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ジョセフ・ヒコが通訳として来日したアメリカ領事館跡(本覺寺)訪問記 on 2014-3-14

2014年03月20日 06時36分32秒 | 神奈川県情報

新聞の父、ジョセフ・ヒコの足跡を辿ってかってアメリカ領事館があった横浜市神奈川区の本覺寺を
訪問しました。
訪問日:2014年3月14日

まず、ジョセフ・ヒコがアメリカを出発してからアメリカ領事館の通訳になるまでの経過を簡単に
述べる。

安政5年(1858)6月30日にジョセフ・ヒコは日本人として初めてアメリカの市民権を得て
アメリカに帰化しました。
同年(1858)日本への帰国を目指し7月3日ボルチモアを出発、
7月29日にサンフランシスコ着、
9月26日クーパー号でサンフランシスコを出発 
10月3日初めて太平洋の測量を行いました。
翌年(1859)3月ホノルルでクーパー号を下船。
同年(1859)4月6日香港に着きました。親友のヴァン・リードと一緒の船出でした。
同年(1859)5月2日駐日英国総領事館オールコックに遭い英国領事館での通訳の仕事を打診したが
断られた。
1859年5月29日上海でハリス(Townsend Harris)に会い神奈川米国領事館通訳に決まる。
1859年6月18日長崎に到着。神奈川には6月30日に入港。
アメリカ領事館は7月4日に神奈川宿の本覺寺を接収し開かれた。

ジョセフ・ヒコの日誌(アメリカ彦蔵自伝 東洋文庫)に下記のように綴られている。

「1859年7月4日。この日は、いよいよ上陸して、わが公館を収め、正式に貿易港を開くと
決められた日である。夜は快晴に明けそめた。早朝、湾内に林立するすべてのマストに、
にぎにぎしく旗が掲げられていた。十時ごろ、われわれは神奈川側に上陸し、本覺寺まで歩いていった。
寺の墓地に大木があったので、そのてっぺんに枝に棒を結び付けて旗竿にした。正午少し前にアメリカ
公使ハリス、領事ドール、ミシシッピー号艦長ならびに士官、ヴァン・リードと私は、どっとこの墓地
に乗り込んだ。12時ちょうど、この旗竿にアメリカの国旗を高く掲げた。
そしてシャンペンを抜き「合衆国国歌を合唱して「われわれの繁栄のために、星条旗よ永遠なれ」と
乾杯した。この地に外国の国旗がひるがえったのは、史上はじめてのことであった。」


さて、本題のアメリカ領事館跡(本覺寺)の写真紹介に移りたいと思います。

本覺寺の基本情報

住所:横浜市神奈川区高島台1-2  TEL:045-322-0191
宗派:曹洞宗 山号:青木山  開創:嘉禄2年(1226)臨済宗
天文元年(1532)曹洞宗に改宗(雲松院第三世陽廣元吉禅師の時代)


最寄り駅:京浜急行(京急)神奈川駅 徒歩2分
本覺寺の歴史を解説したサイト
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~hongakuji/jisi%20frame.htm


上の写真は山門前の「史跡アメリカ領事館跡」と書かれた石碑 横浜市長 平沼亮三氏の書


上の写真は山門。



上の写真はアメリカ領事館時代に白いペンキで塗られた跡が残る山門の唐獅子と蟇股(かえるまた)


上の写真は神奈川(横浜)開港を提唱した岩瀬肥後守忠震(ただなり)の顕彰碑です。
岩瀬肥後守忠震は文政元年(1818)、幕府旗本の家に生まれ、同じく旗本の岩瀬家の養子となりました。
幕末期に海防掛目付に任じられた忠震(ただなり)は開国論の中心人物として活躍しました。

Wikipediaより解説を引用させていただきます。

岩瀬 忠震(いわせ ただなり)は、江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に尽力し、
水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された[1]。維新後に正五位を贈られた。
島崎藤村の「夜明け前」にも登場する。
旗本・設楽貞丈の三男で、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林述斎(林家の大学頭)の娘で、
おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいる。岩瀬忠正の養子となり、岩瀬家の家督を継いだ。

嘉永7年(1854年)、老中首座・阿部正弘にその才能を見出されて目付に任じられ、
講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。
その後も外国奉行にまで出世し、安政2年(1855年)に来航したロシアのプチャーチンと
全権として交渉し日露和親条約締結に臨んだ。

安政5年(1858年)にはアメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、
日米修好通商条約に井上清直と共に署名するなど、開国に積極的な外交官であった。
ハリスは、「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。
・・・懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」
と、後に当時の交渉のことを書き残している。

幕府は条約で決められた神奈川に代わり、対岸の横浜村[2]に開港場を設けることとしたが、
忠震は条約の文言を重視して神奈川開港を主張した[3]。

同年、13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で徳川慶喜(一橋徳川家当主)を支持する一橋派に属し、
大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷され、
安政6年(1859年)には蟄居を命じられ、江戸向島の岐雲園で書画の生活に専念した。
文久元年(1861年)、44歳で失意のうちに病死した。

墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園。横浜市と新城市に顕彰碑がある。

後年[いつ?]、イギリス側で日英修好通商条約の交渉に当たった際の岩瀬の写真が発見された。
この写真は、平成20年(2008年)に横浜開港資料館が借り受け、条約の資料とともに公開された[4]。





上の写真は本堂の遠景と近景です。

1859年7月4日より本堂がアメリカ領事館として利用された。
領事館の期間は約3年程で、後に横浜へ移動となるその間、
寺僧は退去させられ、御本尊さまは板囲いで覆われ、一般人の立ち入りは禁止されていたとのこと。

ジョセフ・ヒコは1860年2月にアメリカ領事館の仕事を辞職し横浜で
貿易商館を開き輸出入の値段、港の出船・入船、上海への荷物運賃、両替表などを記した
「プライス・カレント」を発刊しています。これらの素養もジョセフ彦の本邦初の印刷された
新聞「海外新聞」の発刊(1864)に繋がっていくのである。


上の写真は地蔵堂です。山門から入って右手にある建物。


上の写真は鐘楼。


上の写真は仏舎利塔(十三重塔)。


上の写真の中央は10世梁国和尚が建てた地蔵尊。台石に黒薬の由来が書いてあります。
享保20年(1785)作。

神奈川祝の名物「黒薬」の解説
  http://www5f.biglobe.ne.jp/~hongakuji/kurogusuri.htm










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