SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

VINCENZO DANISE 「Immaginando Un Trio, Vol.1」

2010年03月28日 | Piano/keyboard

とても評価の高い作品である。
いろいろなジャズファンが絶賛しているので買ってみた。
「ふぅ~ん、みんなはこんなピアノトリオが好きなんだ」というのが第一印象。
しかし何回か聴くにつれ、徐々に他の作品とは違う何かがあると感じるようになっていった。

このイタリアの若者(ヴィンセンツォ・デニスと読むらしい)の弾くピアノは緊張感たっぷりだ。
どこまでもシリアスで、奥に秘めた情念のような想いを感じるピアノトリオである。
これはじっくりと聞き込まないといけない。

私は仕事をしながらジャズを聴いていることが多い。
いや、聴いているというより、部屋にいつでもジャズが流れているといった方がいいかもしれない。
しかもかかっているのはピアノトリオが圧倒的に多い。
理由は簡単、思考の妨げにならないからだ。
つまり普段は別のことを考えながらジャズを聴いているというわけだ。
しかし、ジャズの聴き方としてこれがいいなどとは決して思っていない。
本当はスピーカーの真正面に陣取って腕組みをしながら目を閉じ、ボリュームを最大限に上げ、全身全霊を傾けて聴きたいと思っている。
スピーカーから発せられる音を身体全体で受け止めたいのである。
そうしないと演奏者の思いを受け止めることができないとも思っている。
しかし現実はそう思い通りにはいかない。
ついついいつもの体勢で聴いてしまう。何とも悲しい習性である。

このアルバムも純粋なピアノトリオだから、いつも通りに聞き流すこともできるのかもしれない。
しかし、何かが違う。
BGM的に聴くには内容が深すぎるのである。
これがかかっているとなぜか気になって仕事にならない。そんな作品なのだ。
ここがこのピアノトリオのすごいところである。
うまく表現できないが、一対一で向き合わないと許してくれないような力が働いている。
まるで美術館に並んだルネッサンスの名画のようだ。


PETER IND 「LOOKING OUT」

2010年03月23日 | Bass

昨日、大量にあるレコードの一部を処分した。
とはいっても処分したのはジャズのレコードではない。
以前聞いていたロックやソウルなどのレコードだ。
もう何年も聴いていないので棚の中で半ば骨董品化していて、相当カビ臭くなっていた。
それを端から確かめてみると、出てくる出てくる、懐かしさのオンパレードだ。
古いのはエルヴィスから、ストーンズ、クリーム、ツェッペリンなどなど、数えだしたら切りがないくらいである。
その一枚一枚に想い出が詰まってはいるものの、今となっては無用の長物である。
ここはすぱっと割り切って、仕分け作業を行う。
段ボール箱を脇に置いて、いらないものはこの中にボンボン投げ込んでいく。
トム・ウェイツもクラプトンも、EW&Fも、み~んな段ボールの中に消えていった。
その数200~300枚といったところ。
それでも棚のごく一部に空きができただけだった。
これが何ともむなしいのである。

こういったポピュラー系のレコードは処分してもほとんどが二束三文だ。
買ったときは一枚2000円~2500円程度はしたはずなのだが、売るとなれば一枚約10円が相場である。
何と悲しい運命なのだろう。
ロイ・ブキャナンが演じる「メシアが再び」の切ないメロディが頭をよぎる....。

それに比べジャズのレコードはかなり様子が違う。
オリジナル盤でなくとも、そこそこの値が付くのである。
それだけ需要があるということだ。
そういえば仕分け作業をしている最中に、ピーター・インドの「LOOKING OUT」がポピュラー系のレコードに混じって出てきた。
「おっ!やった~!」と、一人で感激する。
しばらく見ないと思ったら、こんなところにあったのだ。
もともとレア盤だが、いかにもレア盤らしい復活である。
これなんかはかなりの値段が付くアルバムではないかと思う。

早速聴いてみる。
バイオリンとギターとベースの弦がいろいろな風景をつくり出していく。
これを聴くと、ジャンルに囚われない世界が拡がっているのに気づかされるのである。
ジャズって、いったい何だ?
今さらながら、そんなことを考え込んだ。



ZOOT SIMS 「That Old Feeling」

2010年03月17日 | Tenor Saxophone

一昨日、仕事で山形市に行った。
山形市には年に3~4回は行くのだが、いつもはとんぼ返りをしているためにゆっくりした時間を持てなかった。
しかし一昨日は違った。
仕事を終え、夕食を済ませ、軽く一杯引っかけてから、名の通ったジャズ喫茶「オクテット」に入った。
ドアを開けると、客が3人カウンターに座っていたが、肝心のマスターがいない。
するとその客の一人であるすらりとした若い女性が、おもむろに席を立ってカウンターの中に入り、グラスに水を注いで「はい、どうぞ」と差し出してくれた。
聞けば、「マスターは今ちょっと出ているけど、5分もしたら戻るはず。注文はもうちょっと待っててね」とのこと。
どうやら彼女はこの店の常連らしい。その手慣れた雰囲気に、こちらの緊張も一気にほぐされた。

しばらくするとマスターが帰ってきた。
私を見つけると、「あれ、いらっしゃい」と山形弁でにこやかに声をかけてくれた。
噂には聞いていたが、実に気さくな方である。
私はビールを頼んで、見覚えのないCDのジャケットを見ながら、かかっていた曲を聴いていた。
するとマスターはカウンター越しにそれを見ていたのか、「ジャズ喫茶は古いのばっかりかけてっとこが多いども、うちは新譜もどんどんかけてっから」と、最近入荷したばかりのCDを何枚かみせてくれた。どれも知らないものばかりだった。
常に新しいものを取り入れることで、新陳代謝を図っているのだろう。
これが1971年にオープンしたという老舗ジャズ喫茶のこだわりである。

その後マスターは、ズート・シムズの「That Old Feeling」を手に取り、ターンテーブルに乗せた。
店内の空気が一気にスイングしながら循環し始めた。
この軽快さがズートの持ち味である。他の誰よりも揺れに揺れる。

「でもやっぱりズートが好きなんですね」というと、
「んだな」とニッコリ笑ってご満悦の表情を見せた。
「ズートもいろんなズートがいるけんど、そん時の気分で取っ替えるのさ。だからどのレコードもみーんな好きなんだべ」とのこと。
うまく伝えられないが、その一言に重みがあった。年季が入っているとはこのことだ。
ジャズ喫茶はかくあるべきである。
ついでに、こんな店のある山形市もすてきな街だと思う。



DON FAGERQUIST 「Eight By Eight」

2010年03月12日 | Trumpet/Cornett

やっぱりバラードが好きだ。
しかも夕陽に染まる海をバックに、こんなトランペットが響いていたらと思うと胸が熱くなる。
3曲目の「Smoke Gets in Your Eyes」や、7曲目の「Easy Living」のことである。
ドン・ファガーキストは、曲本来のメロディラインを崩さず、音色で勝負するタイプの人だ。
彼は一音一音噛みしめるように音を出す。
何といってもミュージシャンとしての彼のそういう姿勢が好きなのだ。
しかもマーティ・ペイチのアレンジによって、その傾向がより鮮明になっているからたまらない。
まだ聴いたことのない方は、見つけたら即お買い求めいただきたい。決して損はしないアルバムだと思う。

私はウエストコーストジャズに人一倍憧れがある。
ジャズそのものの魅力というより、フィフティーズという時代背景と、西海岸という舞台設定、そして若者たちの「白い青春」に惹かれるのだ。
ジョージ・ルーカスの作った「アメリカン・グラフィティ」は1962年の夏を描いていたが、それよりももう数年遡った時代である。
ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」が正にその時代の象徴だといえる。
ポピュラーなミュージックシーンでいえば、ビートルズが出現する前、エルヴィスの全盛期だ。
そういえばエルヴィスにもひと頃熱を上げたことがあった。
特に「Don’t Be Cruel」や「Teddy Bear」といった曲のノリが好きだった。
こうした曲を聴いていると、まるで波乗りをしているかのような浮遊感と高揚感でいっぱいになる楽しさを味わえた。
当時の若者が何を考え、どんな生活をしていたか、何となくそれが曲を通してわかるような気がしてくるのである。

私はウエストコーストジャズを聴いていても、こうしたエルヴィスに通じる何かを感じるのである。
その何かとは、粋がっては見るものの、音は寂しがり屋で、集団の中にいないとどうにも耐えられないといった若者たちの思いではないかと思っている。
私にとっては、このセンチメンタリズムがウエストコーストジャズ最大の魅力なのだ。
リーダーはもちろんアート・ペッパーやジェリー・マリガンだったろう。
少なくともドン・ファガーキストではない。
しかし彼もまた、間違いなく西海岸の集団の中にいた一人なのだ。
音だけ聴けば、素直でまじめな秀才タイプ。
このアルバムは、そんな秀才が唯一主役に抜擢された貴重な作品なのである。

MICHEL PETRUCCIANI 「MUSIC」

2010年03月05日 | Piano/keyboard

季節を感じたくて取り出すピアノトリオがある。
夏はニューヨークトリオの「過ぎし夏の想い出」、秋はユージン・マスロフの「オータム・イン・ニューイングランド」、冬はデューク・ジョーダンの「キス・オブ・スペイン」、そして春は何といってもミシェル・ペトルチアーニの「ミュージック」だ。
このアルバムは、私に春の喜びを伝えてくれる貴重な盤なのである。
スタートボタンを押して最初に聞こえてくる「Looking Up」の優しくも清々しいピアノ。
まるで春風が吹き抜けていく感じだ。
この曲はもう何度も何度も聴いているが、メロディラインの美しさ、アドリヴラインの優雅さに毎回心奪われる。
ペトルチアーニの良さは、何といってもそうした爽快感にあるのだと思う。

話は変わるが、3月に入ると何となくうきうきした気分になるのは私だけだろうか。
若い頃は夏を中心に一年が廻っていた。
照りつける太陽と紺碧の海が若さの象徴だった。
しかしその反面、春を楽しむということができなかった。
春は、単純に冬から夏に至るまでの通過点のような存在だった。
野に咲く花にも特段興味がなかったし、新年度の始まりにもさしたる感動がなかった。
しかし今は全く逆だ。
春が一年の中心なのである。
単純に歳をとっただけかもしれないが、空の青さにしても木々の芽吹きにしても、全て新しいのが春だと思えるようになってきた。
特に里山に顔を出した可憐な雪割草を観ていると本当に心が癒される。
こうした感情は他の季節からは得られない貴重なものだ。
だから私は春を感じに山へ登る。
春山はもう感動の連続である。
私にとって「Looking Up」は、そんな季節の主題歌なのだ。