今年の春、オープンしたばかりの国立新美術館でモネ大回顧展を観た。
国立新美術館とは最近亡くなった黒川紀章が設計したあの有機的な曲面を持つガラス張りの美術館のことだ。
私が出かけた日は平日、しかも雨という天候にもかかわらず大勢の来館者で賑わっていた。
近くには東京ミッドタウンが控えており、そこから流れてくる人も多かった。都心のど真ん中にできると確かに便利はいいが、アートを観に行こうとする純粋な気持ちが削がれるような気がしてどうもいけない。やはり美術館は郊外に造るべきではないかと思ってしまう。
閑話休題。
印象派はとても人気があるアートシーンである。中でもモネは群を抜いている。後期印象派のゴッホと双璧だ。
なぜ人気があるかということだが、モネは目に見える「もの」の形を描いているのではなく、「もの」の存在を象徴させる光を描いているからに他ならない。要するに我々凡人とは視点がまるで違うのだ。言い換えれば、モネはものの存在とは何かといった本質を描きたかったのだ。それはこの大回顧展に並べられた作品を時代順に見ていけばわかる。彼の美に対する飽くなき探究が「存在の本質を描く」というこの一点に集約されていく過程が見てとれるのだ。だから多くの感動を呼んでいるのである。
そしてモネが最後に行き着いたのが「睡蓮」の連作である。
彼は水面に反射する光の美しさに魅了されたのだ。この睡蓮のシリーズの中でも特に有名なのが、パリのオランジェリー美術館に所蔵されているこのCDジャケットに掲載された睡蓮である。
リッチー・バイラークはこの作品のサブタイトルに「Richie Beirach Plays Musical Portraits Of Claude Monet」とつけた。
私はこのピアノソロを聴いて理解した。
この音楽はただ単に耳で聴くという行為だけでは不十分で、光あふれる風景を見るように感じなくてはいけないのだ。
もともとピアノソロはあまり好きではなく、リッチー・バイラーク以外にはせいぜいキース・ジャレットくらいしか聴かないが、この作品を通じてその聴き方を学んだような気がしている。