おきらく

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名古屋市民としてトリエンナーレを。。。

2019-08-06 | 真面目な話

久しぶりの投稿です。
今、あいちトリエンナーレの『表現の不自由展・その後』をめぐって、色々な問題が提起されています。
地元民として、私なりの意見を言わせてもらおうかと思います。
まず、私は『表現の自由』について考えるとき、一つの基準を設けています。
それはフランスのシャルリー・エブドのイスラム風刺画を良しとするか否か・・・。
襲撃事件についてはもちろん、犯人が悪いのですが、それまでの度重なる風刺を『表現の自由』で見過ごすのも間違っていると考えています。
不用意に人を辱めたり、挑発するような行為は止めた方がいいと思う。。。それが私の意見です。
そう思った時、私はトリエンナーレで、しかも愛知芸術文化センターのアートギャラリーで、あの展覧会が開催されたのは間違っていると思います。

まず、第1に『表現の不自由』=『政治問題』のみで語られている点にあります。
以前行われた展覧会は小規模のものだったと聞きました。
しかし、これだけの規模であれば、他の理由で撤去されたアート作品も展示すべきでした。
例えば、愛知芸術文化センターでは過去に布で覆われた作品もありました。
確か「芸術かわいせつか?」という観点での問題だったと思います。
これらも含め、100点くらい集めて入れ替え制にしたらもう少し受け入れられたのではないかと思います。

第2になぜ芸文のギャラリーなのか?
愛知芸術文化センターのアートギャラリーのことを「芸文のギャラリー」と呼んでいます。
私も書の作品を毎年出品して展示されています。
ここは、絵画はもちろん書や写真など美術や芸術に携わる人にとってはある種の憧れだったり自慢の場所だったりします。
今回の展示をトリエンナーレではなく、一般的な企画としてギャラリーの利用申し込みをした時に利用許可が下りるか微妙だと思いました。
利用の手引きには優先順位とか禁止事項などがあるのですが、あのような問題提起にふさわしいギャラリーではないことがわかると思います。
いわゆる「万人受けする作品」を展示する場所です。
むしろ、私は長者町のビルとか円頓寺の空き店舗数件を利用して、「反戦」「差別」「わいせつ」「不気味」など、展示できなかった理由や表現したいテーマ別に部屋を分けて「見たくないものはスルーしてください」というスタンスだったら抗議はもっと少なかったと思います。
トリエンナーレの開催年には、企画展を優先するため、私たちのような公募展を開催する団体は期間や場所などの制約が例年より厳しくなります。
「私たちの表現の場を譲ってもらって、あの企画ですか!」というところにモヤっとしたものを感じます。

第3に作品がショボい!
ごめんなさい、単純ですが、あの少女像のどこに芸術性を見いだしたら良いのでしょうか?
トリエンナーレは現代アート作品が中心と聞きました。
あの作品の構図のどこかに現代アートを感じたかと言えば、皆無。
肩に乗っている鳥?1つとっても、雑な造りだと思いました。
本当に申し訳ないのですが、実物は見ていないので「実物は写真とは迫力が違う!」ということであればそれまでですが、私も一応いろいろな作品を見て回る経験もあるので、写真と実物のギャップは脳内で近づけることもできます。
いくら脳内変換しても芸術性は見いだせなかったです。

第1回のトリエンナーレでは草間彌生さんのピンクに黒の水玉オブジェが置かれたり、ベロタクシーが登場したりして楽しいイベントという記憶があります。
そのあともビートたけしさんの絵を基にしたステンドグラスとか、とにかく楽しいイメージがありました。
愛知県は産業や商業などで栄えているものの、「名古屋飛ばし」と言われるように文化的な部分では遅れていると感じていたから、トリエンナーレが始まったのだと思っていました。
芸術とかアートには政治的なメッセージも含まれて当然ですが、このように露骨な展覧会は『あいちトリエンナーレ』には相応しくないのです。
これは3年に1度のお祭りであって、津田氏に芸術監督が務まるようなイベントではないと、地元民として強く思うのです。
わずか数日の抗議で尻尾を巻いて逃げるような行為もいただけないし、大村愛知県知事の煮え切らない態度もいただけない。
出品者の抗議も一方的に中止を決めた運営側にも向けられています。
芸術に対して無知過ぎるし、雑過ぎます。
もはや『表現の自由』以前の問題だと思います。


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