彼は重い足を動かし続けていた。
また、戻って来てしまった・・・
何年も何度も捜し続けて、ここにはない、ここにはいないとわかっているのに。
かつて愛し合った人はもういない、たった1人ぼっちであるという思いが深くなるばかりであった。来るべきではなかった。年を追う度にもう心は折れそうであった。
それでも、ここに彼女がいる。どこかにいるはずだという思いが捨てきれない。
それは、根拠のない確信だった。ここをうろつけばうろつくほど・・・ここにいるという気持ちが高まっていく。そして捜せば捜す程、どこにもいないのだと言う思いも彼の心を蝕んで行く。
あれほど、幻聴であろう『声』に幾度も否定されて。
それこそが自分の内なる声。
とうとう本当に狂い始めているのだとしても。
彼女を見つけ出せないのならば、自分の存在価値などないも等しい。
残された生をその為に捧げる意外に彼にはもうできることなどないのだ。
各地をさすらった末にそれを何度も確認する。
だからまた、ここに戻って来た。
山の中の廃屋の前に再び、彼は立っていた。
この家の辺りが一番、想いが強い。なんでだろう。
彼女はここに特に縁があったわけでもないのに。
ここにあるのは彼女の腹違いの姉が嫁いでいた家の残骸に過ぎない。
二人は、仲が良かったわけではなかった。
妹はともかく。
仲が良いどころか、姉は妹を憎んでいた。妬んでいた・・・呪っていたかもしれない。その旦那と共に。姉は妹に手を差し伸べることを拒み、結果として妹の死を早めた・・・。そして自分は・・・それを防ぐ事ができなかった。自分の油断。
そしてたった一つの拠り所であったものも、失った。
なんという無力感。自分のできることはもう本当にないのか。
ここでこうして、次第に狂って行く以外に?。
絶望を重荷のように背負った男は背中を丸めて再び、窓の入り口から中に潜り込む。
埃が舞い上がり、嗅ぎ慣れたカビ臭い匂いがする。その薄暗さは彼を安心させた。
『おや・・・帰って来た・・・』
再び、物陰から囁く声がする。彼は暗がりに目が慣れるのを静かに待つ。
この『声』も帰っていたのか。この間は、つかの間消えていたのに。
目が慣れると床に自分や侵入者達の付けた泥の足跡が無数についているのが確認できたが、やはり誰もいはしない。『なぜ・・・あきらめないんだろう・・・』
姿の見えない崩れた階段の作る暗がりから声は囁いてくる。
『しつこいこと・・・お前には、絶対に見つからないのにね。』
「なんでだ。」思わず、始めて男は『声』に答えていた。
「見つからないはずはない。」思ったよりも大きい声が出た。
『彼女は私が持ってるのよ。』
「持ってる?何を?彼女の何をだ?」
男は自分が発狂する恐怖と戦いながら会話を続けた。
『あなたの愛おしい女のしゃれこうべ・・・』声が耳元でささやく。
『欲しいでしょう?』勿論、側に誰もいないことは男にも痛烈にわかっている。
「欲しい。」はっきりと自分の声が虚ろに響くのを男は聞いている。
その声は切望のあまり語尾が甲高い。
『手に入れる為なら、何をする?』耳に熱い息がかかる。
『あなたは何をしてくれるの?あなたはその為に・・なんでもするのかしら?』
「なんでもする・・・レイコ。レイコの為なら。」
もう一度、会いたい。別れの言葉もなかった・・・もう一度、話せたら。
権現山の仙人はとうとう耐え切れずに、頭を抱えて廃墟の真ん中にしゃがみ込んでいた。丸まった背中に静かな声がした。
「本当になんでもしてくれるの?」その声を聞いた仙人は弾けるように顔をあげる。
「レイコ・・・!」彼の喜びは確信に変わる。自分はとうとう気が狂ったのだ。
「私はずっと寂しかった・・・1人ぼっちで・・」
レイコと呼ばれた女はひっそりと笑うと寄り添う黒い影の中から歩み出た。
「でもなあ、ユリ達の思い違いじゃねえの。」
数日前に子供達が竜巻のように駆け抜けた山道に慎重に足を運ぶ集団がいる。
そのしんがりを行く、ガンタにはまだ信じられない。
「だってなんだか・・・だとしたら、すごく老けたんじゃないか?」
「そうそう、私もそう思った。確かさ、あの人って白髪なんか全然なかったじゃない。汚かったけど、髪も黒かったし背だって真っすぐ、ピーンって感じだったよね。さっき、見た感じじゃ、今じゃしょぼくれちゃって見る影もないってことになっちゃうよ。」香奈恵も並んで木の根を跨ぎながら、賛成する。
「でも、事実だもん。」
ユリが先頭に立つジンのすぐ後ろに続く。
「センニンにナニカがあったのかな。どう思う?アクマ。」
ジンは黙って肩をすくめる。そんなことは悪魔にもわからない。興味を持って追いかけていたならともかく。この3年、ジンは相変わらず渡のいる神月を遠巻きにしてチャンスを我慢強くひたすらに待っていただけなのだ。
懐疑組の筆頭は列の最後を歩く、ガンタと香奈恵。
間に挟まれた、渡とトラはどっちつかずの半信半疑組に分類される。
「この間、後ろ姿しか見てないからなぁ。」今更、渡は後悔している。
「わしはの次の日、確かに見たんじゃが。まったく、気が付きもしなかったの。60歳ぐらいの普通のおっさんじゃと思っただけじゃからの。」
首を振って、トラもしきりにぼやく。
「あの顔じゃと言われれば、そんな気にもなるが・・・どっちにしろ、仙人殿は前会った時は髪も髭もぼうぼうだったからの。」
「あれを全部、剃ったんだったら?。だったら、あり得るのかも。」
「実は髪も染めてたってこと?髭も?」
「・・・一夜にして白髪になることもあると言うからの。」
ガンタが空気を嗅ぐような仕草の後で、足を止めた。
「仙人らしき人物は、この間の廃墟に入っていったみたいだぞ。」
「みたいだぞって、なんでわかるのかな。」ジンが口の端を歪めて振り返る。
そしてガンタの肩の辺りにモヤモヤしたものがあることに、始めて気が付いた。
「おやおや。」
心地よい驚きと共にジンが眼をすがめるのを見て、ガンタは身を竦める。
「使い魔ってわけか。」何よりも退屈を嫌う悪魔に取っては、おもしろい展開である。「使い魔?」「ドラコって言うんだ。」「教えるなよ、渡。」
「ドラコ?ドラコって何よ、ガンタ。」「使い魔なんかじゃないからな、怒ってるぞ。」
「ガンタのペットだ。」「飼い主じゃなくて?」
「うるさいぞ、ユリ。余計な事言わなくていい。」
「ペットって・・どこにいるのよ?」香奈恵が不機嫌につぶやく。
渡がこっそりとトラに囁いた。
「どうしてジンさんには今まで見えなかったんだろね?」
思えば御堂山での出会いからドラコはガンタと共にいたのである。
(それはにょ)ガンタの肩から伸びた影が自ら渡に説明した。
(いるとこが違うのにょ。もともとドラコがいるのはワームホールにょ。ドラコは大きな次元にいると同時に、ガンちゃんの回りのエネルギーに隠れていたにょ。今は地球のミルフィーユの間に潜り込んでいるにょ。でも、悪魔の感知できる次元とは微妙にずらしてみたのにょ。隠密ドラコにょ。)
ここで、鯉のぼりは大きく反り返る。
(これはでっかいバラキにはできない技なのにゃ!ドラコだって、ワームドラゴンなのにょ!日々切磋琢磨進化してるのにょ、とっても偉いのにょ!)
この発言が聞こえるガンタは口をへの字に曲げ、顔をしかめた。
ユリは歩きながら笑いだし、トラと渡は顔を見合わせて互いに首を傾げた。
香奈恵だけがきょとんとし、居心地の悪さを覚えている。
デモンバルグが神興一郎の姿を取っていなかった時には、バラキはまったく掴めずドラコも気配しか辿ることはできなかった。逆に物理的な存在と化している今のジンのことは人間とまったく見分けがつかない。
渡やユリのような霊感があると言われる人間に感知されるようにと、ドラコの方が自分を近づけて行くことによって、ジンはようやくドラコの気配に気が付くようになったということらしかった。
「まったく、わからん話だのう・・・」
「私もだわよ。」ドラコの声が聞こえない香奈恵は違う意味で共感。
しばらく無言で草を踏む音が続いた。
「まあ、いいさ。」怪訝な顔でジンがもう一度、目をやるが、既にその影は悪魔の視界から消えていた。ドラコがいる場所をずらしたのだろう。ガンタは香奈恵が脇からしきりに覗き込む視線を他所に、何食わぬ顔で足を動かしている。
「宇宙人にも色々と秘密ありか。」
「宇宙人って?」
「地球人も宇宙人だって話だよ、香奈ねぇ。」
「ああ、そういう比喩ね。」
「比喩ねぇ。」ジンは小さく笑って前を向く。
「悪魔だって人間からみたら、宇宙人みたいなものだろ。」
「悪魔? 唐突・・・どうしたの、ガンタ、何の事?悪魔って???」
「世の中には、悪魔みたいな人間もいるってことだよ、香奈ねぇ。」
「ああ、形容詞みたいなもののこと?。で、誰が悪魔みたいなの? まさか、私のことじゃないわよね?」
「形容詞か、フン、形容詞だってさ、ジンさんよ。」
「聞こえてるよ。」
「やれやれ。」トラが最期にため息を付いた。ほだ木の並ぶ杉林は、下り道に入っている。大きな樫の巨木が見えて来た。
「また、あそこに行くのかの。どうも気が進まぬのう。」
トラにとっては自分が何も感じられなかった不可解な場所、よって不気味な場所なのである。(ドラコに任せるにょ!)「わしとガンタはお前だけが頼りじゃ。」
ドラコの気配にジンは後ろ髪がザワザワすることに気が付いたが、何も言わなかった。
その頃、旅館『竹本』の富士の間で寿美恵がえらい腹を立てていた。
名目上は、泊まり客の神さんに頼まれて近隣の伝承を集めた本を図書館で借りて届けに来たということにしている。しかし、その本心は個人的にむかつく出来事があったので泊まり客を誘ってドライブにでも行こうかと思った為であった。
ここ数日は梅の間と富士の間だけしか客はいない。夕餉までの僅かな数時間は、寿美恵にとって自由時間である。
なのに、寿美恵が退屈しないいい男だと現在ぞっこん?の神興一郎は残念ながら留守であった。
なんでも綾子の話では、ガンタや子供達と出かけたらしい。
寿美恵はがっかりしてしまった。
本当はいけないことであったが、富士の間の座布団に腰を下ろすとため息を付く。
身一つでフラリとやってきたジンである。荷物は小さなディバックだけで、身の回りはキチンとし過ぎるぐらいに片付いている。
勿論、寿美恵だっていくら乗りがいいとはいえ、この泊まり客と本気でどうにかしようとか、どうにかなるとかとは思ってはいない。
過去にはそういうこともあったが。公にはできないことだ。
母屋の自室にはこの間から、返事を迷っているお見合い写真がまだ置いてある。
セイさんの奥さんから持ち込まれた話で、断りづらい。仲人趣味の奥さんに辟易としている、旦那のセイさんからは断っちまっていいと言われている。
ただ、寿美恵にだって本当はもうわかっている。
いい男ばかり、追いかけるそんな年齢では自分はもうないのだと。
そしてそんな自分の面食いのせいで過去、いつも幸せを逃してきていたのだと。
そもそも最初の結婚から。
香奈恵の父親である誠二は彫りが深く顔立ちが良いうえに哲学者のような知的な風貌が漂っていて、寿美恵の一目惚れであった。親のコネと地道な情報収集、加えて奥手の相手に反撃を許さない猛アタックと既成事実&強引親披露でもって押しに押し、結婚まではとんとん拍子にこぎ着けた。寿美恵がはたと素面になり、相手の気持ちを考えたのは・・・果たして誠二の趣味嗜好に自分があっていたのかどうかなどとフト思った時には、既に二人は結婚した後でありお腹には最初の子供がいた。
その妊娠中から、誠二の浮気が発覚し始めたのだった。
苦い思い出である。自分から離婚を切り出し三行半を突きつけたように見えるが、実は自分の方が捨てられたのだと言う思いがどこかにある。
結局、自分は誠二にとって共に人生を歩むパートナーとしては役不足だったのだ。
彼が自ら選んだ相手が、考古学の彼のゼミの教え子で発掘のパートナーであったことがそれを如実に現していた。
離婚した後で、自分は誠二を本当には愛していなかったのだということを寿美恵はもう思い知らされている。
誠二は自分をうっとりとさせる顔、そんな記号でしかなかったのだ。
寿美恵はため息をつく。
同じ間違いをまたするつもりなのか。しかも、10歳も年下の相手に。
本をテーブルに重ねて置くと寿美恵は立ち上がった。ここに来るのも控えなくてはなるまい。娘の香奈恵だって、もう色々なことがわかる年頃だ。
それなのに。疫病神の鈴木真由美め。寿美恵は唇を噛んだ。
それよりも、不可解で不愉快なのはその情報を自分に伝えて来た女。
飯田とかいう真由美と同じ部屋の女だった。
ああいう手合いは理解に苦しむ。おそらく、真由美に含むところでもあるのだろう。
まさか、又誠二が・・・?
どっちにしろ、飯田とか言う女にもキッチリ言ってやったようにもう、自分には関係ない話だ。もしも仮に、誠二が真由美を裏切ったのだとしても、真由美をいい気味だとも思わない。それはもう過去の遠い話なのだ。
なぜ、それがわからないのか。
寿美恵としては、鈴木真由美にまったく気づかなかった自分をむしろ誉めてやりたいくらいだった。
既に古い傷跡となっていた証なのだから。腹立たしいのは、ずうずうしい元の夫の方だが、女性達を野宿させるのが忍びなくて一番近いこの旅館を選ぶしかなかったのだと思えば理解もできた。むしろ、日頃お世話になっている『竹本』の為には本当にありがたいと思える部分もある。この年月は無駄ではなかった。そんな風に考えられるようになった自分は、あれから随分と大人になったのだなと寿美恵はしみじみと年月を振り返った。
なんと言ったって、誠二と言う男は発掘さえとどこおりなく済みさえすればご機嫌な男なのだ。そんな職人的な誠二の気質を結婚していた当時の寿美恵はまったく理解しなかった。理解しようともしなかったと言っていい。少しでも、仕事が伸びれば、帰りが遅くなれば毎日うるさく電話して責め立てて・・・そんなカビ臭い仕事と家庭のどっちが大事なのかとか、今思い返せば顔が赤くなるような罵詈雑言を浴びせかけていたわけで・・・嫌われるのも当然かもしれない。
もしも寿美恵が彼の趣味でもあり生涯の仕事と思っている考古学に少しでも理解を示し、安心して機嫌良く発掘できるような環境を自宅に作り上げてやっていれば誠二も家に寄り付かなくなることもなく、浮気することもなく二人の結婚生活はもっと続いていたのかもしれなかった。
寿美恵はともかく、富士の間を出ると鍵をかけた。今、客は誰もいない。
何かこんな気分を吹き飛ばすものを見つけなくては。
兄の浩介には悪いが、寿美恵の足はカラオケのある宴会場へと自然に向いて行った。