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永力丸乗組員5人の写真 

2019年08月01日 05時27分48秒 | Weblog

現在、図書館よりレンズが撮らえた 外国人カメララマンの見た幕末日本Ⅰを借りています。

上記の書籍のPage133-137にH.R.マークスが嘉永4年-5年(1851-1852)に撮った永力丸の

漂流者5人の写真が若干の解説とともに掲載されていました。

永力丸は嘉永3年(1850)10月29日(新暦では11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。

(乗組員は船頭の万蔵以下17名で、その中に有名な濱田彦蔵=ジョセフ・ヒコがいる)

2ヶ月太平洋を漂流した後、同年12月21日(1852年1月22日)に南鳥島付近でアメリカの商船

オークランド号に発見され救助され、サンフランシスコに渡っています。

本ブログでは5人の漂流者の写真とともに彼らが辿った道を綴っていきます。

写真はペリー来航の約2年前に撮られたもので日本最古?の写真と言える

利七(1824-1869)

 別名は興太郎(文太 佐伯文太 長瀬利七) 漂流時の年齢は27歳
        伯州(鳥取県西部)長瀬村  帰国

  嘉永7年(1854)7月、清(しん)(中国)経由で帰国。因幡(いなば)鳥取藩の藩校尚徳館の

  仕人(用務員)となり,佐伯文太と名のらされた。明治2年(1869)7月26日死去。46歳。

  戒名は釋宗因 菩提寺の勝福寺の過去帳には屋号の小橋屋と利七の文字が書かれている。

  勝福寺の住所は鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬1069

  こちらに利七の墓が建立されていないことから後述の顕彰碑建立されることとなった。

  利七の研究の第1人者である松岡貞信氏が昭和54年(1979)に「長瀬村利七漂流談」を

  著しておられます。

  本年は佐伯文太の没後150年の節目の年でもあります。

  彼は家族もなく天涯孤独な生涯でした。

  長瀬利七の顕彰碑は昭和56年7月5日に東郷湖羽合臨海公園(長瀬公園)に建立されて

  いるとのこと。(現在の住所としては鳥取県東伯郡湯梨浜町新川の海岸の松林の中)

  安政2年(1855)3月苗字帯刀を許され佐伯文太と改名した利七に対して奥多昌忠が

  聞き取って「長瀬村人漂流談」として残しています。また池田候が吉岡温泉に湯治の際、

  佐伯文太は下士として仕え漂流談とおともに外国事情を物語ったものを儒者の掘敦斎が

  筆記し「尚徳館本漂流記」としてまとめています。

  鳥取県の教育委員リレーコラムのサイトで「長瀬村利七(ながせむらりしち)漂流談」

  と題して若原道昭氏が記事を寄稿されていますのでリンクさせていただきます。

   https://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?moduleid=130570&pfromid=10


 鳥取県の偉人伝として下記のサイトでも記載されています。

   http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/51729778.html 


上の写真はILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)のイラスト

興太郎=利七

慎兵衛

 ニューヨークの新聞 (ILLUSTRATED NEWS 1853年1月22日付) に掲載では

 「SIMPAY」と記載されている人物である。

 しかし、永力丸の乗組員に「慎兵衛」という名の人物いない・・・と

 写真の解説では特定できないと記載されていますが、ILLUSTRATED NEWS 

 (1853年1月22日付)と照合した結果、清太郎(性兵衛)であると特定。

  清太郎(性兵衛 本荘善次郎)漂流時の年齢は26歳 
       播磨国加古郡西本庄村(1824生-1876年1月1日没)
       音吉の尽力により中国船で帰るグループに入る
       1854年8月20日中国から源宝号で長崎に到着。
      3ヶ月余に及ぶ長崎奉行の取調べ後、西本庄村に到着。          

上の写真はILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)のイラスト


岩蔵 (1817生-1860年1月29日没)

 別名岩吉(ダン伝吉 Dan Ketch ダン・ケッチ) 紀伊国海部郡塩津の出身

 永力丸漂流時の年齢は33歳
  栄力丸漂流民の17名は嘉永5年2月21日(1852年3月31日)、軍艦「セントメリ-号」で

  サンフランシスコを出発帰国の途につきます。途中、嘉永5年2月24日(1852年4月3日)

  補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨。投錨した朝、船長の万蔵は死んだ。

  香港へは1852年5月22日に到着。2日のちにはマカオに行きそこでペリー艦隊の旗艦の

  サスケ・ハナ号に移ることになった。移乗した一行16名はその船で過ごします。

  次作(トラ)、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人は1852年10月にアメリカに戻る事になります

  一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと幕府に

  思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が

  艦長から暇を取りつけ下船しました。

  この時、彼らの面倒をみてくれたのが音吉(乙吉)で

  中国船で帰国するつもりで上海の乍浦(さほ)で日本行きの船を待っていたが
    
  嘉永7年2月21日(1854年3月20日)に食事がまずく日本への船便が無いことを理由に
  
逃亡し再び音吉の世話になる。

    ペリー艦隊のミシシッピ号でアメリカに渡りさらにイギリスに移住して
    イギリスの市民権を得る。
    1859年6月26日イギリス領事のオールコックに同行して帰国。
    攘夷運動の波で1860年品川の東禅寺にあったイギリス領事館で
    暗殺されます。ヒュースケン暗殺のちょうど1年前のことです。

   遺体はDan Ketchとして光林寺に埋葬

   臨済宗 光林寺の住所は 東京都港区南麻布4-11-25

   英文の墓が残されているようです。(墓石に記載されている文章は下記)

 "Dankutui Japanese linguist  to  the  British  legation  murdered 

                            by Japanese  assassin"
      21 January 1860
            
        「日本人暗殺者に殺されたイギリス領事館の日本人通訳のダン・ケッチ」
 

   墓石の裏面には 禅了院傳翁良心居士 安政七申歳 正月初日の刻印    

   下記ブログで詳細が書かれています。

     https://blogs.yahoo.co.jp/kaientai1867/48182014.html

 

上の写真はILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)のイラスト

岩吉の特筆事項として栄力丸での漂流の難に遭う数か月以前に住清丸で八丈島へ

漂着していることです。清太郎と安太郎も同乗。


亀蔵(亀五郎)(1825-

出身地は広島県因島市(現在は尾道市)椋浦町 1850年の漂流時の年齢は25歳

亀蔵は次作(トラ)、彦太郎(彦蔵)と共には1852年10月に中国からアメリカに再渡米

する事になります。測量船ユーイング号に乗っていたこともあるが、万延元年(1860)の

遣米使節一行が帰途に香港に入港したとき、米艦ナイアガラ号の日本人の前に現れ帰国を

乞い、使節団に同行して帰国。

帰国後の詳細は不明であるが郷里に帰ったものの不遇な晩年を送ったと伝えられている。

漂流民関係新史料として漂流亀五郎航海談聞書が残されています。(東京大学史料編纂所

菩提寺は尾道市因島三庄町三区1945の真言宗醍醐派明徳寺

上の写真はILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)のイラスト

仙太郎(1832生-1874没)


仙太郎(サム・パッチ Sam Patch 三八 千太郎 倉助 倉蔵)
        18歳  安芸国沼田郡生口島 
        1853年4月8日ペリー艦隊のサスケ ハナ号に残り
        1853年7月8日ペリー艦隊側から見た由一の日本人となる。
       1854年3月31日の日米和親条約調印のときもアメリカの水兵として
       働いています。また1855年からアメリカの大学に入学して1860年
        3月31日に日本に戻ります。
       1863年からバラー氏の下で、さらにクラーク氏の下でコックとして
        横浜、江戸で働いた。


 墓所は中村正直家墓所の一角にある。本伝寺(日蓮宗 東京都文京区大塚4丁目)

 三八君墓の横に次のような碑文がある。

  「三八君安芸の生まれ、 本名仙太郎、 米名サム・パッチ、 幕末ジョセフ・ヒコ等と

 難波 (ママ) 漂流し、 米船に救われ---帰米後日本人最初のバプテスト派洗礼者となり、

 再びゴーブル牧師と共に来日し、 聖書摩太福音書 (全文ひらがな) の翻訳に協力した。

 その後、 クラーク教師に仕え、 晩年は敬宇先生 (中村正直) の馭者として生涯を終わる。

   明治七年十月八日死、 行年四十一歳 墓石は敬宇先生の直筆である」

    昭和57年3月 中村勝彦誌す

上の写真はILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)のイラスト

仙太郎=サム・パッチについて村上貢さんの下記のサイトが詳しい。

 https://www.zensenkyo.com/_bk/kaiho/105kaiho/kurofune/kurofune.htm


さらに下記のサイトも必見である。

 https://call-of-history.com/archives/11009


栄力丸乗組員17名のイラスト

 

ニューヨークの新聞ILLUSTRATED NEWS (1853年1月22日付)で紹介された栄力丸の

17名の乗組員のイラストを添付しました。

兵庫県播磨町正願寺 永力丸漂流150年記念碑にて2014年2月22日に撮影

  訪問記は下記ブログ

   「怒涛を越えた男たち」の石碑 in 播磨町古田の正願寺 on 2014-2-22

写真は18名ですが亀蔵がだぶって写っていますので17名。

上の写真は正願寺 永力丸漂流150年記念碑の全体

 

 

 

 17名の平均年齢が31.5歳と若かったこと、以前に漂流した経験者が3名いた。

  赤字が以前に漂流を経験した3人
   
   10代・・・・2名
    ジョセフ・ヒコ(13歳)と仙太郎(サム・パッチ 倉助 倉蔵)18歳

   20代・・・・7名
    民蔵(大吉)25歳、次作(トラ)28歳?、清太郎(性兵衛 本荘善次郎)26歳
    興太郎(利七、文太 佐伯文太)27歳、亀蔵 25歳、徳兵衛 29歳
    安太郎 25歳

   30代・・・・5名
    岩吉(ダン 伝吉 Dan Ketch)33歳、喜代蔵(助兵衛、久蔵 浜本帰平)37歳
    源次郎(浅右衛門 山口洋五郎 山口洋右衛門)38歳、京助 31歳
    幾松 37歳

   40代・・・・2名
     甚八 43歳、長助 48歳

   60代・・・・1名
     萬蔵 60歳


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