茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

2009年06月13日 | Weblog
同じ想いの人たちと過ごす時間は
なんと快く軽やかなことでしょう
その人の生きざまを尊敬し信頼しあえる時
こんなうれしいことはありません

今日は二十代を過ごした職場の同窓会でした
懐かしい顔が五十人も
四半世紀ぶりの再会もたくさんありました
月160時間を超える残業の日々が何ヶ月も続いて
入院したこともあったっけ
そんな忙しい環境だったのに
そーいえば女の子にはお茶入れ当番がありました

毎朝、お盆にたくさんの湯飲み茶碗をのせて
ちゃんと急須でお茶を淹れてました
あっついのが好きなボスや
温いのが好きなボスや
あいつは出がらしでいいみたいなボスや(え?)
不思議とそれぞれのお湯のみが思い出されます

熱い時代でした
何がそうさせていたのでしょう
「飢えた子供の画像」がいろいろなメディアを通して目に入り
それが
どんどん心のどこかに蓄積されて
気が付けば
今ある援助や、今ある国際関係に
そうじゃないだろと言わんばかりに働いていた
私には何の専門もなかったけれど
何があるべき道かは何もわからなかったけれど
それはイヤだ、と何かがいつも叫んで
イヤでない世界を求めて必死だったのかもしれません

帰りの電車で
加藤登紀子さんの「時には昔の話を」がリフレインしていました

(1) 時には昔の話をしようか
  通いなれた 馴染みのあの店
  マロニエの並木が 窓辺に見えてた
  コーヒーを一杯で一日
  見えない明日を むやみに探して
  誰もが希望を託した
  揺れていた時代の 熱い風に吹かれて
  体中で瞬間を感じた そうだね
(2) 道端で眠ったこともあったね
  どこにも行けない みんなで
  お金は無くても なんとか生きてた
  貧しさが明日を運んだ
  小さな下宿屋に いく人も押しかけ
  朝まで騒いで眠った
  嵐のように毎日が 燃えていた
  息が切れるまで走った そうだね
(3) 一枚残った写真をご覧よ
  ひげづらの男は 君だね
  どこに居るのか 今ではわからない
  友達も何人かいるけど
  あの日の全てが 空しいものだと
  それは誰にも言えない
  今でも同じように 見果てぬ夢を描いて
  走り続けているよね どこかで

同窓会の最後で
「みんな志があった」と挨拶された方がいらした
4次会まで続いたお酒が冷めたら
お茶を淹れよう
志のゆくえを見つめてみたい