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思索 電子回路 論評等 byホロン commux@mail.goo.ne.jp

愛と青春

2008-03-01 18:08:49 | 音楽・映画
ピアノ・レッスン
監督 ジェーン・カンピオン

私の中では「セックスと嘘とビデオテープ」に次ぐ、或いは双璧のラブストーリー。もちろん両者は全く異なるものであるが、映像と音楽の美しさは「ピアノレッスン」をひときわ引立たせている。主人公のエイダは農夫の夫と見合結婚のためにニュージーランド南端の島にやって来る。エイダは、顔にマオリ族の入れ墨をした無愛想な隣人ベインズにピアノを教えることになり、ここから物語りは展開する。一見奇妙な状況の中で、エイダがベインズに心を奪われていく様子、ベインズのエイダに対する愛情の深さなどに素直に納得させられるリアリティがある。描写のみならず内容を包括して、息を呑むほどの美しい映画。


ブラザー・サン シスター・ムーン
監督 フランコ・ゼフィレッリ

フランチェスコは裕福な商人の息子で、頭のいい快活な青年。そのフランチェスコが友人と共に十字軍として遠征し、戦闘半ばにして夢遊病者のように町に戻り帰る。意識を回復したフランチェスコはもはや別人となっていた。否もはや人ではなかった。魂を失ってしまっていたのである。心に強い印象として残るシーンと言葉の数々。物悲しい音楽と薄暗い映像で始まるが、見始めるとラストまでの時間を感じさせない。映像と音楽もしだいに明るく清らかな美しさを見せ始める。終了の後もまだまだもっとずっと見ていたいと思わせる第一級品の映画。またドノバンの音楽を抜きにしてもこの映画は語れないだろう。
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クチャル デュトワ

2008-02-07 23:03:19 | 音楽・映画
カリンニコフ「交響曲第1番」
テオドレ・クチャル指揮 ウクライナ国立交響楽団

ヴァシリー・カリンニコフは34歳で世を去った才気溢れるロシアの作曲家。悲運の天才作曲家とも言われる。Wikipediaの記述に「1892年にチャイコフスキーに認められ、マールイ劇場の指揮者に推薦され、それから同年にモスクワのイタリア歌劇団の指揮者も務める。」とあるが、カリンニコフの曲は楽想がチャイコフスキーによく似ている。生涯に作曲された二つの交響曲も、確かに構成やオーケストレーションはチャイコフスキーの亜流にも思えるが、メロディーは絶品と言えるほど美しく壮大な響きも決して退けを取らず、聴き応え十分である。カリンニコフが一般に知られるようになったのは比較的最近のことでレコーディングもあまり多くはない。このクチャル盤以外には、ヤルヴィ、アシュケナージ、スヴェトラーノフN響のライブ版くらいである。しかし第1第2交響曲共に名曲であり、今後演奏会の演目などにもプログラムされることも多くなってくるだろう。ここに紹介した4つのCDも味わいは異なるが、曲が良いことと演奏の歴史も新しく、それぞれに皆素晴らしい。


チャイコフスキー「序曲 1812年」、展覧会の絵
シャルル・デュトワ指揮 モントリオール交響楽団

一般的に見て、デュトワ・モントリオールの演奏でこの収録曲数と選曲はお買い得。しかし、どんな曲であれその本物といえる演奏を知っている人にとっては、名曲を何曲詰め込んだものでも、つまらない演奏であればほとんど無価値に等しい。そういう意味では、このCDは一流所の水準には達しているものの、通を唸らせるほどのものではないだろう。しかし「スラヴ行進曲」は別。この演奏を聴いて曲の概念が少し変わった。「スラヴ行進曲」はチャイコフスキーの音楽にしてはやや芸術性に欠け、耳当たりは良いものの内容の薄い二級品と思っていたが、この演奏は一級品の音楽を聴かせてくれた。リズム、テンポ、各パートの音色と効果、全体の響きとバランス等、実に心地良い。あ、「スラブ行進曲」ってこういう曲だったんだと、目からウロコが落ちた。「スラブ行進曲」だけでもこのCDは買う価値有り。入門者の方々には「1812年」に難はあるものの、全曲お奨めの一枚である。
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ルワンダの涙

2008-01-09 20:07:19 | 音楽・映画
映画「ルワンダの涙」
イギリス=ドイツ合作

手にナタを持ち殺人鬼と化したフツ族の群集に包囲された公立学校の敷地、そこは非難してきたツチ族の村人で溢れかえっている。また状況監視のために派遣された国連軍がそこに駐留していた。学校長はこの村で30年暮らしてきた老神父。そして海外青年協力隊として赴任してきた青年教師が村の子供たちに勉学を教えていた。

いったい人間とは何ものなのか。この映画は、すべての人間の細胞に記述されているプログラムがどのようなものであるのかをハッキリと示して見せる。科学思想家のアーサー・ケストラーは次のように指摘している。

「人間以外の動物は同じ種族のもの同士が争うことはあっても、致命傷を与えることに対しては強烈な自制が働く。人間はどこかで進化を失敗したのだ。もはや人類が自らの手で自らを滅ぼすのは明らかであり、それは時間の問題なのである。」

繰返しになるが、この映画(事実)は人間を丸裸にし、そもそも人間が何ものであるのかをシーンの至るところで明々白々に露わにしている。殺戮はもとより、ボスニアでは毎晩のように泣いたが、おびただしい黒人の惨殺体を見ても涙が出ないと呟く白人女性TVキャスター。軍人は命令にのみ従うと言い、助けを乞う避難者たちを残し、部下と共に撤退していく国連軍大尉。村人と心を通わせ合ったつもりでも、最後には逃げる青年教師。別に彼らを非難しているわけではない。人はそのように作られているのだ。ツチ族のリーダー役が、立去ろうとする国連軍大尉に懇願するセリフは衝撃的だった。

ツチ「去る前に私達を撃ち殺して欲しい。」
  「ナタで殺されたくはない。銃なら一瞬だし痛みも感じない。」
大尉「No.」
ツチ「ならば、子供たちだけでもそうしてくれないか。」
大尉「I can not help you.」

老神父は最後に神を捨てる。この映画は人間の本性を見せるとともに、神が如何に無力であるかをも示して見せた。
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トン・コープマン

2007-12-24 18:14:24 | 音楽・映画
トン・コープマンの「レクイエム」聴きましたよお。(^^)
いやはや、最初に聴いた時はニコラさんが言うようにすっ飛んでいってしまいましたが、2度3度と聴いているうちになんとか聴けるようになりました。

これは、言わば別物だね。一般的な「レクイエム」とは同じ土俵では比較できないな。

でも、これはこれで楽しむこともできると思うよ。その昔、寺内タケシというギター弾きが「レッツゴー運命」と題して、ベートーヴェンの「運命」をエレキギターで弾いたんだけど、とても楽しい演奏だった。これと同じだね。

トン・コープマンの「レクイエム」は、確かに声楽がとても綺麗だね。でも何となく人工的な美しさのようにも聞こえる。比べて、ベーム版を聴くと、声楽がいかにも肉声という感じでずっとリアリティがある。それとコープマンのはオケが伴奏に徹していてつまらないね。ベーム盤では声楽とオケが一緒に歌ってるんだよ。

まあ最初に言ったように、比べるべくも無いんだけど、あえて、例えば「怒りの日:ディエス・イレ」と「涙の日:ラクリモサ」をベーム盤と比べて聴いたら、月とスッポンであることがよく分かるよ。

でも、このコープマンも、僕にとっては新しく楽しい貴重な一枚だけどね。
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第5、第7交響曲

2007-11-25 22:06:02 | 音楽・映画
ベートーヴェン
交響曲第5番「運命」、交響曲第7番

カルロス・クライバー指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

数ある交響曲群の最高峰に君臨する、言わずと知れた超名曲。「運命はかく扉を叩く」とベートーヴェンが言った、冒頭の”運命の動機”を知らない人はいないだろう。重く悲劇的な運命を暗示するような第1楽章、一転して華やかで美しすぎるとも思える第2楽章、3楽章に”運命の動機”が再び現れ、勝利の響きを奏でる4楽章へと至り、フィナーレは興奮の坩堝と化す。
カルロス・クライバーとウィーン・フィルによる演奏はこの曲の決定版の一つと言える。開始から終曲まで息をもつかせぬ演奏である。手に汗握るとは正にこのことだ。高らかに鳴り渡る4楽章の冒頭は、あのフルトヴェングラーも脱帽だろう。他に「運命」の名演を残している指揮者として、ベーム、イッセルシュテット、ホルスト・シュタイン、小沢征爾などがいる。そして不動の演奏と称されるフルトヴェングラーを忘れることはできない。それともう一つ注目に値するのが、1968年にピエール・ブーレーズが録音した特異な演奏である。信じ難いような遅いテンポで進み、第3楽章のリピートも行っているので長大な「運命」ができあがった。当時賛否両論が巻き起こったが、私はこの演奏は歴史的名演の一つだと思う。

ベートーヴェンの交響曲の中では、激しく感情的な「運命」や標題の付いた「田園」とは対照的に、第7交響曲は論理的な音の積み重ねによるピュアな音楽の美しさが再認識できる曲。まず初めにリズムありき、この音楽の基本がよく分かる。
今でこそこの曲の定番とされている、クライバーとウィーン・フィルの演奏であるが、初めて世に出た時は、衝撃的であったものの、必ずしも絶賛を得たわけではなかった。多くの評論家はむしろ否定的であり、その主たる言い分は、長い演奏の歴史の過程で切り捨ててきた音もあり、それを今更掘り起こすのは賛成できないというのもであった。実際に聴いてみると確かに色んな音が出てきて、おっ!と思う所もあるが、それは決して誇張されたものではなく、その他の音とうまく調和しており、いささかもバランスを崩してはいない。それに実はそんなことは大した問題ではなく、この演奏の真価は、指揮者と演奏家が一体となり、また曲と一体となって初めて放出される音の力にある。この点で第5番「運命」と全く同様であり、この演奏も第7交響曲の決定版の一つと言えるだろう。クライバーの7番と5番がカップリングされ一枚のCDで聴けることは、何とも幸せなことである。
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PIANO QUINTET SUITE

2007-10-23 23:04:53 | 音楽・映画
「大西順子」

概ね音楽はどんなものでも好きなのだが、ジャズだけが元来苦手で、そのことがずっと残念に思えてならなかった。これまでも、クラシックベースのジム・ホールの「アランフェス」や、ジャック・ルーシェの「バッハ」、それとややジャズの香りがするジョージ・ウィンストンなど、数えるほどしか聴いていない。それとて、さほど聴き入るほどのことも無かった。

しかし、この「PIANO QUINTET SUITE」は、こんな私をかなりジャズに近づけてくれた。大西順子の粒立ちのいいピアノ、洗練された現代タッチの楽想は聴いていてとても心地いい。ジャズが他の音楽と異なるのは、ブルーノートという独特の和音以外に、メロディーであれ、ハーモニーであれ、音の出ているその「瞬間」を聴くということにあると思う。どんなに魅惑的な響きも、それが現れた直後に消滅し後に何も残さない。また、その先を期待したり予想したりすることも無意味である。その点、他の音楽は開始から終了までの全体が大きな意味を持つ。取っつきにくいクラシックも、何度も聴いているうちに断片的な曲の記憶が次第に繋がり、いつの間にか最も好きな曲の一つになっているということも、曲全体の持つ意味が大きいからなのだと思う。クラシックのジャンルにも、ジャズ的な音の聴き方をする曲がある。ブルックナーがその最も典型的な例だろう。ブルックナーも全体として捉えることに、あまり意味は無く、それ故、まったく初めて聴く場合でも、瞬間の音を味わい深く聴くことができる。
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ソラリス

2007-10-15 21:47:02 | 音楽・映画
監督 スティーブン・ソダーバーグ

惑星ソラリスの軌道を周回する宇宙ステーション「プロメテウス」が通信を絶った。最後の通信には、精神科医クリス・ケルヴィン博士に助けを求めるSOSのメッセージが送られていた。なぜ心理学者であるクリスに?ソラリスに赴いたクリスが発見したものは科学者2名を除く船員達の死体であった。
(解説より)

画像の切り取り、アングル、配色、画面の息遣い、これはもう明らかにソダーバグの映像。スタニスラウ・レムの原作を読んで、タルコフスキーの「惑星ソラリス」を観た時にはがっかりさせられたが、この「ソラリス」は筋金が入っている。見かけ上のジャンルを越えているので視点は全く異なるのであるが。しかしソダーバーグにラブストーリーをやらせると、どうしてここまで天才的なのか?レムの原作を骨格として借り、あの「セックスと嘘とビデオテープ」の切り口をドラスティックに変えて見せられているような気もする。とにかく片時も目が離せず、あっという間に時間が過ぎるが、観る側の緊張感の継続によっては途中で息切れするかも知れない。しかし見終えた後の充足感にやや欠ける。十分説明しきれていないのである。もう一押しが欲しかった。これをSFのジャンルに入れようとすると、とんでもない駄作にもなりかねない。
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ブルックナー第8

2007-08-30 21:05:56 | 音楽・映画
時としてブルックナーの響きに、心が霊感を覚えるかのように震えることがある。それはほんとに希なことなのだけれど、あの和音の響きと短いフレーズの美しさに、そんな力があるのは確かだ。そのように曲と同化して震えるとき、自分の感性が他の曲を聴くときとは異なった次元に在ることに、フト気づく。例えば、他の曲を聴く時と同じ感性で、この第8交響曲を聴けば、聴こえてくるのは、4楽章の冒頭部、中間部のティンパニーの行進、3楽章の一発のシンバルとともに立ち上る天国的響き、2楽章の恥ずかしい笑い、そしてミレドと終わる致命的フィニッシュ、それだけ。他は何も聴こえない。
音楽は時として、笑いを呼び起こすこともできる。それは愉快というよりも恥ずかしくなるような笑いで、心地よいものではない。それをモーツァルトは「音楽の冗談ヘ長調」で、逆テクニックとして示して見せた。これはやってはいけないよ、と。ところがブルックナーは平然として、至る所にその”冗談”を置いているかのようだ。むろん彼にとっては冗談ではなく、クソ真面目にやってるに違いないが。日常的感性で聴くなら、第8、第9交響曲の2楽章は恥ずかしい「笑い」であり、第8のフィニッシュは、「ミレド、ミレド、ミ・レ・ド」とはしてもらいたくないのである。
しかし、感性の次元がブルックナーの側にシフトした時、世界が反転する。そこに聴こえる響きは全て神々しい輝きを放つものとなり、それが有限空間に緻密に詰め込まれた一群に変わる。開始や途中や終了など実は無いと言っていいほど希薄であり、瞬間の和音の響きに最も多くの意味がある。刹那に消えていくこの響きと同化する至福の感覚、この先何回味わえるのだろうか。いやはや困ったものである。
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