LONELY BOY ☆WORLD END
フランツは監督の代わりに怒らなくてはならなかった。
吸血鬼の弟役の少年が突然役を降りてしまい、その代役が急遽必要だったのである。
なのに助監督が当てのある知り合いの少年とやらは、はっきり言って薹が立ちすぎていた。
「頼むよ~、フランツ。この子はまだ16歳なのよ~、本当なんだからさあ。」
「ダメったら、ダメ!。監督に会わせるまでもないよ。ご希望は13歳か14歳なんだから。」
恨めしげな助監督の顔を見据える。少年は16歳どころか、18歳と言ったって通りそうだ。私情の絡んだこういった人選がフランツは嫌いだ。
「なによ~いじわる~覚えてらっしゃい!」
助監督はふくれた少年を慰めるためにその髪をなで回している。
(どいつもこいつもまったくもう・・・)
フランツは自ら、演出家のイスとやらを持つとスタジオから退散することにした。その方がまったく無難である。撮影は今日でもう3日も中断している。スポンサーでなくたって予算の無駄な浪費状態がそろそろ気になり出す頃だ。役者達はただイタズラにスタジオの中をうろつき回っている それに薔薇園のオープン・セットは実はもう枯れかけているのだ。
「フランツ、この状態はもうちょっとうんざりじゃないのかな。」
スタジオの外にイスを持ち出した彼を目ざとく見つけたマーモットが声をかけてきた。
「早く撮影に入りたいのはお互い様だろ?どこが気に入らないんだ?監督に引き合わせ てやったらどうだ?」
「監督の男の趣味ははっきりしているんだよ!」フランツはやけくそで言い返した。
はっきり言って彼だって泣きたい。なんと言ったってその監督が今朝から見つからないのだ。
見つからない?捜しても?・・しかし、本当のところフランツはわかってはいるのだ。
ただ、それを認めるのがいやなのである。
フランツがただただ、敬愛する監督 ブリティシュ・ニュー・ウェイブの若き旗手 それは異色映像作家ブライアン・ブライトンその人なのである。
ところがフランツが演出家として始まったばかりの若い才能と純情を捧げ尽くしているその監督は、昨日の夜から男と寝ているのだ。
「・・彼はブラッキーと一緒だよ。」やっとのことでフランツは知ってることを白状した。「・・こんなこと!・・屈辱だ!」
「やきもちかよ。」マーモットは監督にさえ、命知らずと呼ばれている。
フランツは唇を噛みしめる。
「その資格さえないんだから・・」ためいきは自分自身にしか聞こえない。
「いったい、あの筋肉お化けのどこがいいんだ?監督の趣味なんか俺は一生わかりたく ないね!」彼はそう言うと帰り支度を始めた。
「俺の出番が来たら呼んでくれ。向こう半年はアーネットのアパートにいるからよ。」
マーモットの映しだす映像は監督でさえ、「彼なくしては・・」と言わしめるものだ。
そしてこのブライトン・スタジオただ一人のノーマルな男という噂はたぶん本当である。
ゲイでない彼の感性がなぜ、ゲイである監督の感性にあうのかフランツは不思議だった。
マーモットのどこかしら歪んだ感性はゲイの持ち物のような気がする。
しかし、そのフランツでさえ実質的にはゲイとは言い難いのである。
フランツはまだ監督と寝たわけではない。
さらにはっきり言ってしまえば、男と寝た事はいまだかつて一度もなかった。
彼はため息をついて階段の手すりを握りしめた。螺線階段の巻き貝の頂点に監督のアパートがある。こんな高級住宅地に足を踏み入れるのはごめんだと、マーモットにはもとから同行を拒否されている。一人で行かなくてはならない。
産まれて初めて、男と寝たいと思ったが為にこんな目に合う羽目に陥ってしまったなんて。彼は眩暈がしてくる。
ブラッキーの二つの胸の隆起に汗が光っている。
スタジオの視線が集中する今この時、彼は最高のエクスタシーを感じている。
「ブラッキー、君はね・・吸血鬼になる前は、ニヒルな水夫なんだよ。だから、もっと クールに振る舞ってくれないと・・」フランツは筋肉塊の中心から目をそらし、相手の飲み込みの悪そうな顔をライトの中に思い浮かべようと目を細めた。
「君はまるで今にも食いつきそうだからさ・・」
「そりゃ、いつも飢えてたからね。」おもしろい冗談のつもりらしい。ブラッキーのバカ笑い、彼は舌なめずりまでしてみせる。その視線が監督の目を常に意識して求めているのをフランツは感じている。それだけでもブラッキーがやっと手に入れた高級な金蔓をけっして離すまいと思っているのがよくわかる。
「フランツほど私の脚本をよく解っているヤツは他にいないな。」
思いがけず声をかけられて、フランツはつい声の主とまともに目を合わせてしまった。
監督がブラッキーに手を出して以来、フランツは打ち合わせの時も彼の目をまともに見なかったのである。この事は監督にも気が付いてて欲しかった。
「フランツに任せておけば、監督の出る幕などなく私はこうやって遊んでられる。そし ていつの間にか、完成したフィルムが私の前に現れるわってわけだ。」
「ご冗談ばっかし・・」フランツは顔を赤らめながらも痛烈な皮肉だと思った。
それを言わしめたのが、先頃の自分の態度ではないかと思うとマーモットの笑いをこらえたような視線を浴びながらも屈折した喜びを感じてしまうのだった。
「で?俺はどうすりゃいいのよ?」ブラッキーの間抜けな声。
「ああ、だから・・もっと動作に適度なキレを出せばいいんだよ・・」
「キレぇ、わからねえよ。」
「フランツ、見本を見せてやってくれ。」
またもや、無造作に監督が命じる。
ブライアン・ブライトンはハンサムとは言えない。久しぶりに真正面からその顔を見てあらためてフランツはそう思った。だけど自分の好きなタイプの顔だ。
なぜ、こんなに彼に魅かれるんだろう?。
その理由が才能だけにとどまらないことはブライトン・スタジオに群がる大勢のゲイ達が認めている。やせぎすで骨っぽい彼の体格はセクシーとは、ほど遠いように見える。
しかし彼は壊れた真珠のような屈折した美貌を持っているのだ。それは割れた鏡に無数に映った顔のように不思議な魅力に満ちている。
彼の大きすぎ黒すぎる瞳も・・高すぎる鼻も薄くて歪みやすい唇も彼のフィルムの独特の特徴であるブラック・ユーモアに溢れていた。
「どうだい今度の映画は?言い出来になりそうかいな。」
マーモットはアーネットの椅子にフランツを座らせるなり、そう切り出した。
「所詮、俺はカメラを回すだけ。たとえ肉屋の倉庫だって綺麗に撮って見せるけどな。」
「僕に聞かないでくれよ。まさかみんな、監督の言った事を真に受けてんのかい?。 知ってんのは監督だけさ。」フランツは付け加えた。「監督の作品だ。」
「そんなことわかってるさ。当たり前だろ?」まったくマーモットは手に負えない。
「いらっしゃいフランツ、ゆっくりして行ってね。」
鳶色の髪の女性がにこやかに笑いながら部屋を横切って台所に消えた。彼女はマーモットが最近プレゼントしたという大きなピアスの具合をしきりに試していた。
この部屋に来るたびに改めてマーモットがゲイでないことを実感するのだった。
そしてその女性の醸し出す匂いや、やわらかな暖かさに触れるとフランツはせつなさやノスタルジーに胸が一杯になった。それは失われた台所への思いだった。
それがわかっていてもフランツは彼女のいるこの家に来るのが好きだった。
ピアスを付け終わった彼女が手作りの料理を並べ始めた。
フランツは自分の産まれた家のことや家族のこと、自分が期待に応えてあげられなかった女性のことをぼんやりと考えた。
そしてそのすべてが終わった後でブライアン・ブライトンに会った時、なぜ自分の結婚生活が破綻したのかフランツは初めて理解したのだ。
マーモットが言うように、そのことには気が付かない方が良かったのかもしれないとフランツも今は思う。
自分が片思いしているブライトン監督のことを考える度に、むなしい徒労感をフランツは感じる。まるで水面に写る自分の影に魅入られてしまったような。
フランツのアパートはロンドンの高級住宅地から20分も遠く、郊外のタジオからは地下鉄でも30分近くかかった。撮影が始まると帰りはいつも真夜中で、深夜バスを待つ気力もない時は1時間以上もかけて歩いて帰った。白々とし出す頃にようやくたどりつくことも、明け方の空気が心地よくてフランツには苦にはならなかった。
実際、帰れないことの方が多いのだ。
そんな時はスタジオの近くのアーネットとマーモットのアパートの台所の長椅子に倒れ込むことも一つの方法だった。しかしこの方法では、睡眠最低5時間という自分に課したコンデションを保つ技が使えないことが大問題だった。アーネットはキチンとした店の美容師だったから、出勤準備やなんだかんだで結局途中で目が覚めてしまうことが多かったのだ。
フランツは今日もやっとたどり着いた自宅の冷たいベッドに身を投げだすと一気に眠る。
そして、疲れた時頻繁に見る夢に決まって起こされるのだ。
その夜もそうだった。
落ちて行く夢。チューブのような狭い空間をまるで手がかりが無いまま、むなしく手を広げながらただ落ちて行く。
目覚めるといつも体が冷たく、寝汗をかいている。
叫び声をあげた気がするが、自分以外誰もいない部屋に確かめるすべはない。
「せめて、色があったら・・」フランツは一人ため息をついた。その夢に色彩がない事が彼には耐えられなかった。彼の質素で殺風景な部屋は色彩に乏しかったからなおさらだった。朝の9時。フランツはおぼつかない手でコーヒー・メーカーに水を注いだ。
大部分がテーブルにこぼれた気がする。
ベッドに戻るとその縁に座ってぼーっと目の前の壁を見つめる。
聖フランチェスコ殉教の版画。マーモットがくれたものだ「君もゲイの端くれなら1枚は持ってなくちゃね!」彼の特徴となった皮肉な笑みと共に。
この状態はだいぶまずいぞ。フランツは自分でも思った。なにせこの後、監督とブラッキーのお迎えが待っているのだ。
こんなことが習慣になるなんて世も末だとフランツは思う。
フランツは監督の代わりに怒らなくてはならなかった。
吸血鬼の弟役の少年が突然役を降りてしまい、その代役が急遽必要だったのである。
なのに助監督が当てのある知り合いの少年とやらは、はっきり言って薹が立ちすぎていた。
「頼むよ~、フランツ。この子はまだ16歳なのよ~、本当なんだからさあ。」
「ダメったら、ダメ!。監督に会わせるまでもないよ。ご希望は13歳か14歳なんだから。」
恨めしげな助監督の顔を見据える。少年は16歳どころか、18歳と言ったって通りそうだ。私情の絡んだこういった人選がフランツは嫌いだ。
「なによ~いじわる~覚えてらっしゃい!」
助監督はふくれた少年を慰めるためにその髪をなで回している。
(どいつもこいつもまったくもう・・・)
フランツは自ら、演出家のイスとやらを持つとスタジオから退散することにした。その方がまったく無難である。撮影は今日でもう3日も中断している。スポンサーでなくたって予算の無駄な浪費状態がそろそろ気になり出す頃だ。役者達はただイタズラにスタジオの中をうろつき回っている それに薔薇園のオープン・セットは実はもう枯れかけているのだ。
「フランツ、この状態はもうちょっとうんざりじゃないのかな。」
スタジオの外にイスを持ち出した彼を目ざとく見つけたマーモットが声をかけてきた。
「早く撮影に入りたいのはお互い様だろ?どこが気に入らないんだ?監督に引き合わせ てやったらどうだ?」
「監督の男の趣味ははっきりしているんだよ!」フランツはやけくそで言い返した。
はっきり言って彼だって泣きたい。なんと言ったってその監督が今朝から見つからないのだ。
見つからない?捜しても?・・しかし、本当のところフランツはわかってはいるのだ。
ただ、それを認めるのがいやなのである。
フランツがただただ、敬愛する監督 ブリティシュ・ニュー・ウェイブの若き旗手 それは異色映像作家ブライアン・ブライトンその人なのである。
ところがフランツが演出家として始まったばかりの若い才能と純情を捧げ尽くしているその監督は、昨日の夜から男と寝ているのだ。
「・・彼はブラッキーと一緒だよ。」やっとのことでフランツは知ってることを白状した。「・・こんなこと!・・屈辱だ!」
「やきもちかよ。」マーモットは監督にさえ、命知らずと呼ばれている。
フランツは唇を噛みしめる。
「その資格さえないんだから・・」ためいきは自分自身にしか聞こえない。
「いったい、あの筋肉お化けのどこがいいんだ?監督の趣味なんか俺は一生わかりたく ないね!」彼はそう言うと帰り支度を始めた。
「俺の出番が来たら呼んでくれ。向こう半年はアーネットのアパートにいるからよ。」
マーモットの映しだす映像は監督でさえ、「彼なくしては・・」と言わしめるものだ。
そしてこのブライトン・スタジオただ一人のノーマルな男という噂はたぶん本当である。
ゲイでない彼の感性がなぜ、ゲイである監督の感性にあうのかフランツは不思議だった。
マーモットのどこかしら歪んだ感性はゲイの持ち物のような気がする。
しかし、そのフランツでさえ実質的にはゲイとは言い難いのである。
フランツはまだ監督と寝たわけではない。
さらにはっきり言ってしまえば、男と寝た事はいまだかつて一度もなかった。
彼はため息をついて階段の手すりを握りしめた。螺線階段の巻き貝の頂点に監督のアパートがある。こんな高級住宅地に足を踏み入れるのはごめんだと、マーモットにはもとから同行を拒否されている。一人で行かなくてはならない。
産まれて初めて、男と寝たいと思ったが為にこんな目に合う羽目に陥ってしまったなんて。彼は眩暈がしてくる。
ブラッキーの二つの胸の隆起に汗が光っている。
スタジオの視線が集中する今この時、彼は最高のエクスタシーを感じている。
「ブラッキー、君はね・・吸血鬼になる前は、ニヒルな水夫なんだよ。だから、もっと クールに振る舞ってくれないと・・」フランツは筋肉塊の中心から目をそらし、相手の飲み込みの悪そうな顔をライトの中に思い浮かべようと目を細めた。
「君はまるで今にも食いつきそうだからさ・・」
「そりゃ、いつも飢えてたからね。」おもしろい冗談のつもりらしい。ブラッキーのバカ笑い、彼は舌なめずりまでしてみせる。その視線が監督の目を常に意識して求めているのをフランツは感じている。それだけでもブラッキーがやっと手に入れた高級な金蔓をけっして離すまいと思っているのがよくわかる。
「フランツほど私の脚本をよく解っているヤツは他にいないな。」
思いがけず声をかけられて、フランツはつい声の主とまともに目を合わせてしまった。
監督がブラッキーに手を出して以来、フランツは打ち合わせの時も彼の目をまともに見なかったのである。この事は監督にも気が付いてて欲しかった。
「フランツに任せておけば、監督の出る幕などなく私はこうやって遊んでられる。そし ていつの間にか、完成したフィルムが私の前に現れるわってわけだ。」
「ご冗談ばっかし・・」フランツは顔を赤らめながらも痛烈な皮肉だと思った。
それを言わしめたのが、先頃の自分の態度ではないかと思うとマーモットの笑いをこらえたような視線を浴びながらも屈折した喜びを感じてしまうのだった。
「で?俺はどうすりゃいいのよ?」ブラッキーの間抜けな声。
「ああ、だから・・もっと動作に適度なキレを出せばいいんだよ・・」
「キレぇ、わからねえよ。」
「フランツ、見本を見せてやってくれ。」
またもや、無造作に監督が命じる。
ブライアン・ブライトンはハンサムとは言えない。久しぶりに真正面からその顔を見てあらためてフランツはそう思った。だけど自分の好きなタイプの顔だ。
なぜ、こんなに彼に魅かれるんだろう?。
その理由が才能だけにとどまらないことはブライトン・スタジオに群がる大勢のゲイ達が認めている。やせぎすで骨っぽい彼の体格はセクシーとは、ほど遠いように見える。
しかし彼は壊れた真珠のような屈折した美貌を持っているのだ。それは割れた鏡に無数に映った顔のように不思議な魅力に満ちている。
彼の大きすぎ黒すぎる瞳も・・高すぎる鼻も薄くて歪みやすい唇も彼のフィルムの独特の特徴であるブラック・ユーモアに溢れていた。
「どうだい今度の映画は?言い出来になりそうかいな。」
マーモットはアーネットの椅子にフランツを座らせるなり、そう切り出した。
「所詮、俺はカメラを回すだけ。たとえ肉屋の倉庫だって綺麗に撮って見せるけどな。」
「僕に聞かないでくれよ。まさかみんな、監督の言った事を真に受けてんのかい?。 知ってんのは監督だけさ。」フランツは付け加えた。「監督の作品だ。」
「そんなことわかってるさ。当たり前だろ?」まったくマーモットは手に負えない。
「いらっしゃいフランツ、ゆっくりして行ってね。」
鳶色の髪の女性がにこやかに笑いながら部屋を横切って台所に消えた。彼女はマーモットが最近プレゼントしたという大きなピアスの具合をしきりに試していた。
この部屋に来るたびに改めてマーモットがゲイでないことを実感するのだった。
そしてその女性の醸し出す匂いや、やわらかな暖かさに触れるとフランツはせつなさやノスタルジーに胸が一杯になった。それは失われた台所への思いだった。
それがわかっていてもフランツは彼女のいるこの家に来るのが好きだった。
ピアスを付け終わった彼女が手作りの料理を並べ始めた。
フランツは自分の産まれた家のことや家族のこと、自分が期待に応えてあげられなかった女性のことをぼんやりと考えた。
そしてそのすべてが終わった後でブライアン・ブライトンに会った時、なぜ自分の結婚生活が破綻したのかフランツは初めて理解したのだ。
マーモットが言うように、そのことには気が付かない方が良かったのかもしれないとフランツも今は思う。
自分が片思いしているブライトン監督のことを考える度に、むなしい徒労感をフランツは感じる。まるで水面に写る自分の影に魅入られてしまったような。
フランツのアパートはロンドンの高級住宅地から20分も遠く、郊外のタジオからは地下鉄でも30分近くかかった。撮影が始まると帰りはいつも真夜中で、深夜バスを待つ気力もない時は1時間以上もかけて歩いて帰った。白々とし出す頃にようやくたどりつくことも、明け方の空気が心地よくてフランツには苦にはならなかった。
実際、帰れないことの方が多いのだ。
そんな時はスタジオの近くのアーネットとマーモットのアパートの台所の長椅子に倒れ込むことも一つの方法だった。しかしこの方法では、睡眠最低5時間という自分に課したコンデションを保つ技が使えないことが大問題だった。アーネットはキチンとした店の美容師だったから、出勤準備やなんだかんだで結局途中で目が覚めてしまうことが多かったのだ。
フランツは今日もやっとたどり着いた自宅の冷たいベッドに身を投げだすと一気に眠る。
そして、疲れた時頻繁に見る夢に決まって起こされるのだ。
その夜もそうだった。
落ちて行く夢。チューブのような狭い空間をまるで手がかりが無いまま、むなしく手を広げながらただ落ちて行く。
目覚めるといつも体が冷たく、寝汗をかいている。
叫び声をあげた気がするが、自分以外誰もいない部屋に確かめるすべはない。
「せめて、色があったら・・」フランツは一人ため息をついた。その夢に色彩がない事が彼には耐えられなかった。彼の質素で殺風景な部屋は色彩に乏しかったからなおさらだった。朝の9時。フランツはおぼつかない手でコーヒー・メーカーに水を注いだ。
大部分がテーブルにこぼれた気がする。
ベッドに戻るとその縁に座ってぼーっと目の前の壁を見つめる。
聖フランチェスコ殉教の版画。マーモットがくれたものだ「君もゲイの端くれなら1枚は持ってなくちゃね!」彼の特徴となった皮肉な笑みと共に。
この状態はだいぶまずいぞ。フランツは自分でも思った。なにせこの後、監督とブラッキーのお迎えが待っているのだ。
こんなことが習慣になるなんて世も末だとフランツは思う。