SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

TOMMASO STARACE 「Plays... Elliott Erwitt」

2010年04月19日 | Alto Saxophone

エリオット・アーウィットという人をご存じだろうか。
世界最高の写真家集団として有名な「マグナム・フォト」のメンバーでもある著名なカメラマンである。
もう既に80才を超えている巨匠だが、彼の写した写真はいつもフレッシュな若々しさに満ちている。
ユーモラスな雰囲気がその若さを支えている原動力だ。
このジャケットの写真も彼の作品である。
但し、この写真はトンマーソ・スタラーチェのアルバムのために撮られたものではなく、あくまでトンマーソ・スタラーチェがエリオット・アーウィットの写真からインスパイアされたアルバムを発表したということである。
私はこういう作品の作り方を面白いと思う。
視覚から得られたイメージを音楽で表現するなんて、なかなかいかしているじゃないかと思うのだ。
この作業って、音楽のイメージに合わせて写真を撮るよりもむずかしい作業なのではないだろうか。
でも出だしの「Keep Moving Please!」、2曲目の「Set Me Free」(どちらのタイトルも泣かせる)を聴いて、トンマーソ・スタラーチェという人の実力がわかった。
どちらも都会的かつ現代的な音づくりになっているが、古いジャズの持っているスイング感やグルーヴ感も失われていないところが気に入った。
特にアルトサックスの音色がいい。
思いのほか線が太いのである。
この安定感が、深いベースの音と相まって、全体をきりりと引き締める役目を果たしている。
彼のことを知らない人には、何となくフィル・ウッズに近い音だといった方が分かりがいいかもしれない。

写真と音楽の関係性もこじつけようと思えばいくらでも可能である。
例えば、6曲目の「Felix, Gladys And Rover」が流れると、このジャケットがいきなりとぼけた口調で話し出してくるような感覚に陥る。
なるほどね、と相づちを打ちながら聴いてしまう。
しかし、彼のプレイは決してむずかしいものではないし理屈っぽくもない。
そういう点でトンマーソ・スタラーチェとエリオット・アーウィットの資質は共通している。
二人とも繊細ではあるものの、どこか大衆的な人なのだ。きっと。

SONNY RED 「OUT OF THE BLUE」

2010年02月23日 | Alto Saxophone

こういう作品を愛するリスナーでありたいと思う。
ずらりと名盤が揃ったブルーノートの中にあって、地味ではあるものの寛ぎの一枚である。
まずタイトルがいい。
OUT OF THE BLUEとは、「突然に」とか「出し抜けに」といった意味であるが、ここは遊び感覚でソニー・レッドの名前に引っかけたのだろうと推測できる。
ジャケットも青と赤でシンプルかつ大胆に構成されており、このタイトルを意識していることが窺える。タイポグラフィを見てもそれとわかる。
ここで使われている赤と青の色相が微妙に好みとずれているため、必ずしも大好きなジャケットとはいえないが、印象的であることには違いない。一度見たら忘れられないデザインだ。トニー・ウィリアムスの「SPRING」を連想する人も多いだろう。この明快さがブルーノートの良さでもあるのだ。

この作品はソニー・レッドがブルーノートに残した唯一のリーダーアルバムであるが、ここでの演奏を聴く限り、なぜもっと多くの機会を与えられなかったのかが疑問として残る。
彼の吹奏は実に素直だ。
ジャッキー・マクリーンのように無理にねじ曲げたりしないところがいい。
だから音色が透き通っていて爽やかさを感じる。
ただこの当時はいいアルト奏者が大勢いたために、彼のこうしたクセのない吹き方は個性がないと思われたのかもしれない。
返す返すも残念だ。

いいといえば、ここでのリズムセクションも最高だ。
ウィントン・ケリー(p)、ポール・チェンバース(b)、ジミー・コブ(ds)といえば、当時のマイルス・クインテットのレギュラーメンバーである。3人とも正しく絶好調だ。
特にウィントン・ケリーがすばらしい。どの曲も彼のピアノが光っている。
ケリーに関しては、彼の最高傑作を「ブラックホークのマイルス・デイビス」やウェス・モンゴメリーとの競演作である「スモーキン・アット・ザ・ハーフノート」、或いは「ケリー・アット・ミッドナイト」だと捉える向きが一般的だが、私はそれには懐疑的である。
彼は前のめりに突っ込んだ演奏よりも、こうした和みの雰囲気の中で活きる人だと思うのだ。
この玉のように転がるケリー節を聴いたら、もうそれだけで幸せだ。
嫌なことなどきれいさっぱり忘れてしまう。

SONNY STITT 「The Pen Of Quincy Jones」

2010年01月15日 | Alto Saxophone

これはいったいどちらの作品なんだろうか。
額面通りソニー・スティットの作品として受け取ればいいか、はたまたクインシー・ジョーンズの作品として捉えればいいか迷ってしまう。
というのも、このルースト盤、何となくクインシー・ジョーンズ率いるオーケストラに、ソニー・スティットがゲストでやってきたような感覚の作品に仕上がっているのだ。
だからソニー・スティットもどこかよそよそしい感じを受ける。
作品の出来が悪いといっているわけではない。
これは多くの人が彼の最高傑作として位置づけている作品だし、内容的には私も見事なものだと思っている。
でも聴く度にやっぱり、彼ってこんなにコントロールの効いた演奏をする人だったっけ、と思ってしまう。
もともと彼は自由奔放にサックスを吹き鳴らす人だ。
それがいきなり「My Funny Valentine」のような美しいスローバラードで攻めてくるから戸惑ってしまうのだ。
しかもその構成が微妙なのである。
アドリヴは相変わらずの切れ味なのだが、メロディとの対比がこんなにくっきり出ていいものだろうか。
スティットはもっと自由なアドリヴを吹きたい。それに引き替えクインシーはメロディを美しく吹いてもらいたい。そんな二人のせめぎ合いが見てとれる。
それがこのアルバム一番の聴きどころなのかもしれない。

ソニー・スティットといえば、いつでも引き合いに出されるのがチャーリー・パーカーだ。
同時代の同じアルト奏者だというだけで、彼はいつもパーカーと比べられてきた。
事実、彼もそれがいやで一時期はテナーしか吹かなかった時期があった。
しかしこのアルバムを聴いて感じるのは、やっぱり彼はアルトの人だということだ。
軽快なアルトを吹いているときの方が彼らしさを感じる。

この作品が吹き込まれたのが1955年。
奇しくもチャーリー・パーカーが亡くなった年である。
彼はそれをきっかけにしたかどうかはわからないが、テナーからまたアルトに持ち替えてこのアルバムを録音した。
ひょっとしたらそれがクインシーの希望でもあったのかもしれない。
クインシーはこの作品を通じて、スティット本来の魅力を取り戻すと共に、新たな側面を生み出そうとしたのだろう。
結果的にソニー・スティットのバラードはこの盤で決まり、となった。

FRANCESCO CAFISO 「New York Lullaby」

2009年09月29日 | Alto Saxophone

一昨日まで京都にいた。
今回は仕事で出かけたのだが、せっかく行ったのだからと2日間余計に滞在し、観光客気分であちこちを見て回った。
日中はまるで真夏のように暑い日だったが、夕方になるとさすがに涼しくなるのが早かった。
日もとっぷり暮れた頃、先斗町辺りを徘徊し、川床のある一軒の店を選んで暖簾を潜った。
川床も季節的にはもうそろそろ終わりに近いのだが、こんな日は川風が実に気持ちよかった。この時期は虫もいないのでお薦めである。
私は2点盛のお造りと何種かのおばんざいを頼んだ。
もちろんお酒は京の地酒を冷酒でいただく。「古都銀明水」という酒だ。これがなかなか京料理と合うのである。
これ以上の贅沢はないなぁとか呟きつつ、至福の時を楽しんだ。

無理やりこじつけるわけではないが、こんな先斗町の雰囲気にはアルトサックスがよく似合う。
今回紹介するフランチェスコ・カフィーソなんかは最高だ。
1曲目の「ララバイ・オブ・バードランド」や2曲目の「リフレクションズ」をじっくり聴いてほしい。
テナーほど怪しいムードではないし、トランペットほどの浮かれた雰囲気もない。
ほどよい甘さと、年齢に似合わぬ大人の品格が出ている。
このしっとり感がこの鴨川界隈にマッチしているように感じるのだ。

そういえば狭い路地に林立する電飾の看板や、そこを行き交う人々にもどことなく優雅さが漂っている。
ここはやはり京都なのである。
世界遺産の神社仏閣を見てまわるのもいいが、この街の優雅さを味わうためだけにまた訪れるのも悪くない。
旅とはそういうものだ。

CHARLIE MARIANO「CHARLIE MARIANO」

2009年07月11日 | Alto Saxophone

「ベツレヘムのマリアーノ」の愛称で知られる傑作である。
この時のチャーリー・マリアーノは実にすばらしい。ワンホーンの魅力を目一杯振りまいている。
何よりもまず、アルトサックスの音色がいい。
曇ったところがなく、輪郭がくっきりと浮かび上がっている。まるですっきりと晴れ渡った青空のようだ。
私はこういう音色が好きだ。
アート・ペッパーも、この音色の良さで共通している部分があるから好きなのだ。
全体を通して、いかにもウエストコーストジャズらしい若々しさが感じられる。
50年代のジャズというだけで、何やら加齢臭の出かかったおじさんが聴く音楽というイメージを持っておられる若い方も多いと思うが、これを聴けばそうしたイメージも多少払拭されるのではないかと思っている。

このアルバムはジョン・ウィリアムス(p)が参加している点も大きな魅力だ。
マリアーノのアルトと比べたら録音がちょっと曇り気味ではあるが、こういう音が彼独特のスインギーなピアノタッチを余計に際立たせているようにも思う。
傑作の誉れ高いエマーシーのリーダー作もこういう音だった。
やはり優秀なジャズメンは人それぞれ、自分の音を持っているものである。

それはそうと、このチャーリー・マリアーノも先月(6月16日)、85歳で亡くなった。
仕方のないこととはいえ、輝かしい50年代に全盛期だった人たちが、次から次へと亡くなってしまうのは何とも寂しいものがある。
特にチャーリー・マリアーノは秋吉敏子や渡辺貞夫らを通じて、日本のジャズに多くの影響を与えた人だっただけに残念だ。
しかしこのアルバムがある限り、彼は永遠の若者として生き続けることができるのだ。
まったく素敵なことである。

LEE KONITZ with WARNE MARSH

2009年02月24日 | Alto Saxophone

まるでサックスでおしゃべりしているようだ。
よく同じ楽器同士が対話するという例えを聞くことがあるが、これはその典型的な作品である。
そういった意味において、私はこれ以上の作品を知らない。全く夢のようなアルバムだ。
リー・コニッツがアルトで話し出すと、それに合わせてウォーン・マーシュがテナーで相槌を打つ。ウォーン・マーシュが笑い出すと、つられてリー・コニッツも笑い出す、そんな喜びに満ちた掛け合いが最後まで続く。
その中でも極めつけなのが「Topsy」である。
出だしのコーラスを聴くだけで、誰でもやみつきになること請け合いだ。
トリスターノ派特有のクールなムードといい、白人どうしならではの淡泊さといい、こういう雰囲気はなかなか他では聴けない。
またこの二人の他にも際立っていいのがオスカー・ペティフォード(b)である。彼のベースは人によって好き嫌いがはっきりするが、私は彼のバウンドするような重いベースが辺りに緊張感をもたらし、全体を上手くコントロールしているように感じる。ややこもり気味な録音も、結果的に効果を上げる要因となっている。

またこのアルバム、ジャケットも見事である。
毎度毎度ジャケットのことをあーだこーだというのもどうかと思うが、これはウィリアム・クラクストン撮影による傑作である。
これほどまでに中身のイメージを写し出した例も少ない。
おそらくクラクストンは彼ら二人に密着して撮影を重ね、膨大な点数の中からこの一枚を選び出したのではないだろうか。
私はそういった撮り方がジャズには合っていると思う。
予めイメージをつくり出し、それをスタジオできっちりセッティングして撮影をかけるというスタイルよりも、ジャズメンの一瞬の表情を捉えることで人間性を引き出し、その音に被らせてゆくやり方が最もスマートだと感じるのだ。
ここに写っている二人の自然な表情をじっくりご覧いただきたい。
これが傑作でなくて何なのだ。

STEFANO DI BATTISTA 「'Round about Roma」

2009年01月09日 | Alto Saxophone

ある種のトリップ感覚に陥る作品だ。
舞台は崩れかかった中世の古城。
遠くから静かに響いてくるバイオリンの響き。そこに絶妙なタイミングでブラシが入り込んできて、ステファーノ・ディ・バチスタのアルトが歌い出す。そう、まさに歌い出すといった感じが適当だ。
彼のアルトは時にフルートのように響いたり、オーボエのようだったりする。
これを意識的にやっているのかどうかわからないが、このアルバムはその音色の変化を楽しむ作品なのだ。

ストリングスをバックにしたアルトといえば、チャーリー・パーカーの「With Strings」を思い出す。
「Just Friend」の出だしは何度聴いても痺れるが、このステファーノ・ディ・バチスタもやはりパーカーからの影響が大である。
実際彼も「Parker's Mood」というパーカーのカバーアルバムを出しており、一頃はインターネットラジオで頻繁にかかっていた。
私が彼の名を知ったのもそうした媒体を通じてである。
名前も印象的だった。
何やらサッカー選手のような雰囲気も漂うが、何より名前だけでイタリアそのものを感じることができた。まぁお得な人である。

さてそんなことはさておき、問題は4曲目の「Romeo and Juliet」である。
これはニーノ・ロータの名曲で、大ヒットした映画の主題曲であるが、良しにつけ悪しきにつけこの選曲がこの作品のハイライトである。
そのスケールの大きさ、メロディのわかりやすさ故に、一見、尻込みしてしまいそうではあるが、彼はこれを大まじめに演じて見せてくれる。この度胸の良さに拍手を贈りたい。
やっぱり彼は純粋なイタリア人なのだ。


渡辺貞夫 「PARKER’S MOOD」

2008年12月11日 | Alto Saxophone

日本のジャズメンの中では、最も知名度の高い人に違いない。
ナベサダのコンサートはもう何回も行った。
何時どこで観ても会場は満席だった。しかもその顔ぶれを見ると老若男女が揃っており偏りがない。
因みに今年79歳になった私の母親もこのナベサダのファンだった。
彼がテレビに出る度に、「この人は日本にジャズなんていう言葉がなかった頃からジャズをやっていた」というのが母の口癖。
「んなわけないだろ」といっても取り合ってくれない。
彼はそれくらい日本にジャズを根付かせた功労者でもあるわけだ。

このアルバムは、大ヒットした「カリフォルニア・シャワー」からしばらく続いたフュージョンアルバムの後に突如出されたライヴ版である。時は1985年。もちろん内容はストレートアヘッド。彼が最も尊敬するチャーリー・パーカーの曲をタイトルに持ってきたアルバムだ。
フュージョン作品をつくるのに飽きたのか、はたまた自分の原点に戻ろうとしたのかはわからないが、私にはとても新鮮に感じられた。
演奏はというと、何といっても2曲目の「Everything Happens To Me」に痺れまくった。
ジェームス・ウィリアムスが弾く静かなピアノソロによるイントロの後で、ための効いたアルトがメロディを奏でる瞬間の快感がたまらない。この強さでこんなにも情感たっぷりに歌える人はそうそういない。こういうところが「世界のナベサダ」といわれる所以かもしれない。

ナベサダは実に笑顔が素敵な人だ。シワの付き方?がいい。
あの笑顔には彼の知性と人柄が浮き出ている。
そういえば彼が吹くアルトサックスからも同様の感情が沸き起こることがある。聴いているとあの笑顔が浮かんでくる時があるのだ。
そんな時、改めて彼の偉大さを知るのである。




LENNY NIEHAUS 「Vol. 1“ The Quintets”」

2008年04月01日 | Alto Saxophone

西海岸には腕の立つアルト奏者が多かった。
アート・ペッパーを筆頭に、バド・シャンク、チャーリー・マリアーノ、ハーブ・ゲラーなど蒼々たる面々が控えている。このレニー・ニーハウスもその一人だ。
クリント・イーストウッドとは無二の親友で、「マディソン郡の橋」や「許されざる者」、「トゥルー・クライム」など彼の映画音楽のほとんどはこのレニー・ニーハウスが手がけている。
そう考えると私たちは彼の音楽を知らず知らずのうちに聴かされていることになる。
例えばチャーリー・パーカーの生涯を描いた映画「バード」で聴かれる曲の数々は、彼がイーストウッドと共に徹底した選曲をした結果であり、彼らのパーカーに寄せる思いが多分に含まれていることを知るべきなのだ。
このアルバムはそんなレニー・ニーハウスの若かりし日の演奏が克明に記録されている作品だ。

とにもかくにも音が西海岸の日差しを受けてきらめいている。
飛び跳ねるようなリズムと流れるようなフレーズを聴けば、ウェストコーストジャズファンならずとも嬉しくなるだろう。曲はもちろんアップテンポのものがお薦めだ。
メンバーも正に西海岸オールスターズである。
レニー・ニーハウス(as)の他、スチュ・ウィリアムソン(tb,tp)、ジャック・モンテローズ(ts)、ボブ・ゴードン(bs)、ハンプトン・ホーズ(p)、モンティ・バドウィグ(b)、レッド・ミッチェル(b)、シェリー・マン(ds)の所謂「顔」が揃っている。

人によってはこれを軽すぎると評する方もおられるだろう。それはそれで結構。
私は50年代当時のハリウッド青春映画を観るようにこの軽快な音を聴く。
ペッパーではなく、シャンクでもない。ここにいるのは紛れもなくもう一人の才能あるウエストコースターだ。

ORNETTE COLEMAN 「TOMORROW IS THE QUESTION」

2008年02月27日 | Alto Saxophone

このふてぶてしい面構えが好きだ。
やはりただ者ではない、と瞬間的に感じてしまう。
人間、いい顔であるかどうかはそうした「何か」を感じさせるかどうかで決まるのだと思う。

オーネット・コールマンといえばやっぱりフリージャズだ。
フリージャズとは原曲のメロディラインをほとんど消し去り、最初から終わりまで自由な即興演奏を続けるようなスタイルだ。そんな中でサックスやトランペットは金切り声を上げ、ピアノは打楽器になってしまうような激しい演奏が展開される。
私も一頃はこのフリージャズにのめり込んだ。
セシル・テイラーやアルバート・アイラー、この時期のコルトレーンもよく聴いた。
この時代はこういう音が似合っていたのだと思う。今の時代の感覚でいいか悪いかなどを判断するわけにはいかないのだ。
私も60年代は子どもだったので正直言ってその時代の人間とはいえない。ただ子どもは子どもなりに時代の匂いを感じていたことだけは確かである。
世の中は何か空しさや怒りといった歪んだ感情に満ちあふれていた。フリージャズはそれを見事に代弁していたのである。
つまりフリージャズは時代が創り出した音楽なのだ。

ここにご紹介するオーネット・コールマンの「TOMORROW IS THE QUESTION」には、彼が本格的なフリージャズを始める前の姿が記録されている。時代もまだ50年代だ。
彼のアルトサックスといい、ドン・チェリーのトランペットといい、実に「渇いた」演奏だ。
ジャズといえばどちらかというと湿った感覚の音に近いような気がするが、この作品の音からは砂埃が舞い上がるような感覚があって、やはりこれからただならぬことが起きることを予感させる。
そんな風に考えてみると彼の表情にも納得がいく。
彼の目にはやがてやってくる未来が見えていたのだと思う。