神戸市中央図書館の機関誌「KOBEの本棚」第101号(2022年7月20日)に神戸市初代市長
「鳴瀧幸恭(ゆききよ)」について肖像写真と布引水源五本松堰堤の写真とともに業績が紹介
されていました。
これに刺激されて、水道市長と呼ばれた神戸市初代市長「鳴瀧幸恭(ゆききよ)」について
調べてみました。
上の写真は初代市長の鳴瀧幸恭(1849~1925) で鳴瀧市長の御曾孫より
中央図書館に
寄贈された4枚の内の1枚です。
出典:「KOBEの本棚」第101号(2022年7月20日)
神戸市初代市長 鳴瀧幸恭の略歴
鳴瀧幸恭(なるたき ゆききよ)神戸市初代市長について
Wikipedia より解説を引用紹介します。
一部加筆
鳴瀧幸恭 鳴瀧 幸恭(なるたき ゆききよ、1849年-1925年)は、日本の政治家。 初代神戸市長(在任:1889年5月21日 - 1901年5月20日)。 市営の上水道事業実現に取り組み、「水道市長」と呼ばれた。 京都府出身。 1849年(嘉永2年)、京都に生まれる。 生家は寺侍であった。戊辰戦争に参加したといわれている。
東京帝国大学卒業後、1873年から兵庫県で小学校教員、県警視課職員、検事補(1881年(明治14年))などを務める。 その後兵庫県知事内海忠勝の下で庶務課長として頭角を現した鳴瀧は内海の懐刀と呼ばれるようになり、神戸区長に任命された。 この時内海からは市制施行への準備を指示されており、市制施行後の1889年(明治22年)5月にそのまま神戸市初代市長に就任した。 市長就任当時、神戸市は急速な都市化への対応を迫られており、とりわけ飲料水確保のため上水道の建設が課題として持ち上がっていた。 神戸では1877年(明治10年)以降、度々コレラが発生していたが、そのことと飲料水の確保を井戸水に頼っていたこととの関連が指摘され続けていた。 兵庫県は市制施行前の1887年(明治20年)にヘンリー・S・パーマー(横浜で水道工事を計画・指揮)に上水道建設を打診して以降上水道建設に向けて動いていたが、財政難を抱える神戸区(神戸市)にとって数十万円にのぼる工事費がネックとなった。 1889年(明治22年)の市会で水道事業は市営とし当面は調査するという結論が出ると、鳴瀧は市会議員への説明を重ね、1893年(明治26年)7月の市会でようやく関連条例案を成立させた。 工事の起工式が行われたのはさらに4年後の1897年(明治30年)5月で、1900年(明治33年)に市内への給水が開始された。 当初115万円であった予算額は392万円に膨れ上がり、鳴瀧は市会で厳しい追及を受けた。 鳴瀧は「水道市長」と呼ばれ、烏原堰堤取水口に功労者として名前が刻まれている。 1901年(明治34年)5月20日をもって市長を退任した後は、神戸銀行、兵庫県農工銀行、神戸信託の頭取を務めた。 1902年(明治35年)、須磨浦尋常小学校創立に加わった。 1925年(大正14年)死去。
明治22年(1889)に神戸市長に就任以降12年間の任期の間、市会、財界、市民の声をよく聞き
水道事業の他、学舎の建造や道路の開削など多くの事業を行った。
鳴滝市長の略歴を紹介したYoutube動画がありましたのでGooで共有させていただきました。
鳴瀧幸恭 VIDEO
給水開始当時の配水系統図
「神戸港で給水した水は赤道を越えても腐らないー世界一の名水だー」こう言って 世界の船乗りから絶賛された神戸ウォーターは六甲山の花崗岩により濾過され、 CaやMgなどのミネラルイオンも適度に含む軟水で飲料水としても適していた。 その水源地は布引ダム(布引水源地水道施設)正式名は布引五本松堰堤で 明治33年(1900)に完成、神戸市水道として給水されています。 給水開始当時の配水系統図を添付しておきます。
この神戸ウォーターは1940年代前半まえ神戸港に立ち寄った外国船に供給 され上述のように世界一の名水と絶賛された。
現在の神戸市水道
神戸の水道は明治33年(1900)に近代水道として全国で7番目に給水が 開始されました。
なお、上水道で一番古いものは赤穂用水である。 赤穂用水は、江戸時代に上水道(赤穂上水)として赤穂郡代垂水半左衛門指揮の下、 元和2年(1616)年に隧道掘削という難工事を乗り越え造成され、神田上水、 福山上水と並んで日本三大水道のひとつとして有名である。当時としては珍しく 城内だけでなく城下町の各戸にまで給水されており、暗渠管には備前焼土管を 用いている。
これからは現在の神戸市水道 に関する記述です。
上の図は神戸市水道局が作成したリーフレットからのもので神戸の水道の基本情報が 盛り込まれています。 (1)神戸市の水道の水源 74.1%が琵琶湖・淀川からで阪神水道企業団より購入 他に呑吐ダム(北区)、青野ダム(三田市)の水を兵庫県水道用水供給事業より 購入 3.2% 神戸の自己水源は千苅貯水池、烏原貯水池、布引貯水池、その他(住吉川などの 小河川、新神戸トンネルの湧水など)22.7%である。 (2)神戸市の水道の供給能力 88.1万㎥/日 (3)神戸市の水道の浄水場 上ケ原、奥平野、千苅、本山、住吉、六甲山の6箇所
上の図は同じく神戸市水道局が作成したリーフレットからのもので神戸市の水がどのように 配水されているかを示したものです。 配水池の数は125箇所あり、そのうち85箇所は91m以上の位置にあるそうです。 尚、工業用水の供給能力は10.6万㎥/日 水源はすべて琵琶湖・淀川の水です。
烏原立ケ畑貯水池の概要と鳴瀧市長の銘板
烏原池貯水池は、明治10年(1877)に神戸市にコレラが流行した時に、 伝染病を予防する為にも貯水池が必要で、当時水道市長と呼ばれた鳴滝幸恭 (なるたき ゆききよ)が取り組み、ダム工事を完成させました。 まず、烏原貯水池の概要を現地の説明板より引用紹介します。 (一部加筆)着工:明治34年(1901)6月 完成:明治38年(1905)5月 大正4年(1915)3月ダムの高さを2.7m かさ上げし現在の高さとする 平成16年(2004)石井ダムの完成 (新湊川のオーバーフローによる浸水対策 烏原貯水池の治水) ダム名:立ケ畑ダム 設計者:佐野藤次郎 ダムの高さ:33m ダムの長さ:122m 貯水量:1,315.139㎥
上の写真は烏原堰堤の取水口上屋の建物の外観。(ここに後述の銘板があります)
銘板をそのまま記載します。 THE KOBE CITY WATER SUPPLY KARASUWARA RESERVOIR 「烏原」の地名は昔は「からすわら」と呼ばれていたようです DURATION OF WORKS 1901-1905 工事期間 1901-1905 MR.Y.NARUTAKI 1901-1902 鳴瀧幸恭 1901-1902 MR.H.TSUBONO BL 1902-1904 坪野平太郎 1902-1904 MR.F.KASHIMA MAYOR 鹿島房次郎 市長 第4代市長期間 明治43年(1910)2月28日~大正9年(1920)3月12日
詳細は下記ブログで纏めています。
布引ダムの概要
布引ダムの基本情報 明治33年(1900)に完成した日本最古の重力式コンクリートダム 住所:神戸市中央区葺合町山郡(ダムの左岸) 集水面積:約1,070ha 有効容積:建設当時759,514㎥(現在は600,000㎥) 最大水深:29.8m 満水面積:615,798㎡ 布引ダムの位置中央の経緯度 北緯34度42分40秒 東経135度11分23.9秒
布引ダムに関連する歴史年表 を添付しておきます。 明治20年(1887)横浜の水道を設計したH.S.パーマーに設計依頼 明治21年(1888)3月 H.S.パーマーより設計書が提出される 計画案(土堰堤:内面石張、外面芝張、堰堤高65尺、貯水容量約31万トン) 明治23年、24年 コレラの流行(水道施設の必要性の声高まる) 明治25年(1892)パーマーの設計書見直し依頼 By W.K.バルトン 明治26年(1893)バルトンから設計書提出 明治30年(1897)5月 起工式 土堰堤からコンクリート堰堤に設計変更 (By 日本人 吉村長策(顧問技術者)、佐野藤次郎(主任技師)ほか) 日本最大の堤高 33.3m 堤長110.3m 有効貯水量 76万トン 明治33年(1900)に完成 給水開始 平成17年(2005)堤体耐震補強工事、および土砂浚渫工事完工
上の写真は堰堤の全景。 建設当時、日本最大規模であった。堤高 33.3m 堤長110.3m
撮影:2012年6月4日
明治33年の給水当時は布引貯水池より低層地域への供給は奥平野浄水場から中層地域への供給は 北野浄水場から配水されていました。