物があったんですよ。
それは「蘇(そ)」という食べ物。
蘇は、チーズみたいなもので、仏教と共に日本へ入ってきたと思われる
牛乳でできいるそうです。
搾りたての牛乳を焦げ付かせないように7~8時間火にかけ、水分をとると
赤みを帯びたベージュ色の塊ができるそうです。
それを型枠に入れて形をととのえて食べやすい大きさにして食べるそうです。
この蘇は当時は、超高級食材だったみたいです。そして、美容の滋味でもあり、
また、薬みたいな役割もあったみたいです。
貴族の人々の中でも、一部の人しかくちにできなかったみたいですね。

チーズおいしいもんね。今やいろんな種類のチーズがある。
そんなこんな記憶を残しながら飛鳥へいってみたら、なんと飛鳥寺の売店で蘇が売られていました。
早速購入してみていただいてみました。
 
。。。うん。牛乳。チーズよりちょっぴり苦さがあるというか、甘みが少ないかな。
そっか、薬でもあったんだもんねぇ。
なんというか、牛乳との付き合いがこんなに長かったなんて知りませんでした。
ちなみに、その当時の庶民の食事は、現代でいうところの朝ごはんみたいなもんです。
ヘルシーと言えばヘルシーです。
そうそう、あと、お箸なんですが、貴族は使っていたみたいなんですが、
庶民は小さいスプーンサイズのしゃもじみたいなのを使っていたみたいです。

貴族の方がはあのお食事を全部いただいていたのかなぁ。
いくら私がよく食べると言っても、あの量は毎日いただけません。
日頃は庶民のお食事量で、たまに宴の時などにあんなお食事だといいと思うんですが。
どうだったんだろうか。。。
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法隆寺

2008年09月18日 | Weblog
法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築。
訪れたのは2回目。前回は高校生の時の修学旅行で一度行きました。

 
 
 
603年(推古13年)聖徳太子は飛鳥を離れてこの斑鳩にある法隆寺に引越ししちゃうんです。
聖徳太子はなぜ都を離れ、この斑鳩にきちゃったんだんでしょう?
ん~。。。と考えてみて、もしかしたら、蘇我一族の一員としてこの世に生まれてきちゃって、
しかも賢かったばっかりに国政のお仕事をせざるおえないことになっていて、しかも重要なポスト。。。
でも、太子は、一生懸命に国政のお仕事に力を注いだはず。
そんなある時、太子はもっと仏教のことを研究してみたいと思ったんじゃないかな。
それで、飛鳥周辺に引越ししちゃっても同じ状況になるだろうし、それだったら飛鳥を出て、でも遠すぎずの距離
(飛鳥から斑鳩につながる太子道をつかって徒歩で3時間くらいの距離)にあるこの土地を撰んだのかなぁと思いました。
その当時のお寺は学校みたいなところだったんですよね。
そうすると太子はそこで、仏教を研究する学者さんということになるのかな?
法隆寺の中には、東室や妻室という、僧侶が生活していた住居があるんですよ。
 
それって、今言う学生寮みたいなんものなのかなぁと思ったです。
太子は仏教の研究にも、そして教育にもちからをそそいでいたのかなぁ。。。

お寺の建築の目的は教育だったのかな。人間力を高めるお勉強を広めて、それを国の力にしていきたかったのかもしれないな。
それは、太子はもちろん、蘇我馬子さんも推古天皇も同じ気持ちだったんだろうな。
学び続けるには生きていかなければならないよね。生きていくことで学べることも沢山ある。
多くの人々が、生きていって学んでいけるようにと、お寺にはそんな願いもこめられているのかもしれないな。
お寺ってそうなのかなぁ。。。と思っていて、法隆寺にて文字を書く機会にあったんですよ。
その時にかいた文字です。

「生きていくこと」「学んでいくこと」と書いてみました。
日本には書道という道がありながら、私は文字を書くのはイマイチです。
筆を持つのも随分と久しぶり。
。。。でも、書道っていいかもと思いました。一文字書くだけで何かが違いますね。

  
  
こちらは、太子が瞑想にふけったという夢殿。太子はどんな瞑想をしたのかな。。。
法隆寺は、その当時の国を司る方々の願いや希望がこめられた所なのかな。
日本に繁栄をもたらし、そしてずっと学び続けていけるようにと。

法隆寺では沢山の写真を撮ったけど、この写真が一番のお気に入りとなりました。

五重塔の屋根と空しかなんですけど、なにかいいんです。

法隆寺にもうそろそろ紅葉の季節が訪れようとしています。
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十五夜狂言の夕べ

2008年09月18日 | 狂言
今回の旅の不思議がもう1つあるんですよ。
それは、今回の旅は「法隆寺」が目的て行こうと思った旅なんです。
この法隆寺にさえ行けば、飛鳥文化はわかるだろうぐらいに思っていたんです。
よしっ、法隆寺に行こうと思って、ネットでいろいろ検索していたら、
なぜかリニューアルしたばかりの「万作の会」の公演スケジュールをチェックしたくなったんです。
で、よくよくみてみたら、16日の夜に橿原文化会館にて「十五夜狂言の夕べ9」で萬斎様が出演されるとのこと。

へ~と思って、でもこの橿原というのがどこにある街だかわかんなくて、それよりも、なんと読むのかもわかりませんでした。
でも、よくよくホームページなどを読んでいると、橿原市は奈良県にあって、まさにそこ辺りが飛鳥文化の発祥の地だったんです。
法隆寺は、飛鳥時代を代表するお寺なのかもしれませんが、そこは聖徳太子の研究所みたいなところで、
そこが政治の中心地ではなかったんですよね。
飛鳥文化を知りたければ、この橿原市に行かねばならなかったんです。
この萬斎様の狂言がなかったらこの橿原市には足を運んでいなかったような気がします。
。。。そう思うんですよ。


この「十五夜狂言の夕べ9」ですが、初めて観させていただく大蔵流狂言と和泉流狂言がありました。
そして、トーク&ワークショップは茂山宗彦さん。あのNHK朝の連続テレビ小説に出演されていた方ですね。
おしゃべりはとっても快調な感じでお上手でした。
その中で、何人かの方の物まねをされていたんですよ。その中に、萬斎様がいらっしゃいました。
「遠いと思っていたけど意外に近いね・・・」とか「橿原文化会館なのに橿原じゃないというフェイント的な・・・」などと
宗彦さんの物まねはとってもお上手でした。
もう一回観たいかも。。。

この旅は台風が近づいているということで、天気が心配されたんですが、そんな心配はなんのその、良い天気に恵まれたと思います。
この狂言が終わって、会場を出たら夜空に真ん丸い月が。
あの月ではウサギが餅つきをしているんですよね。
その考えは、すでに飛鳥時代にはあったらしく、聖徳太子がお亡くなりになられた時に、
お妃様の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が太子の往生した天寿国の情景を見たいといってつくらせた
天寿国繍帳というのがあるんです。
その天寿国繍帳の左上に月があるんですが、そこにはウサギが餅つきをしているんです。
お月見の習慣は縄文時代からあったらしく、すでに飛鳥時代には確立されていたのかもですね。
すごいですねぇ。。。飛鳥時代はだいたい今から1400年前。。。だからぁ、縄文時代はさらにその何百年前?
とにかく、その時からの習慣がまだ残っているんですよ。
いろんな意味や形がその時代によって異なるかもしれませんが、みんなで、知らない土地の人々も、遠くにいる人も、
同じ月を見上げるという習慣が。
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飛鳥への旅

2008年09月18日 | Weblog
京都・奈良まで、ちょっと出掛けてきました。
1泊2日と短い滞在だったんですが、いろんな所を駆けずり回り、
そしてまた、萬斎様の狂言も鑑賞してしまうという有意義な旅となりました。

今回に移動は新幹線を使いました。
飛行機や高速道路など、いろんな移動手段がある中、この新幹線の利用は久しぶり。
何十年ぶりといっていいです。そんな何十年の間に新幹線も進化していたんですね。。。
 
利用させていただいたのは「N700系」という新型モデル。
新幹線ってこんなに広かったけ?と思わせるような明るくて広々とした空間。
これっていいかもと思った車内の電光掲示板。文字が大きく読みやすい。
ちなみに行きの電車では、経済のニュースが中心だったように思えます。
博多~京都間はこのN700系で約2時間40分。
京都って意外に近かったんだなと思った。新幹線いい感じです。
また乗らなきゃ。

最初に訪れた場所は、飛鳥文化発祥の地大和飛鳥。
推古天皇や蘇我馬子、そして聖徳太子らにより、政治、そして文化の発信が行われた場所。
その当時の都だったんですね。飛鳥は広々とした田園風景が広がる場所でした。
そして、黄金色の稲の中に紅い花が。。。そう、彼岸花が今から咲きほころうとしているところでした。
 
 
 

この飛鳥では、蘇我馬子が建築したという日本で初めてのお寺「飛鳥寺」や
蘇我氏のお墓と言われている「石舞台古墳」、そして飛鳥に関しての本に書かれてあった
「亀形石造物」などを観ることができました。
 
「亀形石造物」は2000年に発見されたものです。
そこからは、亀形石造物を含む導水施設や石垣・石敷もみつかったみたいで、
導水施設は湧き水施設から水を流し、木樋によって小判形石造物へと水を流し、
水槽に溜まった上澄みだけが側面の小穴から亀形石造物の鼻に流れ込んで、背中の水槽に溜まる構造になっているみたいです。
この水を聖水として使用していたのではないかということです。
 
↑これが「亀形石造物」。そのとなりが遺跡全景。
きれいにのこっているんですよね。すごいなとは思うんですけど、でも、なんで亀?
飛鳥時代に創られたものを観ていると、ちらほらと亀が登場してくるんです。
そりゃぁ、鶴は千年、亀は万年といってめでたい感じはするんですが、
飛鳥時代では、結構ポジションが高いような気がするんです。
なんでかなぁ。。。と思っていて、まぁ、その時代の価値観かなぁなどと思っていたら、
あるお寺の池に、亀が泳いでいたんですよ。
あぁ。。。亀だぁ。亀ってこんな感じだよなぁ。。。と思ってなにげなく写真を写したら、こんな写真がとれました。

亀の甲羅のところに男性のような模様が見えません?まさに飛鳥時代の人を思わせるかのような風貌。
目をカッと見開き、冠をかぶられて、口ひげとあごひげがあって、立て襟のような飛鳥時代のお衣装を身にまとっていらっしゃるようじゃないですか。
私はこれを見て思いました。
飛鳥時代の方々は、亀を神か仏の化身か、もしくは、その方々の使いと思っていたのではないかと。
だから「亀形石造物」はまさに聖なるもので、亀の甲羅の部分に水を溜め、そこになにかを映し出していたんじゃないかと感じました。
これは、あくまでも私の妄想ですけどね。
でもですよ、「浦島太郎」は神話の部類みたいですよね。
浦島太郎」と言えば、亀が登場してきますよね。結構、重要な役割です。
亀ねぇ。。。亀。
ちなみに、この亀は法隆寺のそばにある中宮寺のお池にいらっしゃった亀です。
中宮寺のことは、また後で書きたいと思います。

ちょっぴり不思議で冷静さと情熱がからみあったロマンあふれる古代日本の旅はまだまだ続きます。。。
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