SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

JOHN WILLIAMS 「THE JOHN WILLIAMS TRIO」

2007年10月09日 | Piano/keyboard

この作品の良さがわかるまでには時間がかかった。
このジョン・ウィリアムスのアルバムは以前から通の間で隠れ名盤との評判が高かったので、「どれどれ、どんなものか」と気になって買ってみた。手に入れたのは確か4~5年前、秋葉原だったと思う。
しかし2~3回聴いては見たものの、これといって印象に残るようなものは感じなかったので、そのまま放置してしまっていた。このアルバムはもともと薄い紙ジャケットだったので、いつしか他のCDに紛れ込んでしばらくその存在さえも忘れていたのだ。
しかししばらく経ってから、CDの整理をしようと思って一枚一枚手にとってチェックしていたら棚の奥からこれが出てきた。「お~、こんなのも買ったなぁ~」とか思い出し、久々に聴いてみて「あれっ?」と思った。自分が抱いていた印象とはかなり違ったのだ。
まず驚いたのは鍵盤を叩く指の強さである。特に左手が強い。鍵盤に打ち下ろされる彼の指の角度はほぼ90°なのではないだろうか。そりゃそうだろ、といわれそうだが、ビル・エヴァンスなんかはせいぜい45°くらいの角度しかない。否、エヴァンスの場合はほとんど打ち下ろしがないといっていい。鍵盤と指とがいつも密着している、そんな感じなのだ。
ウィリアムスの場合、これによって曲にメリハリが生まれている。メロディよりもリズムが強調されるのはこうした弾き方のせいだろうと思う。
次に気がついたのは、どこからどこまでがテーマ部分で、どこからがアドリヴ部分なのかが判別しにくいという特徴があることだ。つまり最初から終わりまで小気味よくスイングしておりその境目が見あたらないのである。これは意外と珍しい。私はこうしたピアニストを他に知らない。
ピアニストではないが、こういう類のジャズメンといえばズート・シムズが近い存在かもしれない。もちろんピアノとテナーサックスという楽器の違いはあるものの、私にしてみれば感覚的に同じタイプである。ズート・シムズはロリンズやコルトレーンのような際立った個性の持ち主ではないが、ただただスイングすることだけに執念を燃やした人だった。ジョン・ウィリアムスも同じである。

とにかくこうなると儲けものだ。正に棚からぼた餅(意味が違うか)状態である。
これからは3年経ったら違う耳になっているということを肝に銘じて、しばらく聴いていないアルバムを先入観なしで楽しもうと思っている。

JACKY TERRASSON 「JACKY TERRASSON」

2007年10月08日 | Piano/keyboard

一言でいえば歯切れのいいピアノトリオだ。
最近のジャッキー・テラソンはもはや中堅の域に達してきたが、このアルバムの発表時はまだまだ期待の大型新人だった。
彼の父親がフランス人だったこともあり、彼はパリを本拠地として活動してきた。私も彼を最初に知ったのはバルネ・ウィランの「パリス・ムード」での演奏を聴いてからである。
そのパーカッシブなピアノはデビュー当時から個性的だったし、そこにはインテリジェンスな風格さえ感じられた。
しかし何といっても決定的だったのはこのアルバムの衝撃である。
何がすごいか、それはドラマチックなアレンジが独特な世界を創っているからなのだ。
その極めつけは1曲目の「I Love Paris」と5曲目の「Bye Bye Blackbird」。
因みに「Bye Bye Blackbird」のアレンジはというと、ウゴンナ・オケグウォのウォーキング・ベースがまず最初に飛び出し、テラソンの自由奔放なピアノをコントロールするところから始まる。するとレオン・パーカーのシンバルがそれに釣られるように出てきてリズムを作り出し、三位一体となった正統派トリオの演奏になる。しかしそれもつかの間、パーカーのシンバルは次第にスピードを上げ全体をアップテンポにリードし始めると、テラソンの指はまるで水を得た魚のように鍵盤の上を泳ぎ回る。それが頂点に達すると元のスピードにスローダウンして静かに幕を閉じるといった具合だ。
これだけ大きなスケールでアレンジされたら、さぞかし疲れる作品ではないかと思われるかもしれない。しかしそれ以外の曲、例えば7曲目の「I Fall in Love Too Easily」での静けさや、続く「Time After Time」での洗練されたムードを聴けば誰でも彼の実力を感じるはずだ。彼は単なる見せかけだけのピアニストでないことがここでも証明されている。

ジャッキー・テラソンにはブラッド・メルドーにも共通する不思議な魅力がある。高い技術力に裏打ちされたある種の緊張感がそれかもしれない。
但しメルドーはニューヨークが似合い、テラソンはパリが似合う。この違いは大きい。

BOOKER LITTLE 「BOOKER LITTLE」

2007年10月07日 | Trumpet/Cornett

実に伸びやかなトランペットだ。
これこそ23才で亡くなったブッカー・リトルその人の吹奏だ。
25才で亡くなったクリフォード・ブラウン、26才で亡くなったファッツ・ナヴァロ、44才で亡くなったリー・モーガンよりさらに若く旅立ったことになる。なぜ天才トランペッターはこうも早死にする人が多いのだろうか。
因みにここで共演しているスコット・ラファロも25才で亡くなった天才ベーシストだ。
このアルバムは夭逝した二人の天才が残した貴重な録音なのである。

リトルのトランペットは、まるで空に向かって声高らかに歌い上げるような響きである反面、ラファロのベースは勢いよく地を駈けるようなリズムを刻んでいる。このコントラストが実にスリリングであり、若々しさがみなぎっている。
この二人にウィントン・ケリー、トミー・フラナガンといった人気ピアニストが絡む。
ケリーのピアノは、彼独特の飛び跳ねるタッチによって二人の気持ちをさらに高揚させる効果がある。逆にフラナガンがピアノを弾くと、緊張感が解きほぐされ二人とも冷静さを取り戻す。どちらも甲乙つけがたいバッキングで、この聞き分けもリスナーの醍醐味の一つである。ロイ・ヘインズの安定感あるドラムスもいい。

曲は最後の「Who Can I Turn On」を除いてどれもブッカー・リトルの作である。
どれもこれもメロディアスでわかりやすい旋律を持った佳曲であるが、感動的とも思える彼のダイナミックな吹奏によって、全ての曲が大きなスケールを感じさせる。
これぞジャズトランペット、これぞジャズベース、といったベストの音がここに収録されている。
返す返すも惜しい人材を亡くしたものだ。

PHINEAS NEWBORN Jr 「Harlem Blues」

2007年10月05日 | Piano/keyboard

フィニアス・ニューボーン・ジュニアはテクニシャンだ。
あのオスカー・ピーターソンと双璧だった。
但しピーターソンほど吹き込みが少ない。バド・パウエル同様にこれが精神病に悩まされ続けた男の結果なのだ。故に希少価値がある人だといってもいい。少ない作品だからこそ、彼の吹き込みの一枚一枚に何かズシリとした重みを感じるのだ。
この重みは彼特有のブルースフィーリングも大いに関係しているように思う。
これは明らかにアート・テイタムから受け継いだオスカー・ピーターソンの表現方法とは違う。
彼の演奏には深い心の底から這い上がってくるような情念を感じる。
とはいっても彼が演奏するブルースは周りが想像するほど暗くない。1曲目の「Harlem Blues」を聴くといい。初期のキース・ジャレットを彷彿とさせるようなポップなリズム感だ。但しこれは一歩間違うと危ない方向に進みかねない類の明るさだ。この何ともいえぬ緊張感が彼の持ち味であり真骨頂なのだ。
彼のブルースフィーリングは続く「Sweet and Lovely」で最も色濃く出ている。
思いっきりためを効かせたフレーズにはタイトル通りの優しさが溢れている。ブルースでこれだけの優しさが表現できるのもニューボーンならではのテクニックだといえる。これはすばらしい演奏だと思う。

このアルバムにはもう一曲すごい演奏があった。「Stella by Starlight」である。
ピアノソロで始まるこの曲は、いかにもニューボーンらしい音の連続で、聴く者を否が応でも彼の世界に引きずり込んでいく。途中から出てくるエルヴィン・ジョーンズのドラムスも恐ろしいくらいの迫力だ。レイ・ブラウンのベースといい、脇役がこれくらいしっかりした人たちでないとニューボーンと同格に渡り合うことは不可能だろう。そうした意味でもこの布陣は理想的である。
本物のブルースを聴きたければこれを聴け、といいたくなるくらいの名作だ。

PEGGY LEE 「Black Coffee」

2007年10月04日 | Vocal

まだ学生だった頃、憧れに憧れたレコードだ。
このレコードを手に入れた時の嬉しさは未だに忘れられない。
まずこのジャケットである。
テーブルにはバウハウスで作られたようなデザインの真鍮らしきコーヒーポットと、マイセンかウェッジウッド製ではないかと思わせるカップが置かれ、その中にコーヒーが注いである。また脇には真珠のネックレスと赤いバラが配置されてセレブな雰囲気を醸し出している。全般的にコテコテな演出だということはわかってはいるがこのムードがたまらなく好きだ。
このジャケットは、50年代初期という時代が凝縮されているのではないかと思う。Black Coffeeというスクリプト系のタイトル書体もさりげなく写真にマッチしているし、全体にバランスの取れたレイアウトになっている。

このアルバムはペギー・リーの最高傑作として名高い作品だ。
タイトル曲の他にもいい曲がたくさん揃っているが、やはりこのアルバムは「Black Coffee」という曲に価値がある。
ピート・カンドリの目一杯怪しいミュート・トランペットに乗って、ため息をつくかのようなペギー・リーの歌が始まる。このジャケットを見ながら自分もその世界に浸る。Black Coffee~~ときたところで気分は最高潮。数年前にやめてしまったが、この時ばかりはタバコの一本も吸いたくなる。

考えてみればコーヒーに砂糖を入れなくても飲めるようになったのはいつのことだったろう。
小さい頃は砂糖無しのコーヒーなんてまずくて飲めたものではなかった。しかし大人になるためにはブラック・コーヒーが飲めなくてはいけないという今になってはばかばかしいと思える強迫観念があったのも事実である。その後背伸びして、まずいブラック・コーヒーをがまんして飲むようになり、それがいつしか慣れとなって日本茶のように飲めるようになったのではないかと思う。
このジャケットを見るとそんなことまで思い出す。
ジャズもこのブラック・コーヒーと同じである。最初は取っつきにくい音楽だと思っていても、しばらく聴き続けているうちにいつしかやみつきになってくる。
ジャズもブラック・コーヒーも私にとっては大人の象徴だった。だからこのアルバムに憧れたのだ。

BENNY CARTER 「JAZZ GIANT」

2007年10月03日 | Alto Saxophone

私の中ではジョーニー・ホッジスとベニー・カーターは特別な存在だ。
ベニー・カーターといえば1920年代から活躍していた〈超〉がつくほどの大ベテランだが、その明るい楽想のせいかとても親しみやすいアルト・プレイヤーである。95才まで生きて我々を楽しませてくれたという側面が影響しているのかもしれない。
ホッジスやカーターのアルトを聴いていると何か大らかな気持ちになってくる。些細なことで悩んでいる自分が小さく思えてくるのだ。いつ聴いても「ま、なんとかなるさ」という気持ちになれるから、私はちょっと落ち込んだ時などに彼らを聴くことが多い。
またベニー・カーターはトランペッターとしても魅力のある人だ。
このアルバムの「I'm Coming Virginia」を聴いてほしい。この哀愁感はどうだ、古き良きアメリカの匂いがプンプン漂ってくる。共演しているベン・ウェブスターのテナーやバーニー・ケッセルのギター、フランク・ロソリーノのトロンボーンなど、どれもカーターの吹くトランペットを見守るかのようなサポートをしているのも印象的だ。

話は変わるが、私は日本人だからこういうジャズを聴いて懐かしさを抱くのはおかしいのかもしれないと思っている。
古き良きアメリカなどというのは映画か小説でしか知らないはずだからだ。
しかしそこが人間の面白いところだ。国を超えて時代を超えて通ずる何かがあるのだ。
例えばサッチモの歌を聴いていると、昔近所に住んでいた世話好きのおじさんを思い出す。そのおじさんはしわがれた声でいつも私に笑いかけてくれていた。しかしある日突然そのおじさんが姿を消していなくなった。身体をこわしたのかどこかへ引っ越したのか私にはわからなかったが、それ以来、何か一抹の寂しさを感じるようになっていた。つまりそのおじさんは自分にとって育った風景の一部だったのである。
これではっきりした。懐かしさには時代も国境もないということなのだ。

DAG ARNESEN 「NORWEGIAN SONG」

2007年10月02日 | Piano/keyboard

またまたノルウェーの上質なピアノトリオを手に入れた。
ダグ・アルネセンの新譜である。今回はノルウェーの歌ばかりを集めた作品集になっている。
こういうアルバムに駄盤はない。
古くはアート・ファーマーが「To Sweden with Love」で哀愁溢れるスウェーデンの民謡集を発表し話題を呼んだし、90年代にはヤン・ラングレンが「Swedish Standards」でやはりスウェーデンの民謡を取り上げヒットさせた。国こそ違え、ノルウェーとスウェーデンは同じ北欧スカンジナビア、「NORWEGIAN SONG」が悪かろうはずがない。
このアルバムを言葉で形容するとしたら、さりげなさと優しさに溢れた作品だといえる。
もともとの曲が民謡だから、ノルウェーではおそらく小さな子どもでも口ずさめる歌なのだろう。そんな愛らしいメロディが全編に渡って広がっていく。もちろん原曲の良さを残しつつもきちんと現代風にアレンジされているあたりはベテランならではの職人芸だ。

ピアノの音がみずみずしい。目をつむると農村に流れるせせらぎの風景が浮かんでくる。
ピアノがせせらぎの音だとしたらブラシは風の音、ベースは胸の高鳴りだ。このアルバムは私をそんなノスタルジックな世界に連れて行ってくれる。
もちろん人それぞれでイメージする風景は違うだろう。当たり前のことだ。イメージできるといっても自分がどこかで見た風景を思い起こしているに過ぎない。私たちは常にそうした風景に合う音楽や出来事を探し廻っているのである。何を好きになるかは、そうした感性で決まってくるものなのだ。

10月に入って周辺は一気に秋の様相を呈してきた。冷房も暖房もいらない貴重な季節である。夜も長い。
こんな日はお気に入りのピアノトリオを片っ端から聴いていく。
何枚か聴いて今の季節に一番合っていると感じたのが、このダグ・アルネセンの「NORWEGIAN SONG」だった。



PAT MARTINO 「Footprints」

2007年10月01日 | Guiter

予想外のアルバムだ。
ばりばり弾きまくるパット・マルティーノもいいがこのくらい内向的な作品に愛着を感じる。
「What Are You Doing the Rest of Your Life?」「How Insensitive」「Alone Together」を聴くと、彼の胸の内がかいま見えるようで共感できるのだ。
特に「What Are You Doing the Rest of Your Life?」という曲の演奏はすばらしい。
この曲の耽美なイメージを作ったのは、ビル・エヴァンスとこのパット・マルティーノだと思っている。最近ではヘルゲ・リエン・トリオがデビューアルバムで取り上げ、ますますその深遠さを増しているが、考えてみればこれほどまでに哀しみに満ちた曲もない。同じような感覚を持つ曲といえば、同じビル・エヴァンスで有名な「You Must Believe In Spring」くらいのものだ。

ジャズで取り上げる曲は人によって様々な解釈がなされることが多く、もともとは明るく楽しい曲が一転して暗いイメージになったり、またその正反対のことが起きたりする。そうしたところがジャズの面白さであり醍醐味でもあるのだが、この曲に関してはなかなかそうはいかないようだ。主題がもともとシリアスで、そうした変化を受け付けない何かがあるのだと思う。
その原因は曲のタイトルかもしれない。
「What Are You Doing the Rest of Your Life?」は邦題でよく「これからの人生」と訳されているケースが多いが、この訳し方はまるでダメだ。曲の奥深い美しさが全く表現されていない。まるでこの曲を明るく演奏したかのようにみじめな有様だ。これだから日本語訳は嫌いなのだ。
英語ができるとかできないとかの問題ではない。要するに言葉から受けるイメージ感覚が大切なのだと思っている。
少しくらい間違っていたっていい。このパット・マルティーノに気持ちの上で同化すれば自ずと感動が得られるはずなのだ。
それが曲の正しい解釈である。