塩尻市楢川の奈良井宿で
お茶壺道中に出会いました。
将軍家に献上するため、
宇治から中山道を通って
江戸へ新茶を運んだ行事の再現です。
「下に~、下に!」という声が響き、
ゆっくりと行列が前進します。
当時は千人を超える大所帯で、
100以上の茶壺運んだと言います。
お茶壺の中には、
紙袋に包まれた濃茶用の上茶200匁(もんめ)=750gと、
防湿を兼ねてすき間をうめるように
薄茶用の茶が1貫=3750g詰められました。
五月を過ぎて宇治を立ちますが、
信州の奈良井にこの伝統行事が残るのは、
甲州谷村(やむら=都留市)の勝山を経由するルートが
あったからです。
東海道ルートと別に
この中山道・甲州街道ルートがあったのは
天然の冷蔵庫といわれる涼しいこの場所に
お茶を保管しておくためです。
いったん勝山城の茶壺蔵に預けられ夏を超したお茶は
11月の口切りに江戸に届けられていました。
1618年から1867年まで250年にわたって
この一大行事が続いたということは、
茶道の形骸化云々という問題はあるにせよ、
お茶自体のもたらす効用がいかに大きかったかを
思わされます。
社会的・経済的・政治的効果はもとより、
抹茶を飲んでいると調子がいいと
たくさんの人が体で感じたことでしょう。
茶禅一味も武士のたしなみであったでしょう。
でも、250年です!
お茶自体に力があればこそ続いた歴史だと思います。
東海道ルート500キロを約12日。
中山道・甲州街道ルート約580キロを14日といいます。
街道の人々は田植えの忙しい頃なのに
土下座で見送らなくてはなりません。
「お茶壺様が来たら、戸をぴしゃんと締め、
ごま味噌でもなめてじっとしていよう。
お茶壺様が通り抜けたら、
どんどんこしょと戸を開けて外で遊ぼうよ」
ずいずいずっころばしはそんなわらべ歌です。
お茶壺道中に出会いました。
将軍家に献上するため、
宇治から中山道を通って
江戸へ新茶を運んだ行事の再現です。
「下に~、下に!」という声が響き、
ゆっくりと行列が前進します。
当時は千人を超える大所帯で、
100以上の茶壺運んだと言います。
お茶壺の中には、
紙袋に包まれた濃茶用の上茶200匁(もんめ)=750gと、
防湿を兼ねてすき間をうめるように
薄茶用の茶が1貫=3750g詰められました。
五月を過ぎて宇治を立ちますが、
信州の奈良井にこの伝統行事が残るのは、
甲州谷村(やむら=都留市)の勝山を経由するルートが
あったからです。
東海道ルートと別に
この中山道・甲州街道ルートがあったのは
天然の冷蔵庫といわれる涼しいこの場所に
お茶を保管しておくためです。
いったん勝山城の茶壺蔵に預けられ夏を超したお茶は
11月の口切りに江戸に届けられていました。
1618年から1867年まで250年にわたって
この一大行事が続いたということは、
茶道の形骸化云々という問題はあるにせよ、
お茶自体のもたらす効用がいかに大きかったかを
思わされます。
社会的・経済的・政治的効果はもとより、
抹茶を飲んでいると調子がいいと
たくさんの人が体で感じたことでしょう。
茶禅一味も武士のたしなみであったでしょう。
でも、250年です!
お茶自体に力があればこそ続いた歴史だと思います。
東海道ルート500キロを約12日。
中山道・甲州街道ルート約580キロを14日といいます。
街道の人々は田植えの忙しい頃なのに
土下座で見送らなくてはなりません。
「お茶壺様が来たら、戸をぴしゃんと締め、
ごま味噌でもなめてじっとしていよう。
お茶壺様が通り抜けたら、
どんどんこしょと戸を開けて外で遊ぼうよ」
ずいずいずっころばしはそんなわらべ歌です。