茶の葉の声に耳を澄まして    Tea-literacy

数千年にわたる茶と人とのかかわりに思いを馳せ、今、目の前にある茶の声に耳を傾ける
お茶にできること、お茶の可能性とは

エンジェル

2010年05月31日 | Weblog
建長寺さんの半僧坊には
天狗がたっくさん立っています。
階段を上って上って上りきって顔を上げると
岩の陰に木の陰に
どんどん姿が見えてきます。
そしてこれがその天狗様の後ろ姿です。

歌が出てきました。
Angel... Angel... Angel...♪

時に埋もれた記憶の彼方
そうさ僕達は天使だった
空の上から愛の種を撒き散らして
この地球から悲しみ消したかった
ねぇ広いブルー・スカイ
見上げていると勇気が湧かないか…今でも

To My Friend 
背中の羽は失くしたけれど
まだ不思議な力残ってる
To My Friend
光を抱いて夢を見ようよ
ほら君の瞳に虹が架かる

街に汚れたと君は言うけど
今も透き通る涙がある
雲が広場でカンケリして月をすべり
ハートの矢で人を恋に落とした
そう描くヴィジョン
現実にする魔法があったんだ…ほんとさ

To My Friend
明日を信じ続けていれば
この砂漠も楽園に変わる
To My Friend
傷つきそして学んでゆこう
今、愛の蕾が胸で開く

  「僕達は天使だった 」
   作詞/森 雪之丞

そう、
ドラゴンボールです。
大好きな歌です。

この歌を歌いながら、
金沢八景に続く暗い尾根を
お茶の木を探して歩いていました。
九州の修験の道には
必ずといっていいほどお茶の木がありました。
神奈川ではその痕跡は見つからないでしょうか。
新芽が目立つうちに
山歩き山歩き♪

巻物=虎の巻=トーラー=法典を
手に持つ天狗。
この星(地球)から悲しみを消したいと願う人々の
いろいろな人生を思いながら
歩いていました。

市川段治郎

2010年05月30日 | Weblog
「歌舞伎で広げる茶の湯の心」という講演会が
横浜そごう新都市ホールでありました。
段治郎氏の立ち回りの実演などもあり
歌舞伎ファンの方にはたまらない
3時間ではなかったでしょうか。

「音」のお話が印象的でした。
かつて作曲家の黛敏郎氏が
茶の湯にあった音楽を作ろうとされたものの
結局つくることができなかった、
音楽があってはならないという結論になった
というお話がありました。
そこへいくと、
歌舞伎には「音」がつきものです。
立ち回りにも、紙の落ちるような小さな音も、
そして当然見栄をきる時にも
拍子木の音が響きます。
バタバタバタバタ、バッッッッッタリ
というそうです。

3分ですむ動作を30分かけて演じるというのは
たった一服のお茶を点てるのに
いろいろな取り決めがある茶道と
どこか通じるものがある。
何かを際立たせたい、
何かを伝えたい、
そこを歌舞伎では
カメラのフォーカスやスローモーション
のような働きで動き、
茶の湯では緩急をはかったりして
表現している。
などなど、日本の代表的文化である
歌舞伎と茶の湯の比較などが語られていました。

足を45度に開いて腰で歩くと武士になる。
足は平行で速く歩くと町人に見える。
膝をつけて肩胛骨を合わせるように歩くと女形になる。
「らしさ」を強調する世界が歌舞伎という段治郎さんの
イヤホンガイドつきの茶会があったら行ってみたいという
率直なご感想も微笑ましいものでした。

茶の湯を題材にした演目があったらいいかも。
バタバタバッタリと席入りし、
切柄杓で見栄をきり、
茶筅を振るう時に一同髪を振るうとか。
黛氏が腐心された茶の湯を表現しようという試みではなく
「らしさ」を際立たせる芸能としての一舞台。
シビ切れた苦しさと心の葛藤、歌舞伎でこそ、いいかも~。

山歩き

2010年05月29日 | Weblog
茶筅供養を拝見して
そのまま建長寺さん奥のハイキングコースへ。
目的は
お茶の木がどっかにないかなあ~、です。
先日、金沢文庫で
金沢一帯でお茶が育てられていた
というお話を伺ったので
建長寺からそのまま尾根伝いに
金沢文庫まで抜けてみようと思いました。

建長寺さんからのハイキングコースは
その入り口に天狗の像がいっぱいあります。
修験の道はお茶の道!
と、目をキョロキョロさせて歩いてきました。
前日の雨で
かなりぬかるんでいて
どきどきな山歩きでした。

6時間歩きました。
その間、
5人くらいの若いグループに3回ほど出会い、
小学生のツアーに一度出くわしましたが、
あとは、一人歩きの方30人ほどと行き交いました。
20代から70代くらいまで
いろいろな方が一人で歩いていました。
私もその一人です。

お茶は、どうも、ありません。
この季節、新芽が必ず目に付くはずです。
谷底の方まで熱心に見ましたが
見つけられません。
そうか、ヤマチャは、絶対に目立つんだな、
見て見て、ここだよ、飲んでみて、って、
お茶は人に気付いてもらわんばかりに
鮮やかな新芽を吹くんだな、
という気がしてきました。
薄暗い山の中で、どくだみの白も目立っていました。

途中、いくつか道標のないプチ岐路がありましたが、
なんとなく選択し、無事進んできました。
が、一度だけどうしてもわからない三叉路で困っていると
スダ爺(と呼ばせていただきます)が現れました。
「金沢文庫ならこっち」と
すたすた歩いて行かれるので追っていきました。
「こ、この人は稀れ人かも~」などと思いつつ
「このあたりでお茶の木を見たことありませんか」と
聞いてみました。

「・・・ないね」
きっぱり・・・。
「週4日は山歩いてるけど、見たことないね。 
 お茶があれば新芽が目立つから絶対に気が付くけど、
 ないね」
がっくり・・・。
お茶は絶対にないんだな、という気がしました。
お茶は延命の妙薬。
称名寺さんがきちっと管理していたのですね。

茶筅供養

2010年05月28日 | Weblog
建長寺さんで茶筅供養がありました。
20名ほどのお坊様方の読経の声が響く中、
使い古した茶筅を
鉄篭の中にくべて焚き上げ、
 日頃茶道に精進できる事への感謝と
 茶筅のご供養を行う
という行事です。
参加費が1万円もするので
ちらっとのぞき見て
外人さん達と一緒に
外から写真を撮っていました。

お茶をなさっている皆さんは
使い古した茶筅をどのようにしているのでしょう。
ずっと前ですが、
海岸に穴を掘って
小さな焚き火を起こして
茶筅を燃やしたことがあります。
お稽古に来ている小学生中学生達が
とっても喜びました。
茶筅さんがお星様になったね
なんてかわいいことをいいながら
感謝するひとときを持ったのです。

でも、
実は海岸での焚き火は禁止されています。
先生、まずいことをしてしまいました。
あの夜のことは
みんなの秘密ということで、
では次回からどうしたかというと
炉の中で燃やしてしまいました。
小さく砕いてくべました。
それでもちょっと炎が立って
あ、これももうやめようと
反省しました。

次に考えたのは
お正月のどんど焼きです。
近所の神社に立つ炎の中に
なんとなく密かに
お茶筅もくべさせていただきました。

でも現在、
我が家には12本の使い古したお茶筅がたまっています。
どんど焼きを逃した今年、
この子達をどう供養したらいいのかわかりません。
やはり、ゴミ箱には捨てられないです。
本来はお茶筅を炊きあげた残りの灰を
炉に戻したいわけですから、
ん~、
今、考えているのは、
バーベキューケトルか七輪です。
どーなることやらです。


刈番

2010年05月27日 | Weblog
ただ今、足柄の山は刈番の季節です。
お茶は本当に生命力が強い!
と感じる初夏の一日です。
新茶(1番茶)を摘んだのは連休明けの頃。
その時、すっかり刈り上げた畝に、
もう、柔らかな芽がいっぱいです。

1番茶を摘んでから50日ほどすると
2番茶の芽(1番茶で摘んだ枝から出たわき芽)が出揃って
2番茶の茶摘みをすることになるのですが、
1番茶を摘んでから2週間後くらいに、
遅れ芽を刈っておいてやると
2番茶の芽の出かたがそろうのです。
この遅れ芽を摘むことを刈番と呼んでいます。

遅れて出てきた芽をそのままにしておくと、
2番茶の芽の成長が遅くなりますし、
何よりも
遅れ芽が大きくなって硬くなるので、
2番茶収穫時に混ざると
お茶の味が落ちてしまうことになります。
それでまめにお茶を刈るのです。

画像はプロのお兄様方が刈った畝です。
さすが!
あと1センチも落とせないという高さで
ずーーーーと刈り上げています。
畝間というのはふかふかで
足元はとても悪いのです。
しかも後ろ向きに引いていくので、
私の場合は、
もうすぐ畝終わりかなあというあたりで
心が乱れトラ刈りになるのです。
バックで泳いでいてもうすぐゴールかなと思って
つい手が伸びなくなるのと同じ感じ・・・

プロのお兄様とは
何のプロか。
ひと息に。
一気に。
呼吸を合わせ。
が、できる人?
夏の暑い陽の中でも
なん畝もなん畝も
そうして歩けるようになると
お茶摘みのプロ?

畑の男の人は
ほんと~~~に
カッコイイですよ♪


緑茶味わい教室

2010年05月25日 | Weblog
先日、足柄の茶畑で手摘み体験をした
地元の小学5年生の教室を訪ねました。
自分で摘んだお茶を使っての
お茶のおいしい淹れ方教室です。
茶農家の方もご一緒です。
「この袋に入っているお茶が
 あの日、みんなが摘んだお茶だよ」と
子供達の丁寧な仕事を労っていらっしゃいました。

パワーポイントを使って
お茶の歴史や効能、製造方法などを学び、
いよいよ急須を使って実践です。
100人の子供達の中に
15人ほど
自分で急須を使ってお茶を淹れたことがない子がいました。
これはなかなか良い成績です。
さすが足柄の子供達です。

70℃ってどのくらいだと思う?
2gのお茶ってスプーンにこのくらい?
1分を数えてみてね。
あえて感覚を使うような言葉を加えて
お茶を淹れていってもらいます。
100人の子供たちが集中している静かな熱気が
とっ~ても快感です。

でも、いつも一番感動するのは先生です。
ふだん飲んでいるお茶と全然違う・・・
70℃に冷ますだけでこんなにお茶って甘くなるの?
そして先生も熱くなります。
「畑であんなに柔らかだった葉っぱが針みたいだね!」
「お湯をいれると急須の中で葉っぱが開いていくね!」
「お茶って黄色いんだね!」
「やわらかそうで、食べたいね!」
素敵な言葉をぽんぽん投げかけていらっしゃいます。
マイクなしで。
さすがです。

校長先生が率先して土をいじり、
PTAが100人さくっと集まって
学校の草木や花の手入れをしたり、
街のけやきの落葉を集めて堆肥を作ったりする学校です。
子供達は素晴らしい背中を見て育っているのですね。
お茶の間の風景が思い浮かぶようでした。
幸せをいただいた一日でした。

鎌倉の茶

2010年05月24日 | Weblog
神奈川県立金沢文庫80年記念企画
「武家の都 鎌倉の茶」展に行ってきました。
金沢文庫は
鎌倉時代の中頃(1275ごろ)に
北条実時が造った武家の文庫です。
鎌倉幕府滅亡後は
隣接する称名寺によって管理されてきましたが、
1930年に神奈川県の施設として復興し、
中世の歴史博物館たる研究の場となっています。

鎌倉と言えば
栄西禅師がお茶で実朝の体調を回復させ、
茶の効用を『喫茶養生記』に記して献上した
というお茶との関係が有名ですが、
『吾妻鏡』の抜粋への解説が面白かったので
記憶を辿ってご紹介します。

実朝が相当体調を崩しているということで
栄西禅師は天台密教の験者として
加持を依頼された。
栄西はこれを好機として
薬と称して抹茶を点てることを考える。
しかし、鎌倉(寿福寺)にはよいお茶がなかったので
延暦寺から取り寄せて実朝に飲ませた。
効果抜群であった。
茶の効能を記し、
実朝に『喫茶養生記』を献上したのは、
茶を本草の薬と認めない当時の医道の官人に
反論するためであった。
当時の官人は
五香煎という大変高価な薬草茶を
病気の平癒に使っていた。
栄西は、
それでは限られた人しか服用できないので、
そんなにお金をださなくても
茶を飲めばよいと訴えていた。

『喫茶養生記』は
そんな心で書かれていたのですね。
すると当時すでにお茶は相当あったということですね。

また、平安時代以来、
密教寺院は
お茶を修法の供物として使用してきたとありますから、
栄西禅師は宋に渡る前から
お茶の利用については知っていたということでしょう。
密教においてのお茶は
仙人に献上するものとして仙茶と呼び、
煎じて飲んでいたそうです。
禅僧が点茶法を持ち帰ってから
真言系禅寺では
儀式の空間は煎じ茶、修行の時は点茶と
飲みわけていたのではないか
ということでした。

6月27日(日)までです。

亀山焼き

2010年05月23日 | Weblog
江戸東京博物館の特別展「龍馬伝」を見てきました。
龍馬愛用の湯飲み茶碗がありました。
亀山焼です。
高さ7.5センチですが、
たっぷりお茶の入りそうな
ずんぐりした湯飲みでした。

亀山焼は長崎の焼き物です。
亀山社中の名はここから来ています。
ざっと「亀山焼」の歴史を見ると、
 1807年
 大神甚五平・山田平兵衛・古賀嘉兵衛・万屋古次吉によって
 長崎伊良林垣根山で開窯される。
 創業資金は長崎奉行所産業御調方からの借入金。
 積荷を降ろしたオランダ船の帰路に必要な水甕を
 焼くための窯だったことから
 亀山焼と命名された。
 ナポレオン戦争の影響で外来船の寄港が大きく減ったため
 1814年、長崎奉行所の指導下、
 大村藩の波佐見焼や長与焼に関る陶工を招き
 白磁染付の製作に転換。
 原料の粘土は上質の天草陶石や中国の蘇州土を使用。
 顔料も良質の花呉須を中国から取り寄せた。
 崎陽三筆と称される
 木下逸雲・祖門鉄翁・三浦梧門や
 当時豊後に居住していた田能村竹田など
 著名な文人が下絵を引き受け、
 文人画風の雅味のある絵付けとなった。
 寛政・天保年間には全盛期を迎え、
 その品格の高さが評判となったが、
 大神甚五平が65歳で没し、
 二代目甚五平が窯を引き継ぐものの
 財政難のため廃窯となった(1865年)。

と、たった50年ほどの歴史の焼き物です。
この亀山焼工場跡地を高田利平が購入し、
その後2年にわたって
この地が亀山社中の活動拠点となったそうです。

この湯飲みは現在
下関市立長府博物館に収められています。
それは
龍馬が下関時代に愛用していて
その後東上する際に
記念として印藤長州藩士に贈ったためだそうです。

田能村竹田の絵の水甕が
オランダの骨董品屋さんにはあるのでしょうか~。

台目(だいめ)

2010年05月22日 | Weblog
世田谷区の羽根木公園にあるお茶室を
お借りしました。
三畳台目のお席です。
小間の空間は本当に落ち着きます。
暑い中、キャリーバッグをガラガラさせ
新宿の喧噪を抜け
今、躙り口から入ったここは
ただ座っているだけで
何時間も過ごせそうな心地よい空間です。

ですが、
お点前が始まると
ご覧の通り
お点前さんの顔が見えません。
お釜も道具も見えません。
なんだか
寂しいのです。

こうした部屋の造りを
台目構えといいます。
中柱と袖壁があり、
袖壁の隅に釣り棚がついています。
点前座は一畳の四分の三です。
あえて点前座と客座を
いくぶん隔てた感じにしたわけですが、
これは
室町時代の足利義政の茶の湯の発想で
亭主の座を謙虚に見せていた時代の構え(茶立所)を
意識したものです。

利休さんは
最初に隅炉、次に向切、
そして台目切と発展させました。
その後も織部がこれを好み
台目構えは定着することになりますが、
やはり、どうも、寂しい。

茶室は何もないですが、
実は主張がものすごい空間です。
そんな亭主の温度をぐっと消すために
袖壁の向こうに控えることにしたのでしょうか。
茶を点てるのは誰でもいい?
どうも
台目の部屋の良さがわからないです。

日本文化

2010年05月21日 | Weblog
学校茶道部に、
中国から高校生がやってきました。
寧夏回族自治区(ねいかかいぞく)という
内陸からやって来た彼らは
「今日初めて海を見た」と興奮していました。
いきなりカッターで海に出て
夏日の湘南の海を走ってきたそうです。
みんな真っ赤な顔をしていました。

「日本に行ったら
 海と茶道を見たい!」
彼らは訪日を前にそんな注文を出していたそうです。
茶道にどうして興味を持ったのか尋ねると
映像という情報からなのだそうですが
日本を代表する文化だと理解していて
とにかく体験してみたい、
そして抹茶というものを飲んでみたい
というものでした。

茶道部の生徒のお点前を
それはそれは熱心に見つめていました。
吸い付くように見ていました。
点前の意味や陰陽五行のことなど
中国から学んだ事がベースになっていると
説明をすると
とっっってもびっくりしていました。
木火土金水は知らずメモをとっていました。
杭州とか径山寺とかいう固有名詞も
馴染みがないようでした。

寧夏回族自治区は元代に
トルコ、ペルシャ、アラブ人が流入し
イスラム化が進んでいる地域だそうです。
長年の混血で
そういえばみんな背が高かった気がしました。
中国、広いです。

お抹茶のお味は
「とっても美味しい♪」
彼らはお茶といえば烏龍茶なのだそうで、
お抹茶の鮮やかな緑に
随分と感動していました。
お茶はまだ種類があるのか、
どうやって飲むのか
質問がいっぱいでした。
たった30分の国際交流でしたが
良い時間でした。
北朝鮮も国際交流すればいいのに、です。

イヌタデ

2010年05月20日 | Weblog
雑草刈機で
茶畑の畝間の雑草を
ウイーンウイーンなぎ倒してきました。
スイッチオンで
刃のついた円盤がギュイーンと音を立てると
それはそれは恐ろしいです。
ちょっと触れたって
何だってすっ飛んでしまいます。

あんな柔らかな草を刈るのに
こんなたいそうな機械を担いで
土ぎりぎりのところに
円盤を走らせるのです。
愛するすぎなちゃんを滅多切り。
アザミちゃんもシュキーン。
・・・ムリ。
やめたやめた。
一人マシーンを肩から外して
鎌に持ち替えました。
・・結局刈るんですけど。

除草作業の目を盗んで救済した雑草は
今我が家の茶室にて
優しく夏を告げています。
彼女にはイヌタデという名前があります。
別名、あかまんま。
昔からどこにでも生えていて
子供達がこの赤い実を小豆に見立てて
おままごとであかまんま(お赤飯)に使ったからです。

万葉集では美しい愛のメッセージに使われています。
「わが屋戸の 穂蓼(ほたで)古幹(ふるから)
摘み生(おほ)し 実になるまでに
君をし待たむ」
実になる前に刈っちゃいましたから・・・

「蓼食う虫も好き好き」という言葉がありますが、
この蓼は苦味のある柳蓼のことで、
苦いのにこれを好んで食べる虫がいることから
生まれた言葉です。
実際、ヒトもこの苦味を蓼酢に利用しているのですが。
イヌタデは苦くさえもなくて利用価値がない
というのでイヌ呼ばわりです。
犬死にみたいな言い方。

でも、とても風情がありませんか。


高士弾琴図

2010年05月18日 | Weblog
出光美術館に行ってきました。
ただ今の展示は
「茶 喫茶のたのしみ」
煎茶や抹茶の世界の道具や絵などが展示されています。
茶人、文人といわれた人々が
生きるということに何をみていたのか、
お茶を飲むということを通じて
彼らが残した「もの」が
それぞれに様々な思いを語っているようでした。

上田秋成の蟹の涼炉にとっても惹かれました。
そうか、蟹でもいいんだ。
でも、どうして蟹にしたのかしら。
やはり、まっすぐは歩かない文人だから?
などと考えながら、
蛸でもいいかな、富士山でもいいかな
と、マイ涼炉を作ってみたくなりました。

青木木米の道具も多く並んでいました。
急須の手がかなり上を向いていたので
胡座とかではなく
きちんと座ってお茶を淹れていたのかな
などと思いました。
自分の座高や自分の手にあった急須を作る木米さん、
そうです、
道具ってそういうもの♪
私も急須造りたい!

などと、
かなり楽しく道具を拝見していましたが、
一番最後にかけてあった
富岡鉄齋の一幅の画に
それまでのすべてを忘れてしまうくらい
引きつけられてしまいました。
高士弾琴図は156.9×47.5㎝の
大きな水墨画です。
観瀑の文人達が琴を楽しんでいるのですが、
大きな滝を前に琴を弾いても
その音はたちまちかき消されます。
つまり、文人達は琴の音を頭の中で聴いている
というものだそうです。

やな奴~なんてつぶやきながら
小さな人の姿をじっとのぞき込みます。
浦上玉堂の作風を模して仕上げた
という山の風景は迫力に満ちていて
ほどなく、
頭の中は滝の音でいっぱいになりました。
さすがに、
七琴の音までは聞こえてきませんでしたが、
美・術というのはすごいものです。

はないかだ

2010年05月17日 | Weblog
「どうしたの?」
って、どうしても聞いてしまう。
たったひとひらの葉に
毎年、足をとめられてしまいます。
ミズキ科の植物っぽく
葉が横に美しく流れて目を楽しませてくれますが、
よく見ればその真ん中に
小さな蕾が光っています。
本当に不思議な花・・・
と思うのはこちらの勝手、
ハナイカダはただ、ハナイカダなのですね。

葉の真ん中のこの蕾は
これから花になり黒い実になっていきます。
その姿が人が筏に乗っているようで
この名がついていますが、
ほんと
一寸法師みたいです。
ちょっと侘び寂びを会得しちゃった
一寸法師。
ゆるゆると川を旅する感じです。

こうした草花を連れ帰って
その美しい息吹を家の中に再現するのは
簡単なことではありません。
茶の湯が完成されていく16世紀の
『烏鼠集』には
 野山ニ生ル草木ノ体ヲマナビテ
と、花に対する考え方が記されていますが、
「野にあるように」入れるためには
注意深い観察が必要です。
花のある野山に
しばしば訪ね出でなくてはなりません。

 善き花瓶には万草可入、
 花の上手は何の花にても心次第也。 
 花に法度(規則)を云うは初心のため也。

これは、利休さんの教えですが、
善き花瓶とは何でしょう。
自分が趣を見いだした器になら
自分が心を留めた花を入れたとき
不思議にしっくりとくるものです。
籠でも瓢箪でも竹でも石でも
花と花入れが
前から約束をしていたような
居心地の良い顔つきをするような気がします。

花はどんどん変わります。
いくつもの花を見逃し、
忙しい生活を反省させられます。