SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

TEDDY CHARLES 「THE TEDDY CHARLES TENTET」

2010年01月27日 | Violin/Vibes/Harp

ジャケットの雰囲気がロリンズの「ニュークス・タイム」に似ている。
タイポグラフィはイマイチだが、こういう写真には迫力がある。
何の影が映っているのかわからないが、その縦縞ストライプの陰影に撮影者の強い意図を感じる。
いったい誰のカバーデザインなんだろうと、ジャケットをひっくり返してみたら、やっぱりこれもバード・ゴールドブラッドだった。
ちょっと意外な気もしたが、考えてみればこんな雰囲気を作れる人は数少ない。
ま、納得の一枚である。

で、中身であるが、正直言ってこのアルバムはかなり手強かった。
だいたい10人ものスタープレイヤーを集めて作品を作りたいという動機からしてちょっと不純である。
ここでは各種サックスやトランペット、ギターはいうに及ばず、なんとチューバだって登場する。
テディ・チャールス自身は腕のいいヴァイヴ奏者であり、この作品でも随所に粋なソロを聴かせてくれるが、それもあくまで全体の一部である。
もともと彼は演奏よりもアレンジに執念を燃やすタイプの人なのだ。
このアルバムを聴いていて感じるのだが、彼は、この場面では誰がどれだけのソロをとり、どんな感じで曲が進行していくかなどを設計するのが楽しくて仕方ないといった感じを受ける。
私はそんな彼の気持ちがよくわかる。
以前(20代の頃)、一度だけ2台のハンディカメラを駆使して、ロードムービー(もどき)を撮ったことがある。
バイク好きの友人の目線を通じて、私の生まれた町をもう一度見つめ直すといった内容だ。
もちろん「ド」が付くシロウト作品だから、内容は推して知るべしではあるが、そのストーリーの組み立てを考えたり、ロケ場所を決めたり、被せるBGMを選曲したりするのがものすごく楽しくて、連日夢中になっていたを思い出す。
もちろん、そんなのとこの作品を一緒にしないでくれというご批判もあるだろうが、私にとってはかなり近いイメージなのだ。
暇さえあれば、もう一度撮ってみたいと思っている。

ジャズには二通りの聴き方があるように思う。
一つは純粋に個別の楽器の音色を楽しむ聴き方。もう一つは曲の解釈や表現そのものを聴く聴き方だ。
私は圧倒的に前者の聴き方を好んでいるが、この作品は明らかに後者の範疇に入る。
後者はゆくゆくフリージャズへとつながっていく前衛的な流れだ。
今になってそれがわかる。
かすかではあるがその予兆がここにあるのだ。


WARNE MARSH 「WARNE MARSH」

2010年01月23日 | Tenor Saxophone

以前はウォーン・マーシュといってもピンと来なかった。
名前はリー・コニッツとのデュエット作品が好きだったので知っていたが、これといった特徴を掴むまでには至らなかったのだ。
知っていることといえば、せいぜいレニー・トリスターノの門下生であり、クールなテナーを吹く人、程度の認識である。
しかしいつだったか、評論家の一人が熱く「ウォーン・マーシュこそ、最高の白人テナーマンだ」と書いていた記事を読み、「ほ~、そんなにすごい人なのか、じゃあ、もっと真剣に聴いてやろう」と意気込んでこの作品を購入したのを覚えている。
購入の動機としてはちょっと情けないものがあるが、やっぱり知らないでいると損をするような気がしたのも事実なのだ。

つい最近も、ジャズ批評という雑誌で「白人テナーサックス奏者」の特集をやっており、以前このブログにもコメントを寄せてくれたマシュマロレコードの上不さんが、「こんなにすごい人なのに、日本ではあまり人気がないのが残念だ」と対談の中で仰っていた。
そういえばマシュマロ(MARSHMALLOW)というレーベル名も、このウォーン・マーシュの名演から取られたと聞いた。
リー・コニッツの「Subconscious-Lee」にも入っていたあの目眩く曲だ。ウォーン・マーシュのオリジナルでもある。
おそらく上不さんもこの頃の彼が一番好きなのではないだろうか。
彼の作品には共通していえることだと思うのだが、彼はあまり客の方を向いていないというか、自分の世界を大事にした作品の作り方をする。いわば芸術家肌の人なのだ。
彼の作品がイマイチ脚光を浴びないのは、そうした側面があるからだと思う。

さて話はこのアルバムに戻す。
これは57~58年の録音だ。
このアルバムで一番印象に残ることは何かと聞かれたら、強靱なベースと中音域を中心としたテナーとの掛け合いである。
これはかなりスピリチュアルな雰囲気を持っている。
ピアノもあるにはあるが、2曲にしか参加していないので、全体を通じてほとんど印象に残らない。
ポール・モチアンとフィリー・ジョーのドラムスも的確だが、何といってもベースの存在が光っている作品なのだ。
ベースを弾くのは名手ポール・チェンバース。
やっぱり彼のベースワークにはキレと安定感がある。
2曲目の「Yardbird Suite」など、二人の生み出すグルーヴ感に唖然とする。
3回くらい続けて聴いたらやみつきになった。

FRANCESCO MACCIANTI 「Crystals」

2010年01月18日 | Piano/keyboard

家のすぐ近くに比較的大きな川が流れている。
私はその土手から見上げる里山の風景が好きだし、小さな橋を渡って、ずっと広がる田圃のあぜ道をひたすらまっすぐに歩くのが好きだ。
但し今はこのジャケットのように一面真っ白な世界が広がっており、長靴を履かないととても行けそうもない。
早く春になってもらいたいのだが、このところの寒波で、冬ごもりはもうしばらく続きそうだ。

今、私の部屋ではこのアルバムの5曲目「Nazca」がかかっている。
エジィエット・エジィエットという面白い名前のベーシストが奏でる長く沈んだソロパートの後に、フランチェスコ・マッチアンティの湿り気あるピアノと、ジョー・チェンバースの叩くシンバルが寂しそうに響いてくる。
まるで楽器同士が静かに語り合っているような趣がある。
このあたりのコンビネーションが実にいい。
こういう耽美な曲にはブラシが一番かと思っていたが、どうしてどうして、スティックによるシンバルの響きもなかなか心地いいものである。

曲は6曲目のミディアムバラード「Distant Call」を経て、7曲目のスタンダード、「I Fall In Love Too Easily」に代わった。
この哀愁感を絵に描いたようなメロディに、思わず胸が締めつけられそうになる。
ここはさすがにブラシの登場である。
シュクシュクと雪道を踏み固めながら歩くようにブラシが跳ねる。
マッチアンティは、その上で噛みしめるようにピアノの鍵盤を丁寧に叩いていく。
この繊細なタッチが彼の特徴であり魅力だと思う。とてもいいピアニストだ。

そしてラストのタイトルチューン、「Crystals」が流れてきた。
全編をゆっくり振り返るような心休まるソロ・ピアノが続く。
本当に透き通るような調べである。
なんと消えていく最後の一音まで美しい。
こんなピアノを間近で聴いてみたい、とつくづく感じてしまった。

これは琴線に触れる素敵なピアノトリオをお捜しの方に大推薦できるアルバムである。
こういう優れた作品が出るから、新しいジャズも目が離せないのである。


SONNY STITT 「The Pen Of Quincy Jones」

2010年01月15日 | Alto Saxophone

これはいったいどちらの作品なんだろうか。
額面通りソニー・スティットの作品として受け取ればいいか、はたまたクインシー・ジョーンズの作品として捉えればいいか迷ってしまう。
というのも、このルースト盤、何となくクインシー・ジョーンズ率いるオーケストラに、ソニー・スティットがゲストでやってきたような感覚の作品に仕上がっているのだ。
だからソニー・スティットもどこかよそよそしい感じを受ける。
作品の出来が悪いといっているわけではない。
これは多くの人が彼の最高傑作として位置づけている作品だし、内容的には私も見事なものだと思っている。
でも聴く度にやっぱり、彼ってこんなにコントロールの効いた演奏をする人だったっけ、と思ってしまう。
もともと彼は自由奔放にサックスを吹き鳴らす人だ。
それがいきなり「My Funny Valentine」のような美しいスローバラードで攻めてくるから戸惑ってしまうのだ。
しかもその構成が微妙なのである。
アドリヴは相変わらずの切れ味なのだが、メロディとの対比がこんなにくっきり出ていいものだろうか。
スティットはもっと自由なアドリヴを吹きたい。それに引き替えクインシーはメロディを美しく吹いてもらいたい。そんな二人のせめぎ合いが見てとれる。
それがこのアルバム一番の聴きどころなのかもしれない。

ソニー・スティットといえば、いつでも引き合いに出されるのがチャーリー・パーカーだ。
同時代の同じアルト奏者だというだけで、彼はいつもパーカーと比べられてきた。
事実、彼もそれがいやで一時期はテナーしか吹かなかった時期があった。
しかしこのアルバムを聴いて感じるのは、やっぱり彼はアルトの人だということだ。
軽快なアルトを吹いているときの方が彼らしさを感じる。

この作品が吹き込まれたのが1955年。
奇しくもチャーリー・パーカーが亡くなった年である。
彼はそれをきっかけにしたかどうかはわからないが、テナーからまたアルトに持ち替えてこのアルバムを録音した。
ひょっとしたらそれがクインシーの希望でもあったのかもしれない。
クインシーはこの作品を通じて、スティット本来の魅力を取り戻すと共に、新たな側面を生み出そうとしたのだろう。
結果的にソニー・スティットのバラードはこの盤で決まり、となった。

ANTHONY WILSON 「Adult Themes」

2010年01月10日 | Guiter

寒い季節になると聴きたくなる人がいる。
ダイアナ・クラールもその一人だ。
彼女のピアノの弾き語りによるバラードは、じわっと心に響いてくる。
そうしたサウンドを生み出している要因の一つとして、バックにギターを効果的に絡ませていることが挙げられる。
彼女が起用する主なギタリストは、ラッセル・マローンであり、このアンソニー・ウィルソンだ(もちろん旦那のエルビス・コステロは別)。
私はこの二人の大ファンであるが、タイプはちょっと違う。
ラッセル・マローンはどちらかというと短音フレーズを多用するのに比べて、アンソニー・ウィルソンはウェス・モンゴメリーが得意としたオクターブ奏法を中心とした弾き方をする。
だからラッセル・マローンは明確なソロパートで最大限の効果を上げるのに対し、アンソニー・ウィルソンの場合はバッキングのうまさが光るという感じではないだろうか。

この「Adult Themes」は、そんな彼の資質がよく表現されたアルバムである。
全体的にアレンジを重視していて、前に前に出ようとするギタリストとは正反対に、奥へ奥へと入りこむ姿勢が実にスマートであり、品格を感じるのである。
アルバムタイトルにもあるように、これこそ大人の音楽である。
それは選曲にも如実に表れており、トラディショナルな「Danny Boy」をうまく配置するなど、実に味わい深い内容になっている。
この「Danny Boy」では、バリトンサックスが主役になっていて、彼の弾くギターソロの部分は意外と短い。
要するに彼はギタリストとしての才能よりも、アレンジャーとしての手腕を評価してもらいたいのではないだろうか。

ラストは「Adult Themes」という組曲になっており、5つの曲がゴージャスな雰囲気で並んでいる。
このへんの構成は現代版マーティ・ペイチここにあり、といった感じだ。
私はこのアルバムが気に入って、彼のCDを何枚か買い込んだ。
ダイアナ・クラールが彼のアルバムにもゲストとして参加しているものがある。
出来はやっぱり、いい。
ぜひこの2人が組んだステージを生で見てみたいものだ。

ERIC LE LANN 「Eric Le Lann」

2010年01月05日 | Trumpet/Cornett

まだ新譜といってもいい作品だろう。
エリック・ル・ランの通算13枚目になる快作である。
この人のことを知ったのは最近のことだ。「Le Lann-Top」という前作を聴いて興味を持った。
きっかけは、ジルフェマのリオーネル・ルエケ(g)がゲストで出ていたので聴いてみたのだが、何といっても全編に渡って冴え渡るトランペットと重いベースのコンビネーションが見事だった。
それもそのはず、「Le Lann-Top」では、プログレッシヴロック界からMAGMAのヤニック・トップ(b)を連れてきて、ハードなジャズロックを演奏してみせたのだから驚きだ。
こんな風にエリック・ル・ランという人は、かなり型破りで挑戦的な人と見た。
だから今回もそんな路線かなと思いきや、13作目は実にストレート・アヘッドなジャズアルバムに仕上げてきた。
ある意味、これも新鮮な驚きだった。
これで間違いなくファン層も広がったのではないかと思っている。

とにかく1曲目の出だしからしてル・ランの繰り出す音に酔いしれた。
彼の吹くペットは、クールで切なく、夜の静寂に谺するようだ。
バック陣も超がつくほどの豪華版である。
ピアノは売れっ子のデヴィッド・キコスキー、ベースは最近ケヴィン・ヘイズの作品にも登場していたダグ・ウェイス、そしてドラムスは泣く子も黙る御大アル・フォスターだ。
特にアル・フォスターがスピーカーの中央に陣取って、全体をコントロールしながら的確なリズムと効果的なアクセントを叩き出しているのには頭が下がる。正に見本のようなドラムである。
キコスキーのピアノもキレがいいし、ウェイスも跳ねるようなベースを弾き出している。そこにふわりとル・ランのトランペットが被さっている感じだ。
こういう安定感のあるバックがつくと、それだけでアルバムのグレードがグッと上がる。
しかもこれは純粋なワンホーンアルバムだから、トランペット好きなら迷わず手に入れたい作品といえる。

今ちょうど7曲目の「Herve in Black and Blue」がかかっている。
時間は夜の10時である。
ちょっとだけボリュームをおさえてみた。
アル・フォスターの叩くシンバル音が心地いい。
こんな真冬の夜に似合った音の響き方だ。

BOB GORDON 「MEET MR.GORDON」

2010年01月01日 | Baritone & Soprano Saxophone

元旦早々、軽快なバリトンで楽しんでいる。
重低音が命のバリトンサックスから真っ青な空と海を感じることも少ないとは思うのだが、ボブ・ゴードンは別だ。
この明るさはジェリー・マリガンにも通じていて、ウエストコーストジャズの一番おいしい部分を匂わせる。
但しボブ・ゴードンのリーダーアルバムはこれ一枚しかない。
これは、天からわずか2年という短い活動時間しか与えられず、交通事故で27歳の生涯を閉じた若者の貴重な記録でもあるのだ。

1950年代のアメリカ西海岸といえば、リーゼントにレイバンのサングラスをかけて、派手なコンバーチブルを乗り回す若者が集まるイメージだ。
いわば日本人が一番憧れたアメリカの姿である。
かかっている音楽といえば、ロカビリーか極々初期のサーフミュージック、そしてウエストコーストジャズだったろう。
当時のウエストコーストジャズを演っていた面々も、みんなイケメンだった。
チェット・ベイカーやアート・ペッパー、ラス・フリーマンなどなど、みんな才能にも溢れた人たちで、ジェリー・マリガンに至っては何種類ものホーンを自在に操り、ピアノも上手かった。
おそらくボブ・ゴードンも、そんな仲間に囲まれて青春を謳歌していた一人ではないかと思う(見た目はちょっと野暮ったいが....)。
このアルバムからはそんな彼の意気揚々とした青春の喜びが十二分に伝わってくる。
音そのものに若さが感じられるといった方がいいかもしれない。

その若さを感じる源は何といっても曲のテンポにある。
何も考えずに自然と身体が反応するリズムだ。
これを単調だという人もいるだろうが、実はここがウエストコーストジャズの生命線なのである。
こんな風に一見単調で平凡そうな作品を愛してこそ、本物のジャズファンといいたいところだ。

ま、とにかく今年もこんな調子でがんばります。