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夏王朝の王様

2022年12月15日 03時51分28秒 | Weblog
夏(か、拼音(ほうおん): Xia、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、史書に記された中国最古の王朝。
夏后氏ともいう。夏・殷・周を三代という。『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。
以上はWikipediaより引用

夏は三皇五帝(堯(ぎょう)、舜(しゅん)など)の時代を経て禹(う)が建国したと
される伝説的王朝です。
二里頭で夏王朝の宮殿跡が発掘されました。
中国の学会では夏王朝が存在していたとの見解が主流であるが、日本の学会では慎重論が
主流でまだ夏王朝があったかどうか確定していない段階である。
文字が書かれた遺物が出土していないのも一つの要因。

夏の帝の一覧について調べてみましたので紹介します。
日本で言えば縄文期であり当時の先進国中国と日本の差を感じます。

王の名前(読み方)  諱    備考
 禹  (う)    文命   鯀の子
 啓 (けい)        禹の子
 太康 (たいこう)      啓の子、失国する。
 仲康 (ちゅうこう)     太康の弟
 相  (しょう)      仲康の子
 少康 (しょうこう)     相の子
 予  (よ)        少康の子、中興する。
 槐 (かい)        予の子
 芒 (ぼう)        槐の子
 泄 (えい)        芒の子
 不降(ふこう)       泄の子
 扃 (けい)       不降の弟
 廑 (きん)       扃 の子
 孔甲 (こうこう)     不降の子、廑 の従兄弟
 皐 (こう)        孔甲の子
 発 (はつ)        皐の子
 癸 (き) 桀(けつ)   発の子

上記の出典は岳南 著「夏王朝は幻ではなかった」柏書房(2005) Page264
及びWikipediaを参照しました。

岳南 著「夏王朝は幻ではなかった」の表紙と該当Pageを添付しておきます。



この本によれば、夏王朝の存在期はBC2070年~BC1600年とされています。
二里頭遺跡の時代と一致します。

最後に二里頭遺跡についてWikipediaの解説文を添付して筆を置きます

二里頭遺跡(にりとういせき、二里头遗址、拼音: erlǐ tou yizhǐ 、アーリィトウ・イージィ)は、中国の河南省洛陽市偃師区翟鎮二里頭村で発見された新石器時代末期から青銅器時代にかけての都市・宮殿遺跡である。1988年に全国重点文物保護単位に指定された。

概要
「二里頭文化#二里頭遺跡」および「二里頭文化#夏・殷朝との関連」も参照
1959年に発見されて以来発掘や研究が進められている。1960年には規模の大きな宮殿の基壇が発見されており、中国初期王朝時代に属する最古の宮殿建築とされている。二里頭遺跡は
紀元前1800年から紀元前1500年頃の遺跡と見られ、中国の史書の夏の時期に相当するため、中国ではこの遺跡は夏王朝の都の一つと考えられている。しかし都城・城壁の跡は発見されていない。また文字資料は出土していない。

これまで発掘された二里頭遺跡は4期に分けられている。1期および2期からは石器や陶器を作る工房が発見され、その基調は農村文化である。3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見された。宮殿の遺跡は2つあり、一号宮殿址は南北100m、東西108mの方形の基壇の上に建てられ周囲には塀などが発見された。そのすぐ近くにある二号宮殿址は東西58m、南北73mの基壇が発見され、その北に大きな墳墓があるため、祭祀のための施設とも考えられる。近年はさらに大きな都市や道路の遺跡も発見されている。

中国の考古学界には二里頭遺跡がどの王朝の遺跡であったかに関して様々な推論がある。ひとつは1期から4期までの時期から夏朝の文物が出土していると見てこれを夏王朝の都とみる説であり、また1期と2期からは夏朝の文物が、3期と4期からは殷の文物が出土しているとして、大きな宮殿は殷の初期のものであると見る説である。

二里頭遺跡から約6km東には殷初期の大規模な都城遺跡が見つかっている(偃師商城、Yanshi-Shangcheng)。

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