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浄世夫彦之墓(ジョセフ・ヒコと妻の濱田 子(ちょうこ)の墓)in 青山霊園の外人墓地 on 2014-3-14

2014年03月17日 14時26分43秒 | 東京情報
2014年3月14日(金)、青山霊園の外人墓地の一画にあるジョセフ・ヒコ(1837-1897)の墓の写真を撮ってきましたので紹介します。


ジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)は日本で最初に民間新聞を発刊したことで知られています。洗礼名はジョセフ・ヒコ (Joseph Heco)でここではメインとしてこの名前を踏襲するが、アメリカ彦蔵(アメ彦)、浜田彦蔵、ジョセフ彦、浜田彦太郎、墓碑に彫られた浄世夫彦などの別名もある。日本名では浜田彦蔵で幼名は彦太郎天保8年(1837)9月20日に現在の播磨町古宮に生まれました。嘉永4年(1851)、満13歳のときに漂流し、アメリカ船(オークランド号)に助けられてアメリカサンフランシスコに行きます。1年後に香港経由で日本に帰還させられる予定であったが、その年(嘉永5年)10月に香港より再びアメリカへ渡航(2度目)しそして、安政6年(1859)22歳で日本に帰国し領事館通訳などの職につきます。しかし翌年(安政7年)2月に職を辞め、貿易商館を開く。当時は尊皇攘夷思想が支配しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、ジョセフ・ヒコは身の危険を感じて文久元年(1861)9月17日に3度目のアメリカに戻った。文久2年 (1862)10月13日、横浜に帰り再び米国領事館通訳の仕事を始めるが、文久3年( 1863) 9月30日、領事館を辞任し商売を始める。この年の秋には漂流記を上梓。さらに元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて、英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。慶応2年( 1866) 12月25日(新暦換算)、横浜を去り長崎に向うここで伊藤博文や木戸孝充と知り合いとなる。慶応4年(1868)9月22日生まれ故郷の古宮に帰郷した。東京を中心に活動した。以下の略歴を略す。明治30年( 1897) 12月12日、心臓病で死去。青山の外国人墓地に葬られる。





上の2枚の写真がジョセフ・ヒコと妻の濱田 子(ちょうこ)の墓です。
青山霊園の外人墓地の一画にあります。区画は南一種イ四側 No.8

墓碑の正面には浄世夫彦之墓と上側に「SACRED TO THE MEMORY OF JOSEPH HECO WHO DIED DEC.12TH,1887,AGED 61 YEARS」とが刻印されています。
裏側には明治31年(1898)12月、妻の濱田 子(ちょうこ)さんが建立したと刻印されていました。

サイドにはジョセフ・ヒコの戒名:高智院法憧浄弁居士と
ジョセフ・ヒコの一生について書かれていましたので全文を引用させていただきます。
「浄世夫彦ハ元名ヲ浜田彦蔵ト云フ。天保七年(1836)播磨国農家ニ生ル。嘉永三年(1850)漂流ノ難ニ遭ヒ米圀(べいこく)ニ到ル。
翌年(1851)、軍艦ニ乗セラレ香港ニ到ルモ時来ラズ。故ニ立志シテ米圀華聖頓(わしんとん)ニ往キ、大統領ニ接スル三回。千八百五十四年
学ヲ初ム。同年(1854)十一月ジョセフヒコ之名ヲ得、千八百五十七年海軍書記官ヲ命ゼラレ、帰化シテ合衆国民トナル。千八百五十八年
日本開港成ルト聞キ、同年(1858)六月十七日長崎ニ入艦、同三十日神奈川ニ投錨ス。安政六年(1859)六月米圀旗神奈川ニ建テ、領事ト共ニ
開国ノ為ニ労ヲ取ル事四年、又米圀ニ往ク。復テ(かえって)千八百六十四年七月十六日馬関海峡丘陵ヨリ乱射する六砲台三軍船ヲ沈黙セシム。
元治二年(1865)六月海外新聞ト名付ケ日本新聞ヲ発行シタル開祖也。后チ長崎ニ到リ元勲等ト会合公議上、二年間長州代理ヲ為シ、開国ノ為メ
東西ニ奔走ス。明治四年(1871)八月、時ノ大蔵卿ニ属シ銀行規ヲ編纂セリ。官ヲ辞シ仮名書新聞ヲ発行ス。亦商業ヲ起シテ神奈川ニ間散シ、
製茶直輸出ノ為メ神戸港ニ住ス。明治廿一年(1888)東京小石川ニ新築シテ住居ス。明治三十年十二月十二日齢六十二遂ニ寂」


現地の刻印は判読が非常に困難で近盛 晴嘉 著 クリスチャン ジョセフ彦より引用しました。


ジョセフ・ヒコの妻の濱田 子(ちょうこ)(1859-1946)が合葬されたのは昭和31年5月30日です。
濱田 子(ちょうこ)が合葬されたいきさつについて書かれた碑(下に添付の写真)もありました。



濱田 子(ちょうこ)   安政6年(1859)10月20日~昭和21年(1946)1月20日

子の父は北白川宮能久親王の近臣松本七十郎。明治11年(1878)ごろヒコと結婚した。
子ら夫婦の仲人は兵庫県神戸の栄町で輸入材木商を営んでいた中口昇と言われている。
子は夫ヒコを「あなた」と日本流に呼んでいた。
日本にはまだ帰化法が制定されていなかったためにヒコは日本人名に戻れず、
子も夫の姓を名乗れずにいた。子が結婚したとき18歳。ヒコは40歳

石碑に書かれた内容をそのまま転記します。

濱田 子の碑

高顕院法壽妙操大姉
安政六年十月二十日    生
昭和二十一年一月二十日  没
    享年 八十六b才

ジョセフヒコ氏墓地保存会をつくられた近盛晴嘉氏の尽力により昭和31年5月30日に
田端大龍寺から改葬し亡夫の墓則に埋葬しました

昭和41年5月

子の姪 馬場キミ 誌す




青山霊園の外人墓地の中央通路には平成19年(2007)石原慎太郎都知事(当時)によって建立された顕彰碑もありました。(上の写真)



上の写真は青山霊園の外人墓地のあゆみについて書かれた説明板の一部です。

明治7年(1874)青山霊園が開設

明治10年(1877)青山霊園に外人墓地の設置を決定

明治13年(1880)最初の埋葬が行われた

平成18年(2006)東京都が管理


上の写真は顕彰碑、説明板、外人墓地の遠景です。



関連ブログ


「怒涛を越えた男たち」の石碑 in 播磨町古田の正願寺 on 2014-2-22


ヒコの似顔絵・イラスト作品展 in 播磨町郷土資料館 on 2014-2-22




上の2枚の写真は上記ブログのジョセフ・ヒコの似顔絵・イラスト作品展で入賞した作品です。
  播磨町郷土資料館提供(許可済)

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