茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

藍茶

2009年09月30日 | Weblog
珍しいお茶をいただきました。
カメリアシネンシスではありませんが、
藍の子美(たね)を焙じたお茶です。

藍の葉や藍の種は
古くから解熱剤や感冒薬として使われてきたそうです。
その効力たるや
ふぐ中毒の解毒もしちゃうほど!
「和漢三才図絵」(1712)には、
藍の実には諸毒を解し
五臓六腑を整える薬効効果がある
と記されています。

また、藍の殺菌作用、消臭作用、止血作用は
手ぬぐいや野良着、そしておむつや産着にも
利用されていました。
まさに「服用」ですね。

藍が中国から日本に来たのは飛鳥の頃、
染料として栽培が定着するのは室町時代といいます。
そして、主な場所は阿波徳島。
藍は、
生葉を乾燥させてから発酵させるのですが、
この阿波徳島には、
やはり発酵させてつくる
「神田茶」という珍しいお茶があります。
そしてその近くには、
あの碁石茶の里~。
発酵つながり

神田茶(じでんちゃ)の収穫は遅く、
7月中旬になります。
茶葉を釜ゆでし、
2週間杉の木桶に漬け込み芭蕉の葉で蓋をし、
自然に発生する乳酸菌で葉を漬け込むのです。
発酵させた後、
むしろの上に並べて3日間天日干しします。 
阿波番茶と呼ばれるこのお茶は
やはりちょっとすっぱいお茶ですが
大変体によいお茶です。

藍茶は煮出しても藍色にはなりませんでしたー。
茶色い甘いおいしいお茶でした。




YOSHI-GO

2009年09月29日 | Weblog
緑茶と表示された
三種のペットボトルが並んでいました
高麗ニンジン、ショウガ、ハチミツをブレンドしたグリーンティー
天然のライムフレーバーを使用したグリーンティー
ブルーベリー、ザクロ、ハチミツをブレンドしたグリーンティー
いづれも砂糖不使用、無香料、無着色

ブルーベリーのペットボトルにあった
デトックスという文字に惹かれて
これを選びました
350ml
160円
色も香りも味も
私には紅茶でした
しかも甘いです
蜂蜜がきいています

気になったのは
YOSHI-GO
Hruna Europe
日欧共同開発商品
といった文字でした

HPを拝見すると
群馬県に拠点のある会社なので
榛名山→haruna
遠足で行きました
「よっしゃ」の心意気→YOSHI-GO
= Let's go! とか Let's do it!
ということだそうです
Hiromi Go とは関係なかったけど
何となく好感度

パリの他に
ストックホルムやリスボンに事務所があって
ヨーロッパでの市場を意識した商品のようです
今度ライムも試してみたいです
セボンです

ところで
群馬県にもお茶がありました
「梅田茶」です
桐生市の梅田町では
戦前から自家用栽培がされていたところ
昭和35年には生産組合が設立され
その後栽培面積も拡大し
現在では生葉で約10トン
約2トンのお茶が生産されているのです
前橋にある「茶香坊」さんでは
希少な梅田茶がいただけるようです


品水

2009年09月28日 | Weblog
極上抹茶かほうじ茶か玄米緑茶か、
それが問題だ・・・。
「和食やの総菜えん」さんのアイスクリームスタンドで
贅沢な悩みに暮れるランチタイム。
「ごくじょう」を試してみたいものの
玄米緑茶のアイスは初めての出会い。
ほうじ茶のきれいな色も気になります。
どれも350円。
まあ~、
ごくじょう抹茶とほうじ茶と玄米茶が同額なんて
アイスクリームワールドです!

結局、玄米緑茶をいただいてみましたが、
緑茶のスッキリした香りの中に
玄米の香ばしさが際立って、
とってもおいしく仕合わせなひととき。
  生乳仕立てで、保存料・着色料を使わず、
  素材の持つ本来の味にこだわった
  極上のアイスクリーム
という、もう3つくらいいけそうな
やさしいアイスクリームでした。

今「えん」さんのHPをみてみると、
抹茶は
  静岡産の『品水』を使用した香り高い極上抹茶
とあります。
『品水』?
初耳です~。

抹茶に挽くための碾茶に適している品種には、
ごこう、あさひ、うじひかり、さみどり、こまかげ
といったものがあります。
これらに緑の濃いおくみどりや
旨味の強いやぶきたをブレンドしたりして、
それぞれのお茶屋さんの味をつくります。
もちろん「おぶぶ」さんのようなノンブレンドもあります。

産地としては
宇治や八女が有名ですが、
静岡の岡部や、
最近は狭山にも碾茶炉ができました。
さあこの『品水』というのは
どこのだれ?
静岡のみなさ~ん、教えてください。


「茶是常識」

2009年09月27日 | Weblog
「近代の数寄者たち」という
熊倉功夫氏の文章があります
そのなかに
  鈍翁の茶の湯論を一読して感ずることは、
  儒教道徳も、禅思想も、どんな理屈も混入していない。
  あるのは一国民としての日常的な倫理感覚ーー常識である。
  “茶是常識”とは
  鈍翁が好んで書いた言葉であるが、
  規制の茶道感から茶を解放し、
  近代的な国民の常識として編み直そうとするとき、
  それは茶の表現にも独創性を表す。
という一節があります

利休七則を思いました

茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ

もともと
お茶は難しいことは言っていません
誰もが当たり前のことと思うようなことですが
利休さんが
「私が言ったことにかなう茶ができたなら
 あなたの弟子になりましょう」
と言うとおり
このあたりまえがなかなかできないだけなのです

松永耳庵が
鈍翁の茶事の特色をこう語ったそうです
「客を愛し
 客の喜ぶのを喜ぶ」
偉い人でしたが
人をもてなすことのできる人だったのですね

鈍翁は当時海外に流出する名物を
熱心に買い戻しています
よい道具というのは
作った人のすべてを以て成されたもの
作家の心と技術とがこもった道具達が
その用を知らぬコレクターの元で
ただ並べられるようになることから
守ろうとしたのではないでしょうか
茶碗というのは
お茶を飲むためのもの
これが常識だからです



茶を煮る

2009年09月26日 | Weblog
「独り愛す清間夏日の長きことを
 千株の松下石炉を香じ
 人間の炎熱複何ぞ到らん
 洞裏の風光豈是を望まん
 水は麗泉を擇んで音羽に汲み
 茶は唐製を家郷よりす
 此生尤も喜ぶ煩累を脱することを
 世上笑う吾心うたた狂することを」

これは
「夏日松下に茶を煮る」と題する
売茶翁の偈語です

1973年9月発行の『別冊太陽No.4』には
河原に無造作に広げられた煎茶道具が
ちょっとおもちゃのように写っています
なんか
メリーポピンズの一コマのよう
そっとその画の中に入って
一煎いただきたい感じ

詩が添えてあります
「松樹雲を穿ちて碧空に従え
 萩花露を帯びて秋風に傲る
 茶を煮て渓畔清冷を汲めば
 孤鶴翩翩として此の中に来る」

清冷とした風を感じて
あ~なんて素敵としびれて
さっそくここにご紹介しようと思ったのに
漢字がまず読めなくて
次に変換ができなくて
おとぎの絵の世界に雨が降って
一気に現実に引き戻されてしまいました

暑い夏も寂しい秋も
お茶を煮てしあわせ
そんな気分に共鳴するには
お勉強が必要です
美しい詩をすらすら読みたい
漢文をもう一度勉強したいと思うなんて
これも
お茶のおかげです


茶の呼び名

2009年09月25日 | Weblog
素晴らしい論文を発見しました
感動

日本の古辞書は、
当初より中国の茶文化関連の語彙を、
異名として取り入れてきたが、
室町中期に至り、
最大数の茶の異名を収録する『広本節用集』が成立した。
この辞書には、
148項目という最大数の異名が列挙され、
その数は中国の文献すら上回るものである。
本論は、その部分の編纂過程と、
個々の異名の内容に関して分析することにより、
中世の茶文化の特徴を明らかにしようとした。
蘇軾・黄庭堅の茶詩を中心とする
宋代茶文化の圧倒的影響が見られることと、
同時に
日本独自の造語的漢語が多いことが確認された。

これは
“『広本節用集』に見える茶の異名について”
という論文の冒頭の部分です

東京学芸大学紀要. 人文社会科学系に収録されており
東京学芸大学中国古典学・高橋忠彦氏と
同大学日本語日本文学・高橋久子氏のご研究によるものです

「きちんと記されたもの」であり、
「お茶を言い換える」というような印象の名前たちです
それぞれの時代の人が
お茶とどう係わってきたのか
お茶に何を感じてきたのか
お茶で何を表現しようとしていたのか
そんなことがいろいろ想像できて
大変興味深いです

でも
曼珠沙華の1000の名前のような
もっとひらがなな
もっと口語的な
そんなお茶の名前
wanted!




帰化植物

2009年09月24日 | Weblog
曼珠沙華って
一つ一つ開花するというのを
今年初めて知りました
じっくりしっかり観ました
なんせ百万本

母が具合の悪い頃
曼珠沙華の球根が欲しくて
赤を見つけると
こそこそと土を掘っていました
球根をすり下ろして
足の裏に張ると
腹水がとれたのです

このように
毒性を民間療法に利用したり
毒を消して食用にし
飢饉を乗り越えたり
畑やお墓の周りに植えてモグラよけにしたり
昔から人里近いところで育てられ
生活に役立ってきた植物です

日本には縄文から弥生時代に
中国から
または朝鮮半島経由で伝わったと言われています
呼び名が1000以上もあるといいますから(他にあったら教えてあげてください)
至る所に伝わって定着していったのでしょう
「正座」の呼び名もたくさんありました
子供が親に叱られるとき
肩をすぼめて座る姿はどこにでもあったからです

では「お茶」は?
お茶の呼び名は
「茶」以外なにかあったでしょうか
世界への伝播としては
中国広東語系の「チャ」と
福建語系の「テ」の2つの系譜に分けるのが一般的です
でも「茶」として日本に入ってからは
きちんと「ちゃ」という名前がついて回ったわけです

禅と共に
方法と共に
きちんと伝わったから・・・?
ん~
「ちゃ」という音が
簡単だったし、かわいかったから
一度聞いたらそのように覚えたのかも?
お茶も彼岸花も
どんな旅をしてきたのでしょうね

川柳

2009年09月23日 | Weblog
今日は柄井川柳(からいせんりゅう)の忌日。
川柳と呼ばれる句は彼の名に因んでいて、
「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を
主な特徴としています。
たとえば、
「入歯見て 目もはずしてと せがむ孫」
みたいな 
確かに初めて入れ歯を見る子供の目はおもしろいですよね。
(第一生命サラリーマン川柳入賞作品より)

「おーいお茶言ってみたいよオレだって」
「ばあさんの小言もお茶で一休み」
「お茶しましょ誘って和む夫婦仲」
「もぐもぐと緑茶につけて堅せんべい」
「故郷の母を偲ぶや渋茶かな」
こちらは、
掛川の「お茶の里城南」さんに寄せられた
お茶のある風景。
日本茶喫茶では渋茶は出てこないから、
渋茶こそ家庭の味ですね。

煎茶道にも、
お客様がお話に湧いているなら、
三煎目でもお急須にお湯を足し、
「渋茶でございます」といって
ひと手加えるという臨機応変があります。
渋茶にはぬくもりがありますね。

ところで、
お茶の呼び方にも「川柳」があります。
かわやなぎと読みます。
ところが地域や時代によって、
これがどんなお茶を指すか統一されていません。
お茶屋さんのHPでも、
=番茶(夏以降のお茶)
=荒茶(番茶の別名としての荒茶)
=頭柳(製茶の際はじかれる大きめの葉による茶)
=親子番(新芽の積み残し)
=ほうじ茶(結果として)
などなど様々です。

とにかく、
気を遣わずに淹れられる
大衆的なお茶で、
お茶の味がしっかりしているお茶、
といったところは共通。
これからの季節、
熱いお湯で淹れたお茶で、
栗とかおせんべいをもぐもぐする時間が
楽しみですね~。

高麗(こま)

2009年09月22日 | Weblog
高麗に行ってきました
百万本の曼珠沙華の中に立ったとき
香りのない花にも
息が感じられました
巾着田に広がる赤の中を抜け
秋桜、柿、栗と秋に誘われ歩くこと30分
大きな鳥居が見えてきました
高麗神社です

ここ埼玉県日高市は
1300年前高句麗人の里として栄えたところです
紀元前一世紀に建国された高句麗
東アジアで最初に国家を形成した文化の高い王国でしたが
その700年の歴史は唐と新羅に封じられ
668年高句麗が滅びる前後には
多くの高句麗人が日本に渡ってきました

716年に大和朝廷は
東国各地に散らばっていたこうした渡来人を
この地に集めて高麗郡を置きました
高く麗しい国の人々の文化は
ここ日高を基盤に日本に伝えられてきたそうですが
あまり詳しい史料がありません
都では唐と交流していた時代ですから・・・

お茶に関する史料も得られませんでした
「お茶を持ってきたことは十分考えられますね
 でも、今までそのような記録はまったく見つかってないです」
ん~がっかり
でも帰り道、畑の隅に忘れられたお茶の木を発見
今年初めての茶花ちゃんとのご対面~
曼珠沙華祭りの会場では狭山のお抹茶もゲット
キムチと高麗人参の入った「高麗鍋」もいただき
20000万歩も歩き
よい国民の休日でした

高句麗の危機に当たって
日本に援軍要請に来た若光(じゃっこう)は
そのまま祖国に帰ることなく
高麗郡の初代郡長になるわけですが
明の末期にも
隠元さんをはじめたくさんの文人が渡来したことを思いました
日本という国には
戦いを好まない大陸の人達のDNAが
息づいているのですね

白雲洞

2009年09月21日 | Weblog
露地門をくぐり、
巨岩をぴょんぴょんと渡り跳び、
上り詰めたところに
白雲洞はありました。
利休以来の大茶人と称された
鈍翁・益田孝氏の創案により建てられた茶室で、
「田舎家の席」の設えです。

振り向けば
深山に分け入ったかのような景色。
山びとの侘びた住まいという主題通りの
山中の山居です。
お茶室は一般に貸し出しているとのことですが、
ここまで着物で上がるのはちょっと大変。
横浜の三渓園にも険しい露地の茶室がありましたが、
心を静めるどころか、
転ばないように転ばないようにばかり
考えちゃいます。
作務衣のような衣服がふさわしいです。

縁なし畳が敷かれた8畳にはいろりがあり、
茶室の形式主義的な束縛から離れ
茶道の初源に立ち返るという、
大正期の茶人の想いを伝えています。
農家の古材を利用して
その味を活かして作った茶室では、
道具もそれに添ったものが見立てられ、
自由な茶が愉しまれる庵となりました。

四棟の席で構成されているこの茶苑を建設した
鈍翁という男爵は、
世界初の総合商社三井物産を設立し、
日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した実業家です。
彼からこの茶苑を継いだ原富太郎(三渓)氏は、
絹貿易、製糸工場の運営で富を築いた実業家。
最後に引き受けた松永安左エ門(耳庵)氏は、
九州、関西、東京で広く活躍した
電力王と呼ばれる財界人。

近代数寄の三代茶人と呼ばれるこのおじさま方は、
かっこよかったのでしょうね~。
4人目にバトンを渡す人は
いなかったのかしら。
昭和46年という時代には、
かっこいい男は、
もういなかったのかしら。

強羅公園

2009年09月20日 | Weblog
小学校の頃よく遊んだメンバーで
突然箱根に行くことになりました。
「どこも混んでいて大変だったけど
 吹きガラスの体験の予約が取れたよ。
 4時半に強羅公園に行くよ」
と聞いて、
「え~?強羅公園
 あそこには有名なお茶室があるんだよね~」
「へー」
「・・・」

超お久しぶりぶりなメンバーは、
私がお茶大好きなことを知りません。
「あ、これか!」
お茶の友人がよくぼやいているパターンです。
お茶好きでない人と旅行に行っても
立ち寄りたいところがかみ合わないそうな。
哀しいそうです。
たいてい一人でどこへでもブーンと行ってしまう私は、
今日までその経験がなかったのです。

吹きガラス体験コーナーでは、
小鉢かコップかお皿かと聞かれ、
「抹茶茶碗」とおねだり。
お兄さんいい人。
エナメルホワイトとロイヤルブルーの2色を選び、
くるくる回したりフーと吹いたり、
あっという間の15分。
高台なしの抹茶茶碗
(やっぱし小鉢か)
ができあがりました。
「あ、かき氷にいいね」
と言われました。
「・・・冷茶につかうんだもん・・・」

閉館まで10分を切っています。
さあ、門まで戻らなきゃという時ですが、
「じゃ、5時に門で!
 私、ちょっとあっち見てくる!」
次の瞬間、
岩場を駆け上がり白雲洞をめざしました。
もう完璧、
お猿さんでした。

うがい茶

2009年09月18日 | Weblog
デパ地下のお茶屋さんに人だかり!
といっても三人ですが
3~4メートル四方の小さなコーナーに三人目もいたら
これは様子を見に行くしかありません

見れば
皆さんが群がっているのは
その名も「うがい茶」
え~
350円/100g
 急須で濃いめに出して
 水でうすめてお使い下さい
という手書きの説明と
「緑茶うがいでインフル予防」という見出しの
中日新聞のコピー(2009年5月27日)がありました
これがお母さん方の足を引き留めたのですね

お茶の袋を見ると
飲んでしまっても大丈夫です
もちろんお茶としてもお召し上がりいただけます
カテキンたっぷりの夏のお茶です
といったメッセージが

でも皆さん、別のお茶を買っていく…
何かいろいろ説明聞いて悪いから
何か買っていこうかしらみたいな感じ?
とにかく、もっと高いお茶が売れていて
おじさん大忙し
とても興味深い光景でした

かくいう私は
350円が買えませんでした
お勉強のために買って茶葉を見たいと思いますが
うがい茶といわれるとナンか飲めない気分
ちょっともったいないわ
冷蔵庫にそろそろうがい茶によろしそうなお茶もあるし
結局お財布の紐はゆるみませんでした

他のお母さん方も
同じような思考回路だったのかもです
それとも
どうせなら高いお茶をいただいて
その出がらしでうがいをすればいいと思ったのかしら
それはダメです
カテキン効果が期待できません
私ならお番茶買って煎じちゃいます

お茶を上手に利用して
新型インフルものりきりましょう

茶業

2009年09月17日 | Weblog
茶道文化検定の日が近づいています
1級2級用テキストはぐっと厚くなって
固有名詞もたくさん
ありがたきことに
この漢字にまでというほどに
たっぷり「かな」がふってあって
このように読むのでありましたかと
ひそかにドキッとすることもあり
本当ににうれしい限りです

そしてそして
今回テキストを開いて感激したのは
九章で構成されたうちの一つに
「茶業」という項目があったことです
織部の好んだ「青」
遠州の好んだ「白」
抹茶の、この青と白について知りたくて
私は日本茶インストラクターの世界に入ったのですから
茶道の世界には
なかなか抹茶そのものについて学べる機会がなかったわけです

茶銘に「白」や「昔」が好まれる理由にも
すこーしだけ触れてありました
「茶」の「白」については
中国のお茶の世界と
韓国のお茶の世界とを
いろいろ合わせて考えると
もっともっと発見があるように思います

今回のテキストでは
茶道の歴史という観点に添ってということで
近代の宇治の茶業に焦点が当てられています
藁下十日簀十日(わらしたとおかすとおか)
お茶を摘むなら下から摘みゃれ
     上の楉(ずあえ)は後で摘む
宇治はよいとこ茶は縁どころ
     娘やりたい婿ほしや
などの歌は
茶畑の土のにおいを思わせてくれました




茶道文化検定公式テキスト
監修(財)茶道文化振興財団
淡交社

試験は11月29日(日)
受験申し込み締め切りは10月16日です

茶船の民謡

2009年09月16日 | Weblog
パソコン教室で隣に座っている人が
『川崎の古民謡』なる本を手にしていました
カラオケで童謡を歌うのが大好きですと
自己紹介をしていたけれど
民謡もいけるわけ~とちょっと見せてもらいました
パラパラしていたら
「茶」の文字が!
多摩川に浮かぶ船の写真に
「茶船」の2文字が!
うれぴい~

『茶船の唄』
 一分おくれよ 茶船の船頭さん
 筏乗りさえ二朱くれた
 二朱(西)で高いのは富士の山
 あーこりゃこりゃ
 伊豆の下田じゃ 長居は出来ぬ
 縞の財布が空となる
 あーこりゃこりゃ

明治10年ごろまで
このような茶船が活躍していたそうです
 「新しい木造船ができると、葉茶屋の問屋から頼まれて、
  清水港などから新茶を運ぶ仕事をしたものである。
  この船は長さ50尺、幅12尺くらいあり、
  川では櫓を使い、海では帆をかけた。」
古い船ではお茶に臭いが付くので
新しい船限定だったわけです

当時の船は風まかせ
清水港へは北風を利用してスイスイと到着するものの
清水港で新茶を積み込んだあとが大変
今度は南風が吹くのを待って帰るわけですが
下田まではすんなり帰れても
そこから先は大きな南風がなかなか吹かなくて
それで
下田港に幾日も滞在するため
茶船の船頭さん達は
下田港でお金を使い果たしてしまうという歌です

茶船が伊豆半島で難儀していた19世紀後半というのは
喜望峰ではティークリッパーがぶんぶん飛ばしていた頃ですね
あーこりゃこりゃ

(東京内湾漁撈習俗調査報告書42.3参照)


『川崎の古民謡・上』
角田益信
(株)昭和書院
昭和61年7月1日発行