SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

KEITH JARRETT & CHARLIE HADEN 「Jasmine」

2011年08月17日 | Piano/keyboard

キース・ジャレットはこの作品についてこう書いている。
「夜更けにあなたの妻や夫、あるいは恋人を電話で呼び出して、一緒に座って耳を傾けてほしい。これらは、曲のメッセージをできるだけそのままの形で伝えようとする偉大なラヴ・ソングだ。」
あれ?キースってこんなセンチなことを言う人だったっけ??というのが私の最初の印象。
彼に向かって「どうしたの?」「何があったの?」と声をかけてやりたくなる。

アルバムを一通り聴いて気になったのは、意外なほどに印象の薄いチャーリー・ヘイデンの存在だ。
彼は多くのジャズメンとデュオを行っているが、いつも存在感に溢れていた。
聴く前はそんな彼のゴリゴリしたベースを私なりに期待していた部分もあったので、正直言ってちょっと拍子抜けした感じだった。
しかし今回は、ただそっとキースのピアノに寄り添って引き立て役に徹している。
ジャスミンの白い花がキースなら、そよぐ風がチャーリー・ヘイデンといったところだ。
そういえばキースのトレードマークである唸り声もあまり聞こえない。
きわめて静かで穏やかな演奏だ。

数年前に「The Molody at Night, With You」というソロ・アルバムが出されたが、この「Jasmine」は明らかにその系列にある。
要するに限りなくプライヴェートな作品なのである。
いい方は悪いが、ちょっと歳をとって弱気になったキースがここにいる。
そこに人間味があっていいのだ、という人もいるだろう。
事実、多くの人がこのアルバムを大絶賛している。
私もその気持ちはわかる。
しかし「The Molody at Night, With You」がそうだったように、あまり内面に向きすぎていて迸るような生気を感じないのだ。

この「Jasmine」を聴いた後に、たまたま手元にあった「Paris Concert」を聴き比べてみた。
コンサートホールと自宅スタジオという録音環境の違いもあるが、「Paris Concert」からは何よりキースの並外れた創造力を感じた。
キースはやっぱりこうであってほしいと思う。




JEROME RICHARDSON 「Roamin' With Richardson」

2011年08月13日 | Baritone & Soprano Saxophone

今年の夏は長い。
梅雨明けがやたらと早かったので、いつもの年の倍くらいの長さに感じる。
もともと夏は大好きな季節なのだが、このくらい暑い毎日が続くとさすがに参ってしまう。
でも元来天の邪鬼な性格なので、エアコンも夜はつけずほとんど扇風機で凌いでいる。
飲んでいるのも熱いお茶だ。ずずずっと啜りながら「ほ~」というため息をつく。こういうひととき、決して悪くない。
ついでに暑苦しいジャズを聴いてやろうという気になって取り出したのが、ジェローム・リチャードソンのローミンだ。
バリトンサックスの音はいかにも暑苦しいし、ジャケットも熱帯夜を絵にしたような暖色のダブルトーンだ。
今夜はこれでいく。

まず最初に飛び出すのがベースだ。
私はこれくらい自己主張の激しいゴリゴリしたベースを弾く人が好きだ。その名はジョージ・タッカー。
ホレス・パーランとの共演で通を唸らせた名ベーシストである。
このタッカーのことをデリカシーが足りないなどと散々なことをいう人がいるらしいが、このベースの楽しさを知らなけりゃ、ジャズを半分も楽しめないのではないかと思う。
とにかくジャズはベースが命と覚えておこう。
フニャフニャしたベースの下では、どんな名演も二級品化すること間違いなしだ。

ジェローム・リチャードソンという人はテナーも吹けばフルートも上手く吹く。
その点、彼はサヒブ・シハブにも通じるところがあるマルチリード奏者であるが、やっぱり本命はバリトンだ。
常に濁音を発するこの楽器を操るのは本当に難しいことなのではないかと思う。
しかしアップテンポの「Up At Teddy'S Hill」から一転して、「Warm Valley」のバラッドプレイに移行するあたりの流れは絶妙だ。
バリトン・サックスはこういう風に吹くんだ、とばかり自信に溢れている。
リチャード・ワイアンズが弾くピアノも控え目ながらいい味を出していることにも注目したい。

ただこのアルバムの中で一番好きな曲はと聞かれれば、ラストの「Candied Sweets」だと答えるかもしれない。
この曲でジェローム・リチャードソンはテナーを吹いているが、彼よりも気になる存在がドラムのチャーリー・パーシップである。
彼がスネアをスコーン!と叩くリムショットが実に快感だ。
要するにこのアルバム、全員がそれぞれの持ち味を存分に出し切っている類い希な作品なのである。

さて、お茶がなくなった。
継ぎ足しにいくので今夜はこれでおしまい。

小曽根 真「Live & Let Live - Love For Japan」

2011年08月07日 | Piano/keyboard

3月11日、午後2時46分。
私は釜石市の中心部に位置するビルの8階にいた。
突然轟音と共にすさまじい揺れが起きた。しかもその揺れはとてつもなく長く、このままではこのビルが崩壊するのも時間の問題だと思っていたが、いかんせん身体を動かせるような状態ではなかった。
必死になってiPhoneを取り出し周囲の写真を撮った。揺れはまだ収まらなかった。周りのみんなもテーブルにしがみついたままの状態だ。

しばらくすると揺れはようやく収まった。
私は市内の状況を見るために窓に駆け寄ったが、あれだけの大きな地震が起きたにも関わらず崩れているような建物も見当たらない。
正直言って安心した。なんだ、思ったよりも大したことなかったんだ、と感じた。
とにかく一刻も早くこの建物から外に出たかった。周りのみんなも同じ気持ちだったと思う。
全員が階段で1階まで駆け下り外に出た瞬間、今度は大津波警報のけたたましいサイレンが鳴った。
幸いにしてこのビルのすぐ近くに高台の公園があり、私たちは大津波の脅威というものを半信半疑で捉えながらもその高台に登った。
その中には保育園の園児たちや病院の患者さんたち、近くの工場の従業員たちなど大勢の市民がいた。

その高台からは海がよく見えた。
5分ごとに起きる大きな余震に怯えながらしばらくすると、その海面が大きく膨張してくるのがわかった。
やがて白波のラインがスーパー堤防を飲み込み、釜石の市内に到達した。
瓦礫がぶつかり合う音、車が横転する音、など例えようのない恐怖の音が街に響いた。
街の中を見下ろすと、まだ消防士の方々や一般の市民が何人も道路上にいた。
中には横断歩道を反対方向に渡ろうとするおばあさんの姿も見えた。
私たちは高台から必死になって叫んだ。「早く!早く!そっちじゃない!高台に逃げるんだ!、津波はすぐそこなんだぞ!!」
でもそんな声は全く届かない....。

ここから先は皆さんも報道などで充分ご存じのことだろう。
呆然とただ見つめる人、思わず泣き崩れる人などで高台の公園は異様な雰囲気に包まれていた。

話は今日、8月7日に戻る。
先日、この小曽根真のCDをショップで買った。
この収益金は全額震災復興支援ファンドに寄付されるのだという。
全曲推薦できるが、ラストの神野三鈴が歌う「ふるさと」を聴いて涙が溢れてきた。
ぜひ多くの方に聴いていただきたいと願っている。

MAL WALDRON 「LEFT ALONE」

2011年07月30日 | Piano/keyboard

私がジャズを聴き始めたのは1975~76年頃だったと思う。
最初はマイルスのカインド・オブ・ブルー、ロリンズのサキソフォン・コロッサス、モンクのブリリアント・コーナーズなどの純然たるジャズを繰り返し聴いていた。
しかしその当時は、そうした4ビートのストレート・ジャズは何だか古くさいというイメージで捉えられていたように思う。
事実、そうしたジャズを人に聴かせてもウケが悪かった。
「なに、これ?」「これのどこがいいの?」と散々な目に遭ったこともしばしばで、それ以来、ジャズは一人で楽しむものという感覚が私の中で育っていった。

だいたい当時はクロスオーバー・ジャズ(後のフュージョン)がすごい勢いで台頭してきており、ウェイン・ショーター率いるウェザー・リポートや、チック・コリア率いるリターン・トゥ・フォーエバーなどが大暴れしていた頃だ。
そのほとんどがエレクトリックなサウンドで、ロックの連中も絶対かなわないほどの神業テクニックを誇っていたし、それがジャズの底力なんだとばかり、ジャズの本質からはかけ離れたにわかジャズファンも数多く誕生したのがこの頃でもある。
まぁ、私も実際よく聴いたし、その類のレコードもずいぶん集めた。コンサートにもよく行った。
しかし今のスムース・ジャズもそうだが、聴いていて気持ちがいいというメロディ中心のジャズからは人間的な情念を感じない。
もちろんそんなものを狙った音楽ではないのだろうから、そこに情念なるものを求めるのはおかしいわけだが、曲がりなりにもジャズと名がついている以上、私のような人間はちょっぴり期待してしまうのである。

そんな中で出会ったのが、このマル・ウォルドロンのレフト・アローンだ。
私はこのアルバムを知って、ストレートアヘッドなジャズの世界に舞い戻ってきたといっていい。

このアルバムはその情念の塊だ。
但し初めての人にはあんまり度が過ぎるので、ジャズはこんなに暗い音楽なのかと勘違いするかもしれない。
ただ暗いのと情念がこもっているという概念は全く違うものである。
ここをきちんと聴けるようになって初めて本当のジャズファンといえるのではないかと思っている。

このアルバムは、チョーがつくくらい有名な「Left Alone」が収録されているため、何だかその一曲のためだけにあるような盤として捉えてしまいがちだが、何度も聞いていると他の曲もなかなか聴きごたえがあることに気づく。
特に「Cat Walk」や「You Don't Know What Love Is」はすこぶるいい。何度でも聴き直したい気にさせる演奏だ。
これらの曲はまるでピアノとベースのデュオ作品のようにも聞こえる。
それだけベースのジュリアン・ユールの存在が大きいのだ。
「Left Alone」におけるジャッキー・マクリーンのアルトもさることながら、その重いベースの一音一音にもたっぷり情念がこもっている。
そこを聞き逃さないことだ。

Scott Hamilton & Harry Allen 「Heavy Juice」

2011年07月22日 | Tenor Saxophone

これはここ数年の愛聴盤である。
気分がいい時はよくこのCDをかけて身体を揺らしている。
その魅力をズバリ一言でいえば「グルーヴ感」。つまりノリが半端なくいいってことだ。
この楽しさはズート・シムズ&アル・コーンのそれと共通している。
但しズート&アルは、同じテナーを吹いていても音色がまるで違うのですぐにどちらが演奏しているのかがわかるが、このスコット・ハミルトン&ハリー・アレンは二人ともほとんど同じような音色なので、今はどちらが吹いているかなどはじっくり聴いていないとわからない。
どうしても聞き分けたいという人は、ややスローテンポの「If I Should Lose You」あたりを聴くといい。微妙にかすれ具合が違っていて、それを発見できただけでも楽しくなってくる。

この二人、どちらかというとズートに似た太くて丸く澄んだ音を出している。私はまずもってこの音色が好きだ。
いいテナー奏者であるかどうかは、いいフレーズをよどみなく吹くかどうかといったことも重要だが、一番は奏でる音色そのものに魅力があるかどうかだと思っている。
事実、テナー奏者の代表格であるソニー・ロリンズは50年代の音色が最高だった。それがなぜか60年代以降になると音に角が立ってきてしまい、私はそこに彼の魅力を感じなくなってしまった。
その点、変わらぬズート・シムズやこのスコット・ハミルトン、ハリー・アレンはいい。
彼らを古くさいスタイルだとかいう人もいるようだが、新しければ何でもいいというわけでもないだろう。

いずれにせよこのアルバムほど大音量で聴きたくなる盤はない。
ジャズはグルーヴ感がいかに大切な要素であるかをこのアルバムは教えてくれる。
その名の通り、3曲目の「Groovin' High」のアンサンブルを聴けばわかる。
とにかくじっとなんかしていられなくなってしまうのだ。