SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

Scott Hamilton & Harry Allen 「Heavy Juice」

2011年07月22日 | Tenor Saxophone

これはここ数年の愛聴盤である。
気分がいい時はよくこのCDをかけて身体を揺らしている。
その魅力をズバリ一言でいえば「グルーヴ感」。つまりノリが半端なくいいってことだ。
この楽しさはズート・シムズ&アル・コーンのそれと共通している。
但しズート&アルは、同じテナーを吹いていても音色がまるで違うのですぐにどちらが演奏しているのかがわかるが、このスコット・ハミルトン&ハリー・アレンは二人ともほとんど同じような音色なので、今はどちらが吹いているかなどはじっくり聴いていないとわからない。
どうしても聞き分けたいという人は、ややスローテンポの「If I Should Lose You」あたりを聴くといい。微妙にかすれ具合が違っていて、それを発見できただけでも楽しくなってくる。

この二人、どちらかというとズートに似た太くて丸く澄んだ音を出している。私はまずもってこの音色が好きだ。
いいテナー奏者であるかどうかは、いいフレーズをよどみなく吹くかどうかといったことも重要だが、一番は奏でる音色そのものに魅力があるかどうかだと思っている。
事実、テナー奏者の代表格であるソニー・ロリンズは50年代の音色が最高だった。それがなぜか60年代以降になると音に角が立ってきてしまい、私はそこに彼の魅力を感じなくなってしまった。
その点、変わらぬズート・シムズやこのスコット・ハミルトン、ハリー・アレンはいい。
彼らを古くさいスタイルだとかいう人もいるようだが、新しければ何でもいいというわけでもないだろう。

いずれにせよこのアルバムほど大音量で聴きたくなる盤はない。
ジャズはグルーヴ感がいかに大切な要素であるかをこのアルバムは教えてくれる。
その名の通り、3曲目の「Groovin' High」のアンサンブルを聴けばわかる。
とにかくじっとなんかしていられなくなってしまうのだ。

EDDIE "LOCKJAW" DAVIS 「Cookbook, Vol.1」

2010年04月25日 | Tenor Saxophone

ここ数日、コテコテのジャズばかりを聴いている。
コテコテのジャズとは、ずばり猥雑さを感じるジャズであり、下町の強烈な匂いを感じるようなジャズである。
この反対語は、たぶん洗練されたジャズであり、爽やかなジャズである。おしゃれなジャズといってもいいかもしれない。
私も普段は後者の方を圧倒的に多く聴いている。
しかし、考えてみればコテコテのジャズこそ、直球ど真ん中のジャズともいえるのだ。
ここを聴かずして何が本当のジャズファンか、とも思う。

私にとって今回のこのコテコテジャズ・リバイバルは、2~3年のブランクを経て訪れた。
久しぶりに棚から引っ張り出したジャック・マクダフの「The Honeydripper」がそのきっかけだった。
彼の弾くファンキーなオルガンジャズを大音量で聴いたら、熱い血潮が蘇ってきた。
「お~、これだ~~」と一人で感激。
しかもこのアルバムは、グラント・グリーンやジミー・フォレストなど、コテコテメンバー総出演といった感じだから一度火がつくと始末が悪い。もうどうにでもなれ、という心境になるのである。
とにかくどこを切り取ってもねちっこく黒いのがジャック・マクダフである。

で、その勢いを借りて聴いたのがこのエディ・"ロックジョー"・デイヴィスの「Cookbook, Vol.1」だ。
これも今まで持っていたイメージとは違っていた。
いつもの彼ならジミー・フォレストに負けないくらい下品なはずなのだが、ここでの彼はいつもよりコントロールが効いている。
ジェローム・リチャードソンとの掛け合いに緊張感があるからかもしれない。
むしろ熱いのは相棒のシャーリー・スコットである。
彼女はまるでこのアルバムの主役のように振る舞っている。
しかし彼女のオルガンがうるさく感じられないのは、彼女の持つスピード感と暖かみのあるフレーズが起因しているからだろう。
女性だということも関係しているような気がする。
「In The Kitchen」における最初の長いソロパートは、ブルージーでありながらその盛り上げ方に拍手を贈りたくなる。
また「Avalon」の出だしのワンフレーズもキレがあって好きだ。

そんなわけでこのアルバム、めずらしく何度も聴き直した。
こういうアルバムには、まったくドラッグのような中毒性がある。
そんな危険性が、コテコテジャズの真骨頂なのだ。


ZOOT SIMS 「That Old Feeling」

2010年03月17日 | Tenor Saxophone

一昨日、仕事で山形市に行った。
山形市には年に3~4回は行くのだが、いつもはとんぼ返りをしているためにゆっくりした時間を持てなかった。
しかし一昨日は違った。
仕事を終え、夕食を済ませ、軽く一杯引っかけてから、名の通ったジャズ喫茶「オクテット」に入った。
ドアを開けると、客が3人カウンターに座っていたが、肝心のマスターがいない。
するとその客の一人であるすらりとした若い女性が、おもむろに席を立ってカウンターの中に入り、グラスに水を注いで「はい、どうぞ」と差し出してくれた。
聞けば、「マスターは今ちょっと出ているけど、5分もしたら戻るはず。注文はもうちょっと待っててね」とのこと。
どうやら彼女はこの店の常連らしい。その手慣れた雰囲気に、こちらの緊張も一気にほぐされた。

しばらくするとマスターが帰ってきた。
私を見つけると、「あれ、いらっしゃい」と山形弁でにこやかに声をかけてくれた。
噂には聞いていたが、実に気さくな方である。
私はビールを頼んで、見覚えのないCDのジャケットを見ながら、かかっていた曲を聴いていた。
するとマスターはカウンター越しにそれを見ていたのか、「ジャズ喫茶は古いのばっかりかけてっとこが多いども、うちは新譜もどんどんかけてっから」と、最近入荷したばかりのCDを何枚かみせてくれた。どれも知らないものばかりだった。
常に新しいものを取り入れることで、新陳代謝を図っているのだろう。
これが1971年にオープンしたという老舗ジャズ喫茶のこだわりである。

その後マスターは、ズート・シムズの「That Old Feeling」を手に取り、ターンテーブルに乗せた。
店内の空気が一気にスイングしながら循環し始めた。
この軽快さがズートの持ち味である。他の誰よりも揺れに揺れる。

「でもやっぱりズートが好きなんですね」というと、
「んだな」とニッコリ笑ってご満悦の表情を見せた。
「ズートもいろんなズートがいるけんど、そん時の気分で取っ替えるのさ。だからどのレコードもみーんな好きなんだべ」とのこと。
うまく伝えられないが、その一言に重みがあった。年季が入っているとはこのことだ。
ジャズ喫茶はかくあるべきである。
ついでに、こんな店のある山形市もすてきな街だと思う。



WARNE MARSH 「WARNE MARSH」

2010年01月23日 | Tenor Saxophone

以前はウォーン・マーシュといってもピンと来なかった。
名前はリー・コニッツとのデュエット作品が好きだったので知っていたが、これといった特徴を掴むまでには至らなかったのだ。
知っていることといえば、せいぜいレニー・トリスターノの門下生であり、クールなテナーを吹く人、程度の認識である。
しかしいつだったか、評論家の一人が熱く「ウォーン・マーシュこそ、最高の白人テナーマンだ」と書いていた記事を読み、「ほ~、そんなにすごい人なのか、じゃあ、もっと真剣に聴いてやろう」と意気込んでこの作品を購入したのを覚えている。
購入の動機としてはちょっと情けないものがあるが、やっぱり知らないでいると損をするような気がしたのも事実なのだ。

つい最近も、ジャズ批評という雑誌で「白人テナーサックス奏者」の特集をやっており、以前このブログにもコメントを寄せてくれたマシュマロレコードの上不さんが、「こんなにすごい人なのに、日本ではあまり人気がないのが残念だ」と対談の中で仰っていた。
そういえばマシュマロ(MARSHMALLOW)というレーベル名も、このウォーン・マーシュの名演から取られたと聞いた。
リー・コニッツの「Subconscious-Lee」にも入っていたあの目眩く曲だ。ウォーン・マーシュのオリジナルでもある。
おそらく上不さんもこの頃の彼が一番好きなのではないだろうか。
彼の作品には共通していえることだと思うのだが、彼はあまり客の方を向いていないというか、自分の世界を大事にした作品の作り方をする。いわば芸術家肌の人なのだ。
彼の作品がイマイチ脚光を浴びないのは、そうした側面があるからだと思う。

さて話はこのアルバムに戻す。
これは57~58年の録音だ。
このアルバムで一番印象に残ることは何かと聞かれたら、強靱なベースと中音域を中心としたテナーとの掛け合いである。
これはかなりスピリチュアルな雰囲気を持っている。
ピアノもあるにはあるが、2曲にしか参加していないので、全体を通じてほとんど印象に残らない。
ポール・モチアンとフィリー・ジョーのドラムスも的確だが、何といってもベースの存在が光っている作品なのだ。
ベースを弾くのは名手ポール・チェンバース。
やっぱり彼のベースワークにはキレと安定感がある。
2曲目の「Yardbird Suite」など、二人の生み出すグルーヴ感に唖然とする。
3回くらい続けて聴いたらやみつきになった。

JIMMY FORREST 「OUT OF THE FORREST」

2009年12月02日 | Tenor Saxophone

男気を感じるテナーだ。
このアルバムは、背中の辺りがぞくぞくしてくるブルージーなバラード「Bolo Blues」で始まる。
これはジミー・フォレスト、彼自身のオリジナル曲である。
彼のテナーは闇夜の中にくっきりと浮かぶ街灯のような存在だ。
孤独だが、どこか暖かい。安心感のある音だ。
所謂これがジャズの本道!といえるような図太さが、たまらない魅力を醸し出している。

2曲目「I Cried For You (Now It's Your Turn To Cry Over Me)」に入りアップテンポになるが、この曲はトミー・ポッター(b)とクラレンス・ジョンストン(ds)の繰り出すリズムに乗って、ジミー・フォレストも気持ちよくブロウしているのがわかる。
ジョー・ザビヌル(p)もなかなかの出来だ。

3曲目「I've Got A Right To Cry」でまたスローなバラードになる。
同じスローなバラードでも、6曲目(B面2曲目)に出てくる泣きの「Yesterdays」とはちょっと違う。
もっとドライな優しさが滲み出ている演奏だ。
私はこの3曲目の出だしの雰囲気が大好きで、ジャズが好きな友人が来るとよくかけていた。
大音量でこの曲さえかけていれば、私の部屋はいつでもジャズ喫茶に変身できた。

4曲目「This Can't Be Love」と5曲目(B面1曲目)「By The River Sainte Marie」は楽しい曲だ。
これぞエリントンにもベイシーにも愛された男の真骨頂である。
流れるようなテナーは、飛び跳ねるようなベースとドラムスの間を縫うように響き渡る。
7曲目(B面3曲目)「Crash Program」の疾走感もまた魅力だ。

そしてラストの「That's All」。何とも感動的なバラードだ。
すべてを終えた安らぎの時間が訪れる。
アルバムを通して聴いた満足感がじわっとこみ上げてくる。
これこそ男の優しさである。

数あるワンホーンの中から一枚を選べといわれれば、私はこの作品を差し出すかもしれない。
これは、そんな気にさせる愛すべきアルバムである。

J.R. MONTEROSE 「J.R. MONTEROSE」

2009年08月29日 | Tenor Saxophone

J.R.モンテローズは熱烈なファンを持つサックス奏者だ。
彼はちょっと歪んだテナーを豪快に吹く白人である。
だけど私は彼の良さが今ひとつよくわからない。私自身がまだまだだと思う。

このアルバムは、ブルーノートをコレクションしている時に手に入れた一枚である。
だから当時は中身の良さが十分わかった上で購入したわけではない。
ブルーノートの音、そのものが欲しかっただけなのだ。
以前はブルーノートを聴いてさえいれば、正統なジャズに浸っているという実感があった。
それはヨーロッパジャズのような透き通る音ではない。
むせかえるような狭い空間に押し込められた猥雑な音だった。
一言でいえばブルーノートは、最も「人間くさい」音の塊だったのだ。
これが多くのジャズファンを惹きつけた最大の魅力であり、貫禄であった。

このアルバムもそんな雰囲気がたっぷり味わえる。
何せ脇を固めているのが、当時ファンキーブームの主役であったホレス・シルバー(p)初め、アイラ・サリヴァン(tp)、ウィルバー・ウェア(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)という布陣だ。
ブンブン唸りを上げるウィルバー・ウェアのベース、全員を発憤させるフィリー・ジョーのドラミングが特にすばらしい。
J.R.モンテローズもこんな面々に囲まれて、初のリーダー作として記念すべき吹奏を行っている。
「ここは一発、俺なりに堂々と吹いてやろう」
彼のそんな意気込みが全編に渡って感じられるのだ。

但し、冒頭にも書いたが私は彼のサックスがよくわからない。
ソニー・ロリンズのようでもあれば、ハンク・モブレーのようでもある。
まだまだだね~、というベテランリスナーの声が聞こえてきそうだが、そのへんはご容赦願いたい。
ただはっきりしているのは、名盤揃いの1500番台にあって、最もブルーノートらしい一枚であることは確かだ。
でもブルーノートには、なぜこの1枚しか彼のリーダー作がないのだろうか。
だから余計にわからなくなるのだ。

SELDON POWELL 「Seldon Powell Plays」

2009年07月28日 | Tenor Saxophone

ビッグバンドは苦手、という人にこそ聴いてもらいたい作品だ。
私もその一人だったから、長いことビッグバンドの良さを知らないで過ごしてきた。
そんなある日、都内のジャズ喫茶に一人で行きコーヒーを飲んでいたら、このアルバムが流れてきた。客からのリクエストがあったのかもしれない。
それまではジョニー・グリフィンやブラウン~ローチなどのハードバップが大音量でかかっていたので、そのトーンの違いに思わず聴き入ってしまった。
特に「Love Is Just Around The Corner」の楽しさは格別だった。
青筋を立てて大激論を交わしていたところに、まぁまぁ、そんなに熱くならないで、とにこやかに割り込んできた爽やかな男のような感じなのだ。
飲んでいたコーヒーの味も急にまろやかになった気がした。

ここに収録されている「Why Was I Born」や「Someone To Watch Over Me」、「Autumn Nocturne」といったバラードもまたすばらしい。
このセルダン・パウエルという渋いテナーマンの真骨頂が、これらのゆったりとした曲に現れている。
何の衒いもなく、メロディの美しさを存分に歌い上げているのだ。
音色がどうだ、アドリヴがどうだ、などということには全く無縁な世界に彼はいる。
モダンジャズの世界で、こういう感覚を持てる人はそう多くないのではないだろうか。

このアルバムは、フレディ・グリーン(g)を初めとするベイシー楽団の強者共が脇を固めているせいで、小編成ながらビッグバンドの楽しさが味わえる。
いきなりビッグバンドを聴くのに抵抗のある人も、この作品辺りから聴けばすんなり入っていけるはずだ。
とにかく寛ぎの一枚である。
じーんと心に染み渡るテナーに酔いしれてほしい。


GRANT STEWART 「Shadow of Your Smile」

2009年05月13日 | Tenor Saxophone

テナーの音がやたらと太い。
エリック・アレキサンダーも太いが、このグラント・スチュアートはもう一回り太い感じがする。
実はこのCDを聴く前に、ティナ・ブルックスを聴いていたのだが、彼と比べたら確実に10倍は太い。
太けりゃ何でもいい訳ではないが、やっぱりこれがテナーという楽器が持つ本来のポテンシャルなのではないかと思うのだ。
そのテナーの魅力を存分に発揮して成功したのがソニー・ロリンズである。
50年代の彼は直感的なアドリヴのすばらしさと、その太い音色で一世を風靡した。
私はサックスなど吹いたことがないが、シロウトの私にもこういった音は誰でも出せるものではないことくらいは知っている。
「ロリンズみたいに吹きたい」と思っても、出てくる音は実に頼りない。世の中にはそんな風に感じているジャズプレイヤーがどれだけいるだろうか。
実際、ロリンズも血のにじむような練習をした結果、あの豪快なブローが可能になったと聞く。
おそらくグラント・スチュアートもそうに違いない。
でなければ、こんな豊かな音にはならないだろう。

グラント・スチュアートは1971年生まれだから、現在30代後半である。
ロリンズの30代後半は過渡期だった。
時代は60年代も半ばを過ぎ、コルトレーンやエレクトリック楽器に押されて、自分を見失っていた時期である。
私もこれ以降のロリンズはほとんど聴かない(何枚かの例外はあるものの)。
何がそうさせるかというと、第一に若い頃の太くてたくましい音が聞けなくなってしまったからだ。
これは年齢によるものか、楽器そのものの変化によるものか、はたまたロリンズ自身の志向が変わったせいかはわからない。
ただ彼特有の魅力が半減したことだけは確かである。
そういった意味においてもグラント・スチュアートはこれからが大事である。
枯れていくならそれもいいが、ロリンズの二の舞にだけはならないよう祈っている。


BOB COOPER 「Coop!」

2009年05月09日 | Tenor Saxophone

いわゆるB級盤といわれる類のものだ。
でもこういうレコードをかけている時が一番調子のいい自分であることに気づく。
気分がよくなければこのレコードにはたぶん手が伸びない。なぜかなんて野暮なことは聞かないでほしい。ウエストコースト・ジャズは文句なしにおしゃれでハッピーなのだ。

このボブ・クーパーのレコードを聴くといつも思い出す場所がある。
20年以上前の話だが、友人と行ったある港町のジャズクラブだ。
通りを歩いていたらライヴハウスのネオンサインが目に入ったので、衝動的にその店に入ることにした。
狭いレンガの階段を下りていきドアを開けると背の高い案内人が立っていて、いきなり「誰が好きか」と聞かれた。
思わず「は?」と聞き返すと、
「ジャズプレイヤーだよ」とそっけない返事。
咄嗟に「アート・ペッパー」と答えたら、彼は初めてニッコリ笑って「OK!」と肩を叩かれ、半分意味がわからぬまま席に連れて行かれた。
席に座って初めてわかったのだが、この店はどうやらウエストコースト・ジャズの店らしかった。
思い浮かんだ人がマイルスやコルトレーンでなかったのが幸いした。

私たちはステージから10mくらい離れた壁際の席にいた。その壁には様々なウエストコースト・ジャズのレコードが飾られていたのだが、その中の一枚にこの「Coop!」があった。私にとっては初めての出会いだった。印象的なジャケットだからすぐに目についたのだと思う。
私たちはビールを注文して開演を待った。
やがて若い白人のジャズメンたちが折り目正しいスーツ姿で登場。
メンバー構成は、テナー、トロンボーン、ヴァイヴ、そしてピアノ、ベース、ドラムスだった。奇しくもこの「Coop!」とほぼ同じ編成だ。
演奏は悦に入ったものだった。
彼らの名前などは全く覚えてはいないが、50年代のウエストコーストにタイムスリップしたような感覚になって大満足だった。
おそらく当時もこんなシーンはあちこちであっただろう。
ジェリー・マリガンやチェット・ベイカー、バド・シャンクといった粋な人たちが、その時代を謳歌したのである。

私は数日後、この「Coop!」をレコード店で手に入れた。嬉しかった。
あの時からウエストコースト・ジャズのファンになったのはいうまでもない。

ILLINOIS JACQUET 「BOSSES OF THE BALLAD」

2009年04月01日 | Tenor Saxophone

以前はストリングスものが嫌いだった。
何かオブラートにでも包まれた感じのムード音楽になってしまうのが嫌だったのだ。
私にとってジャズは、もっとひりひりしたものでなくてはいけなかった。
男らしくて、汗臭くて、どこかに緊張感がなければ聴く気がしなかった。
しかし今は違う。ストリングスものを好んで聴くようになった。
ストリングスものでパッと思いつくのが、まずチャーリー・パーカーやクリフォード・ブラウンのウィズ・ストリングス。
最近ならスコット・ハミルトンのウィズ・ストリングスなんかが大のお気に入りだ。
そしてこのアルバム、テキサステナーで有名なイリノイ・ジャケーの「ボス・オブ・ザ・バラード」も忘れられない。

イリノイ・ジャケーは1922年生まれだから、このアルバムが吹き込まれた64年は既に42歳だったということになる。
円熟味を増した男の、何ともいえない優しさがたっぷり味わえる名作である。
取り上げている曲は全てコール・ポーターの曲だ。
しかもアレンジはベニー・ゴルソンとトム・マッキントッシュが行っていて、それだけでも充分興味をそそる。
この二人のアレンジは微妙に曲の雰囲気を変えているのがわかる。
トム・マッキントッシュのアレンジにはそつがないのだが、私はやっぱりベニー・ゴルソンの方に変則的な新鮮さを感じる。
出だしの曲はそのベニー・ゴルソンのアレンジによる「 I Love You」。ストリングスによるいきなりの甘さで戸惑う人も多いかもしれないが、聴けば聴くほどやみつきになっていくから、この甘さはますます怪しい果実のようだ。

10曲目に「It's All Right With Me」が入っている。
これもベニー・ゴルソンの編曲だ。
曲名だけを聞いて、すぐ「あ~、あの曲ね」といえる人は通だが、一度聴けば、ジャズをかじった人なら何度も聴いたメロディだということがすぐにわかるほどの名曲だ。
でもこの曲がこんなロマンティックな曲だったかと疑いたくなるくらい違う曲に聞こえる。
それが「 I Concentrate On You」なら話はわかる。もともとのメロディが甘いからだ。
ストリングスはこれだから怖い。ただこれだから素敵なのだ。