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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明石市御厨神社(上西)の布団太鼓 on 2018-10-21

2021年12月19日 15時33分48秒 | 神戸市以外の兵庫県

画像フォルダーが容量制限(3GB)を超過したため有料のGoo blogアドバンスに

移行するまでの間、当分写真が無いブログとなります

本日は御厨神社にて毎年行われる秋祭りで奉納される布団太鼓の内「上西二見」の

布団太鼓の練りを紹介します。御厨神社では「西の町」「北の町」「地蔵町」「原の町」

「福里」「西二見」「岡の上」「上西二見」の布団屋台8台が揃います。

2018年10月21日(日)、明石市の御厨(みくるや)神社で行われた上西二見の布団太鼓の練りの動画を紹介します。昭和3年(1928)に反り屋根の布団太鼓を購入したことに始まります。その後、2度平屋根の布団太鼓新調を経て、平成10年(1998)再度、反り屋根3段の布団太鼓に大改修されました。屋根部の布団締めには「金網」が使用され、さらに梵天飾りには 鷹と鯱があしらわれ非常にゴージャスである。狭間彫刻には「忠臣蔵」「川中島」「村上義光の錦御旗奪還の場」「天の岩屋戸の変」。 昼提灯には「龍」水引には「追いかけ龍」。 高蘭掛けには「源平合戦」が描かれています。

明石市御厨神社(上西)の布団太鼓 on 2018-10-21

 

御厨神社の基本情報

住所:明石市二見町東二見1323 TEL:078-942-3461

御祭神:応神天皇(誉田別命) 菅原道真 素蓋鳴命(牛頭天王)

公式サイト:宗教法人御厨神社 (mikuriyajinja.or.jp)

由緒:神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、

   土地の者が食物を奉ったことから御厨の名前がついたという。

 

布団太鼓関連のブログ

 2017年 海神社の秋祭り - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 淡河八幡神社 秋季例大祭(御旅神事)  on 2017-10-1 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 2016年 海神社秋祭りの情報 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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姫路市平和資料館訪問記 on 2021-12-9

2021年12月11日 05時48分14秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年12月9日、姫路市手柄山中央公園内にある姫路市平和資料館を訪問しましたので

紹介します。館内写真撮影禁止であったので館内以外のものを使用しての紹介です。

手柄山中央公園も含めて初めての訪問です。

姫路市平和資料館の基本情報

住所:姫路市西延末475番地 手柄山中央公園内  TEL:079-291-2525

開館時間:9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日:月曜日

オープン日:平成8年(1996)4月26日

観覧料:常設展示は大人210円(団体160円) 小中学生50円(団体40円)

    企画展は無料

    次の日は無料となります。

     5月5日(子どもの日)、6月22日(姫路空襲の日)、7月3日(姫路空襲の日)

     7月22日(姫路市平和都市宣言の日)、8月15日(終戦記念日)

     10月26日(太平洋戦全国空爆戦没者慰霊の日)、11月23日(勤労感謝の日)

公式サイト:平和資料館 | 姫路市 (himeji.lg.jp)

姫路市平和資料館を紹介したYoutube動画がありましたのでGooで共有させていただきました。

 姫路市施設紹介「平和の尊さを訴える~姫路市立平和資料館」

当日は1階の常設展示及び2階の企画展示の両方を観覧しました。

上の写真は姫路市平和資料館の建物外観

姫路市が行っている「平和都市宣言」「非核平和都市宣言」に基づき、戦争の惨禍と

平和の尊さを後世に伝え、平和な社会の発展に寄与するため、空襲に視点を置いた

資料館として平成8年(1996)4月26日に設立されました。

以下、Wikipediaより要約引用。

姫路空襲の被災等に関する資料や映像などの展示を通して、戦争の惨禍と平和の尊さを

後世に伝え、平和な社会の発展に寄与するために、1996年(平成8年)4月26日に開館。

常設展示室では「美しい城下町・姫路」・「覆われた姫路城」・「炎の中の姫路城」・

「よみがえる姫路城」・「平和を祈って」の5つのセクションに分けて展示。

「炎の中の姫路城」コーナーの映像・音響・振動・ジオラマで空襲を再現した擬似体験装置

を体験してきました。特に爆弾が落ちてきた時の振動は臨場感があり、あまり気持ちのいいもの

ではなく、体験後しばらく安静にしていました。

常設展の展示内容については下記サイトが一番詳しく書かれていますのでリンク。

 000763442.pdf (kitakyushu.lg.jp)

上の写真は当日の企画展(2階で開催)の内容です。

2階の入り口には小学生を対象?としたクイズが置かれていました。(下に添付)

解答は Q1 A、Q2 B、Q3 B Q4 C Q5 C

このクイズに関連する事項について調べてみました。

Q2について

姫路への空襲は、昭和20年(1945)6月22日と7月3日深夜から7月4日未明にかけての2度ありました。

1回目の姫路空襲は川西航空機姫路製作所を標的としたもので、2回目は姫路城も含めた市街地への

空襲であった。姫路城には空襲の標的を避けるために黒い網がかけられました。その他の対策が

功を奏して姫路城は奇跡的に焼失を避けることができました。

戦後、復興の段階には姫路城は市民の心の支えとなりました。

1回目の空襲(1975年6月22日)についてWikipediaより引用

B-29爆撃機約60機が飛来し、播但線京口駅西にあった川西航空機姫路製作所を中心に約1時間爆撃を続けた。爆撃の目的地である製作所は全壊したほか、周辺の民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けた。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた人的被害は、死者341人、被災者10220人。

2回目の空襲(1975年7月3日&4日)についてWikipediaより引用

マリアナ諸島のグアム・サイパン・テニアンの3島4基地から、徳島・高松・高知、そして姫路への爆撃のため501機のB-29が出撃し、硫黄島を経由して、それぞれの都市へと向かった。同日深夜から翌未明にかけての約2時間、姫路市街地全域に焼夷弾が降り注いだ。火の手は姫路駅前から上がり、順次周辺へと拡大、町は火の海と化し、総戸数の40%が焼失。飾磨でも一部が被災した。

死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人。

姫路城は天守に命中した焼夷弾が発火せずに焼失を免れ、その姿に勇気づけられた被災者もいたようである。

上の写真は手柄山中央公園から撮った姫路城

Q3について

川西航空機姫路製作所は昭和17年(1942)7月、ニッケの工場であったのを軍需工場に

転用され操業開始した。

昭和18年(1943)局地戦闘器「紫電」が海軍に正式採用され約900機余製造された。

紫電改は川西航空機姫路製作所で制作されたものを分解し運搬し鶉野工場で組み立てられ

ました。約400機余製造されました。

紫電改は川西龍三氏(川西清兵衛の次男)の尽力で完成された。

川西清兵衛と川西龍三については下記ブログで纏めています。

 川西家邸宅の残影と6代目川西清兵衛、川西龍三の業績 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

Q4について

昭和20年(1945)艦上攻撃機による特別攻撃隊(艦攻隊)として姫路海軍航空隊では

「護皇白鷺隊」、宇佐海軍航空隊では「八幡護皇隊」が編成されます。

同年3月23日、護皇白鷺隊は宇佐に移動し、八幡護皇隊の艦攻隊とともに4月1日に

和木部隊」として編成されました。

4月2日以降、鹿児島県串良基地に進出。4月6日以降「菊水作戦」部隊として特攻出撃

していきました。

詳細は下記サイト

 about-slider2.pdf (sora-tsuna.jp)

Q5について

 鹿屋基地(鹿児島県)は、真珠湾攻撃の作戦計画が練られたことでも知られた主要基地で、

 戦争が激化した昭和20年(1945)になると、各基地の特別攻撃を指揮する第五航空艦隊

 司令部が鹿屋基地に置かれました。

 また、鹿屋基地は特攻隊の犠牲者が最も多く出た海軍航空隊の基地でもあります。

 下に添付の表を参照してください。

 出典:鹿屋の平和学習の特徴 | 鹿屋市教育旅行ガイド (kanoya-tourism.com)

 特別攻撃隊員出撃戦没者数(主な基地)
  種別  出撃基地   特攻戦没者数
  海軍    鹿屋       908名
  陸軍    知覧       439名
  海軍    国分       427名
  海軍    赤江       385名
  海軍    串良       363名

上記の特攻基地の中で知覧しか訪問したことがありません。

     

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姫路市ます徳でのランチ on 2021-12-9

2021年12月10日 04時46分16秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年12月9日、姫路市手柄山の平和資料館や植物園に寄った後、ランチは

ます徳で頂きましたので写真紹介します。

ます徳の基本情報

住所:姫路市東延末390  TEL:079-222-1158

料理ジャンル:和食、会席料理、寿司、鍋、宴会、仕出し

営業時間:ランチ(11:00~14:30) ディナー(17:00~21:00)

定休日:なし不定休

公式サイト:姫路の和食|お弁当(配達・持ち帰り)|仕出し・割烹 ます徳 (masutoku.ne.jp)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

上の写真が当日いただいたランチの全景です。

お昼御膳 1,150円(税込)と生ビール(小)440円(税込) 合計1,590円

お昼飲みも出来て、料理もうまくご機嫌な時が過ごせました。

1人で個室を独占。落ち着いた雰囲気で楽しめます。ただ座りなので足の悪い人には・・・

上の4枚の写真は膳の中の各料理のアップです。

上の写真は日替わり御膳 1,150円(税込)が掲載のメニュー表

上の2枚の写真はその他のメニュー表

上の写真は酒類のメニュー表

上の写真はお店の遠景と玄関

 

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播磨町散策記 on 2021-11-25 その2 新聞の父濱田彦蔵の碑

2021年11月28日 07時04分36秒 | 神戸市以外の兵庫県

播磨町散策シリーズの第2回でジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の生まれ故郷 播磨町の

播磨小学校の敷地内に建てられた浜田彦蔵の碑を写真紹介します。

 

シリーズ過去のブログ

第1回 播磨町散策記 on 2021-11-25 その1 播磨小学校のクスノキ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 

上の2枚の写真が新聞の父濱田彦蔵の碑です。

この碑は昭和35年(1960)12月12日に建立されたもので、ジョセフ ヒコ記念会の

会長であった近盛晴嘉氏がジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)の偉業を讃えた碑文を

執筆されています。

ジョセフ・ヒコの一生

ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。
 
ジョセフ・ヒコのはじめ物語
ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)はギネスブックに残るようなはじめ物語が多数
ありますので紹介します。

1)日本人として禁教後最初にキリスト教の洗礼を受けた。
    1854年10月30日 USA ボルチモアの教会
    名前は Cathedral of The Assumption B.V.M
B.V.Mはラテン語でBeata Virgo Maria出英語では
    Blessed Virgin Maryとなり聖少女マリアと直訳できる。
    この教会は1806年に建てられたものであるが現在もある由緒ある
    教会である。

2)日本人として初めてUSAの大統領(ブキャナン大統領)と合う
    1857年 11月25日

   1962年3月12日にはリンカーン大統領とも会っています。

3)日本人として初めてアメリカの市民権を得る
   1858年6月30日

4)日本人で初めて6,000mの深さの海底を調査。
   1858年9月~11月 測量船の小帆船 クーパー号(ブルック艦長)

5)日本のアメリカ領事館で初めての日本人通訳
   1859年 5月29日 事前に駐日公使ハリスと上海で合流

6)日本で初めて新聞 海外新聞を発刊
   新暦で元治元年(1864)6月28日 旧暦では1864年5月25日

7)初めての国立銀行条例をつくる。
   1872年渋沢栄一の下で英国人のシャンド(Alexander Allan Shand)と協働でつくった。

8)神戸で初めての電灯にヒコの精米所の蒸気機関が使用される。
    1884年12月

9)日本人初めての英文の自伝書 The narrative of a Japaneseを発刊
    上巻は1892年 下巻は1895年に刊行
 
ジョセフ・ヒコ関連ブログ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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播磨町散策記 on 2021-11-25 その1 播磨小学校のクスノキ

2021年11月26日 03時48分43秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月25日、播磨町を散策してきました。東本荘の庄屋であった梅谷家の4代目当主

の梅谷七右衛門清政(1683-1762)の足跡を辿るというのが今回のメインテーマでありました。

本日はその第1回で播磨小学校のクスノキをお送りします。

上の写真が播磨小学校の校庭に残るクスノキです。

明治33年(1900)播磨小学校の前身、阿閇(あえ)尋常小学校現在の場所に移転した時に

記念植樹されたものです。

播磨小学校では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲの文字数の8本の

クスノキが植えられていましたが戦後(昭和23年)、運動場を広げるため現在に残る西端の

1本を残し伐採されました。

明治期から戦前までは天皇中心の教育であり「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、

「楠木正成」と4本さらに「大楠公」の3本を植えられた例もありました。

現在、樹高12m、幹回り2.9mもあり、同校だけでなく播磨町のシンボルとして親しまれています。

 

 

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兵庫県立考古博物館 秋季特別展 屋根の上の守り神 ~鴟尾(しび)・鯱(しゃちほこ)~ もうすぐ閉幕

2021年11月24日 06時35分13秒 | 神戸市以外の兵庫県

兵庫県立考古博物館 秋季特別展 屋根の上の守り神 ~鴟尾(しび)・鯱(しゃちほこ)~

11月28日(日)まで開催中です。私は2021年11月20日(土)に観覧しました。

興味のある方は是非ご観覧ください。

秋季特別展 屋根の上の守り神 ~鴟尾・鯱~の開催要項

会期:2021年10月2日(土)~11月28日(日) 場所:兵庫県立考古博物館

時間:9:30~17:00  休館日:月曜日

入場料:大人500円(400円)、大学生400円(300円)、高校生以下は無料

(  )内は団体料金、70歳以上は250円

公式サイト:展覧会 | 兵庫県立 考古博物館 (hyogo-koukohaku.jp)

 

県考古博が作製したYoutube 動画にGooで共有させていただきました。

 令和3年度 秋季特別展「屋根の上の守り神-鴟尾・鯱-」

 

神戸新聞 11月20日の朝刊(神戸地方版)で特別展の紹介記事が掲載されています。

 

 

上の2枚の写真は秋季特別展の案内リーフレット

 

鴟尾(しび)とは 三州瓦豆辞典より

棟飾りの一つで棟の両端にちょうど沓(中国から伝わった靴)を立てたような形をしている。この形から沓形(くつがた)とも呼ばれている。もともとは魚あるいは鳥からきたものと言われている。
悪魔除けや火除けの目的から付けられたもので、飛鳥時代に大陸から伝わり、大規模な建築の大棟で使われた。必ずしも瓦だけでなく銅や石でも作られた。
現存する最古の瓦の鴟尾は、唐招提寺金堂の西側のもので、奈良時代の創建当時のものである。
棟飾りとしては最古の形式のもので、これが鬼瓦や鯱などに発展していった。

後世の鬼瓦・鯱(しゃちほこ)の祖型となった。

上の写真は鴟尾の部分名称

 

沓形とは

飛鳥時代や奈良時代の古い仏殿や宮殿の大棟の両端にちょうど沓(中国から伝わった靴)
を立てたような形をしている瓦で、その形から沓形(くつがた)という。
また鴟尾(しび)、鮪(しび)とも呼ばれる。これはその形がもともとは空想上の鳥
あるいは魚からきたことから付けられた。空想上の鳥や魚を載せることによって、
悪魔除けや火除けの意味が込められている。飛鳥時代に大陸から伝わり、
大規模な建築の大棟で使われた。

中尾山古墳(文武天皇陵)には沓形石があり下記ブログで詳述しています。

 2021年4月28日放送、歴史探偵「飛鳥の八角形古墳」を視聴して - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

鯱(しゃちほこ)とは 日本百科全書(ニッポニカ)

宮殿、楼門、城郭などの屋根の大棟の両端に取り付けられる瓦(かわら)、または金属製の飾り物。トラに似た頭、ハリネズミのように鋭いとげのある皮、ひれをもち、人をかみ、老いると鮫魚になるという、想像上の魚形海獣をかたどっている。雌雄一対をなし、海にすむところから防火の効があるとされ、逆立ちをして反り返った姿につくられている。鴟尾(しび)が変形したものという説もある。名古屋城天守閣上の金の鯱鉾は、もっとも著名である。また、そのいかめしくこわばった形状により、「しゃち(ほ)こだつ」「しゃち(こ)ばる」「しゃちばりかえる」などのことばが派生した。なお、マイルカ科のサカマタ(シャチ)、マツカサウオの異名でもある。

上の写真は鯱の部分名称 出典:企画展展示図録Page13 図9

 

展示の遠景

上の写真は展示室入り口からの遠景

上の2枚の写真は一番大きな鴟尾(高丘3号窯(明石市))を中心とした展示の遠景と近景

 

鴟尾(しび)

上の写真は平城宮 大極殿の鴟尾

上の写真は2017年12月28日撮影の平城宮大極殿(復元建物) 屋根の上の鴟尾に注目

関連ブログ:

 「平城京」復元模型 in 奈良市役所 on 2017-12-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の写真は薬師寺金堂の鴟尾 2012年6月7日に撮影

上の写真は薬師寺講堂の鴟尾

上の写真は唐招提寺金堂の鴟尾 撮影:2012-6-7

 関連ブログ:

  鑑真大和上と唐招提寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

鯱(しゃちほこ)

上の3枚の写真は伽耶院(三木市)の鯱と説明パネル

上の写真は姫路城の鯱の展示全景

上の3枚の写真は姫路城の鯱瓦に関する説明パネル

関連ブログ:

 城見台公園から観た世界遺産「姫路城」 on 2019-10-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

安土城の鯱の展示もされていましたが写真禁止なので掲載できません。

替わりに安土城現地への訪問記にリンクしておきます。

 JR安土駅周辺散策記 on 2019-3-20 その7 安土城跡 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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播磨町で初めて国登録有形文化財となった梅谷家住宅(梅谷七右衛門清政の子孫宅) on 2021-11-20

2021年11月22日 04時19分18秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月20日(土)、播磨町で初めて国登録有形文化財となった梅谷家住宅

(4代目の梅谷七右衛門清政の子孫宅)の写真を撮りましたので写真紹介します。

上の2枚の写真は北西側から撮った梅谷家住宅

梅谷家住宅の主屋・離れ・北塀及び西塀が令和2年(2020)4月3日、国登録有形文化財に

登録されました。

主屋は昭和13年(1938)10代目の梅谷美方氏が跡取りの孫(12代目)が播磨小学校

(旧阿閇小学校)に通うのに便利なように建設された住宅です。

以下、文化庁のデータベースよりの引用です。

所在地住所は兵庫県加古郡播磨町宮北一丁目408-5(現在は播磨町宮北1丁目1-20)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

梅谷家住宅主屋:木造平屋建、瓦葺、建築面積94㎡ 昭和13年(1938)に建造

        登録番号:28 - 0738

        解説文:喜瀬川右岸の小学校前に通学用の別宅として建てた。

        敷地北東に建つ木造平屋建で、寄棟造と入母屋造を組み合わせた屋根をかける。

        北東端に玄関を配し、南に書斎と居間を並べる。書斎は洋室で漆喰塗天井に

        シャンデリアを吊る。別宅の必要機能をまとめた住宅。

 

梅谷家住宅離れ:木造2階建、瓦葺、建築面積76㎡ 昭和14年(1939)頃/昭和40年代改修

        登録番号:28-0739

        解説文:主屋の西側に建つ木造二階建、入母屋造桟瓦葺で、外壁を焼杉の

        竪板張とする。一階は床、棚、付書院を備えた八畳の主座敷と六畳の座敷の

        南に広縁を付し、北に茶室を配す。二階は座敷が三室で南に縁を付す。

        良材を駆使した上質な離れ。

 

梅谷家住宅西塀・北塀:木造、瓦葺、総延長35m 昭和初期(1926-1945)に建造

        登録番号:28-0740

        解説文:敷地北面と西面を囲む塀で、北塀の中央付近に木戸を開く。

            半間おきに柱を立て腕木で桁を支え、屋根は桟瓦で葺く。

            外側は焼杉の竪板張で上部を真壁漆喰塗とし、内側は北塀が

            真壁漆喰塗、西塀が竪板張で、大谷石の支柱で支持する。

            宅地外周部の景観を形成する。

 

上の写真は登録有形文化財の証書銘板です。

上の写真は兵庫県が景観形成重要建造物として第13次指定(令和2年度)したことを

証明する銘板

上の写真は北側から撮った梅谷家住宅

上の写真は北東側から撮った梅谷家住宅

 

上の写真は梅谷家住宅の玄関

 

住宅の内部の状況については下記サイトに詳述されています。

播磨町 梅谷家住宅 (harima.lg.jp)

 

梅谷家4代目の梅谷七右衛門清政は篤志家として著名です。清政(1683-1762)の略歴を

記しておきます。

16歳の若さで庄屋を継ぎましたが、その当時村は決して豊かではありませんでした。 

打開策として新田開発を志し、その成功によって村の困窮を救うことになります。

その後魚問屋(八幡屋)を開業して財を成し。その財を活用して地域の神社や寺を立て直し、

感謝されています。(菩提寺の蓮花寺本堂は正徳2年(1712)に本堂を修復、阿閇神社

の修復や新しい神輿を作り神事を復活させたのは享保15年(1730))

さらに喜瀬川の治水工事にも貢献しています。

意外に質素な暮らしぶりの中で地域には惜しみなく金銀を使い、困った人にはできる

限りの世話をしました。古宮組大庄屋の今里十三郎死去に伴い大庄屋代として今里家を支えました。

 

梅谷七右衛門清政についてはその遺構と共に調査して纏めていきたいと考えています。

 

最後に播磨町郷土資料館館長の井上珠彦さんが解説された動画をGooで共有して筆を置きます

東播フォーカス第59回「梅谷七右衛門清政とゆかりの文化財」

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三木市立みき歴史資料館で「企画展 地域の史料たち5 ~三木の染め型紙~」が開催中

2021年11月16日 03時49分31秒 | 神戸市以外の兵庫県

三木市立みき歴史資料館(三木市上の丸町4-5)で現在、「企画展 地域の史料たち5

~三木の染め型紙~」が開催されている。2022年1月16日まで。入館無料。

興味のある方は是非ご観覧ください。

私は2021年11月12日に観覧しました。

染形紙は、柿渋が塗布された紙面に鯉や蝶、花などの模様を切り抜いてその模様を染め出す、

形染めには欠かせない紙製の道具の1つです。

三木の染形紙は着物地などの文様を染める際に使用されるもので、手彫りで切り抜いた

型紙のことで昔から刃物とともに三木地方で盛んな地場産業でしたが最近は着物の衰退で

需要が少なく産業としては衰退しています。

染め型紙と言えば伊勢の白子や京都が全国的に有名ですが三木市も江戸時代には、「染め型紙」の

一大産地でした。宝暦12年(1762)に発刊の播磨鑑には三木の土産品として染め型紙

が紹介されています。

また、寛保2年(1742年)には染め型屋が16軒もあり、盛んな産業であったようです。

さて、本題に戻り、上述の企画展の内容に入ります。

企画展の基本情報

タイトル:地域の史料たち5  ~三木の染め型紙~

期間:前期11月6日(土)~12月5日(日)、後期12月7日(火)~1月16日(日)

時間:9:00~17:00

開催場所:三木市立みき歴史資料館(三木市上の丸町4-5)

 

 

上の3枚の写真はリーフレットの内容です。

上の2枚の写真は展示会場の全景と近景です。

上の写真は三木の型屋の興隆に関する説明パネル

 

上の写真は欧州におけるジャポニズムの高まりで型紙が19世紀に大量に輸出された事績

について説明したパネルです。

上の2枚の写真は海外に渡った型紙の保管先

上の写真は紅葉(楓の葉)をモチーフとした型紙

上の写真は秋のモチーフの型紙

上の2枚の写真は型紙調査の様子と調査内容の説明パネル

上の写真は調査結果を要約したパネル

詳しい内容も展示されていましたが略します。

上の写真は裃(かみしも)に使用された紋様の展示

 

三木の染形紙について過去に書いたブログにリンクして筆を置きます。

 本の紹介「三木の染形紙 第2号」 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 三木市 ビストロ・ド・ノブでのランチ on 2017-1-22 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

  表題はビストロ・ド・ノブでの食事になっていますが2017年1月22日(日)、

  三木市立みき歴史資料館のワークショップ「染形紙で染める」へ参加した内容についても記載

   講師:三木の染形紙の保存と活用を考える会

 

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旬彩レストラン デルパパ 三木山森林公園でのランチ on 2021-11-12  ちょっとだけ紅葉写真

2021年11月14日 04時54分14秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年11月12日、兵庫県立三木山森林公園内の森の文化館2階の旬彩レストラン

デルパパ」で和風バイキングのランチを頂きましたので写真紹介します。

初訪問です。三木山森林公園へは紅葉を観ようと立ち寄りました。

旬彩レストラン デルパパ三木山森林公園の基本情報

住所:三木市福井2465−1 兵庫県立三木山森林公園内森の文化館2階 TEL:0794-86-0362

営業時間:ランチは11:00~15:00 喫茶は14:00~17:00 

定休日:毎週 水曜日 年末年始   料理ジャンル:和食バイキング

公式サイト(シンエーフーヅ、三木山公園):

旬彩レストラン デルパパ < 店舗紹介|シンエーフーヅ株式会社 (shin-ei-foods.co.jp)

旬彩レストラン デルパパ 兵庫県立三木山森林公園 - Mikiyama Forest Park

 

上の写真は1回目にとってきた料理です。

バイキングでは欲張り過ぎて沢山とってしまいます。反省。

上の写真は2回目にとってきたものです。

カレーを少し食べたあとに写真を撮ったので汚く写っています。

上の写真はデザートとドリンクバーよりとってきたものです。

 

上の3枚の写真は和風バイキングの代表的なメニューです。

上の写真は和食バイキングの価格表 私は70歳以上の1,390円(税込)で頂きました。

上の写真はおうち薬膳の第一人者槇玲(まり)さんの紹介と料理の説明パネル

和食バイキングは槇玲先生のプロデュースによります。

上の写真は森の文化館2階の玄関とモミジを一緒に撮ったものです。

上の写真はもみじ谷の紅葉  今一つ奇麗ではなかった。ガッカリ。

上の写真はイベント広場のモミジバフウの並木

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明石市立文化博物館の企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー」が開催中です

2021年10月31日 04時56分09秒 | 神戸市以外の兵庫県

昨日(2021年10月30日)より明石市立文化博物館で下記企画展が開催中です。

企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー

興味のある方は是非お出かけ下さい会期は12月5日まで。

企画展のリーフレットを添付しておきます。(下の2枚の写真)

上の写真は明石市立文化博物館に通ずるエレベーター横の看板 撮影:2021-10-26

上の写真は明石市立文化博物館の建物外観

 
開催要項は以下のとおりです。

名称:企画展「発掘された明石の歴史展ー明石の古道と駅・宿ー」
会期:2021年10月30日(土)〜12月5日(日) 休館日:月曜日

会場:明石市立文化博物館(兵庫県明石市上ノ丸2-13-1 TEL:078-918-5400)
開館時間:9:30~18:30(入館は18:00まで)
観覧料:大人200円、大高生150円、中学生以下無料
  ※20名以上の団体は2割引
  ※シニアいきいきパスポート提示で無料
  ※65歳以上の方、身体障害者手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳提示の方は半額

企画展の概要(リーフレットより)

明石は、いつの時代においても交通の要衝でした。旧石器~古墳時代には石材・土器などが他地域からもたらされました。古代には都と大宰府を結んだ山陽道が通過し、明石駅家や邑美(おうみ)駅家が設置されました。その後、山陽道は西国街道となり多くの旅人が西へ東へと向かいました。 今回の展示は、そのような道に関連する遺跡からの出土品や、周辺の文化遺産を取り上げます。

 

関連資料として明石市立文化博物館の常設展示より古代山陽道と駅家の地図を添付しておきます。

上の写真は全体図

 

上の写真は明石付近の拡大図

 

関連ブログ

加古川市野口町古大内の大歳神社(賀古駅家跡)訪問記 on 2021-4-2 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

須磨駅家(大田町遺跡)  - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

明石市 大蔵谷 散策記 on 2018-4-29 その9 大蔵中町遺跡(最終回) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

「神戸市内の遺跡調査で分かった神戸の歴史」を聴講して on 2017-10-15 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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姫路城と龍野 散策記 その14 たつの市立 龍野歴史文化資料館と龍野城 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

 

 

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