長い間、中断していた表題のシリーズを再開します。
播磨町散策シリーズの第3回で梅谷家4代目の梅谷七右衛門清政と関係が深い金泉寺
の墓地を中心に写真紹介します。
金泉寺は昔、尼寺でしたが現在は無住の寺となっています。
シリーズ過去のブログ
第1回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その1 播磨小学校のクスノキ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
第2回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その2 新聞の父濱田彦蔵の碑 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
金泉寺の基本情報
住所:兵庫県加古郡播磨町本荘2丁目12−32
宗派:浄土真宗 山号:海寿山 別名:角之坊
所在地のGoo地図を添付しておきます。
上の2枚の写真は金泉寺の遠景です。無住の寺にも拘わらず、地元の有志により
よく管理されているようです。
上の写真は入り口の地蔵尊
金泉寺の由緒
宝永7年(1710)、本荘村の中では屋敷が不足し、屋敷を持てない百姓も多いなか、
大水が出て喜瀬川が氾濫し堤や水門が流出しました。東本荘村の庄屋、梅谷七右衛門清政は
藩の命によりその復旧に当たりました。この時、5年の歳月と延べ3万人の人足を投入して
敷地を拡げる工事を行いました。
こうして新しく生まれた土地は土地境界を明確にした上で、村内の屋敷を持たない百姓
38軒を選んで与え、自立させました。またこれを機会に、村の中にあった三味(埋め墓)
を川の東に移し、その跡地には新しくお堂角の坊(金泉寺)を建て、堂守を置いて朝夕読経を
させたうえ、毎年7月7日に施餓鬼を行って、この地に葬られた人々の供養を怠りませんでした。
梅谷七右衛門清政、29歳 時は正徳2年(1712)のことでした。
上記文章は下記サイトより引用しました。
上の2枚の写真は本堂と本堂に架かる扁額
宝暦5年(1755)、梅屋七右衛門清政は金泉寺(角之坊)に唐戸を建て半鐘を釣りました(72歳)
上の写真は累代の堂守の墓群
上の写真は梅谷家の墓群
梅谷七右衛門清政の直系かどうかは未調査で不明
この周辺は梅谷姓が多いようである。
本庄・梅谷氏は最初、平郡姓を名乗っていました。元禄(1688-1704)の頃、加古郡口里村
(加古川市尾上町)の梅谷氏から妻を迎え、その後、寛保年代(1741-1744)に松平姫路藩主
に仕え、梅谷に改姓し、七右衛門を襲名しています。
関連動画:
東播フォーカス第59回「梅谷七右衛門清政とゆかりの文化財」
上の写真は享保3年(1718)の年代が判読できた墓石
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