SENTIMENTAL JAZZ DIARY

感傷的ジャズ日記 ~私のアルバムコレクションから~

MAL WALDRON 「LEFT ALONE」

2011年07月30日 | Piano/keyboard

私がジャズを聴き始めたのは1975~76年頃だったと思う。
最初はマイルスのカインド・オブ・ブルー、ロリンズのサキソフォン・コロッサス、モンクのブリリアント・コーナーズなどの純然たるジャズを繰り返し聴いていた。
しかしその当時は、そうした4ビートのストレート・ジャズは何だか古くさいというイメージで捉えられていたように思う。
事実、そうしたジャズを人に聴かせてもウケが悪かった。
「なに、これ?」「これのどこがいいの?」と散々な目に遭ったこともしばしばで、それ以来、ジャズは一人で楽しむものという感覚が私の中で育っていった。

だいたい当時はクロスオーバー・ジャズ(後のフュージョン)がすごい勢いで台頭してきており、ウェイン・ショーター率いるウェザー・リポートや、チック・コリア率いるリターン・トゥ・フォーエバーなどが大暴れしていた頃だ。
そのほとんどがエレクトリックなサウンドで、ロックの連中も絶対かなわないほどの神業テクニックを誇っていたし、それがジャズの底力なんだとばかり、ジャズの本質からはかけ離れたにわかジャズファンも数多く誕生したのがこの頃でもある。
まぁ、私も実際よく聴いたし、その類のレコードもずいぶん集めた。コンサートにもよく行った。
しかし今のスムース・ジャズもそうだが、聴いていて気持ちがいいというメロディ中心のジャズからは人間的な情念を感じない。
もちろんそんなものを狙った音楽ではないのだろうから、そこに情念なるものを求めるのはおかしいわけだが、曲がりなりにもジャズと名がついている以上、私のような人間はちょっぴり期待してしまうのである。

そんな中で出会ったのが、このマル・ウォルドロンのレフト・アローンだ。
私はこのアルバムを知って、ストレートアヘッドなジャズの世界に舞い戻ってきたといっていい。

このアルバムはその情念の塊だ。
但し初めての人にはあんまり度が過ぎるので、ジャズはこんなに暗い音楽なのかと勘違いするかもしれない。
ただ暗いのと情念がこもっているという概念は全く違うものである。
ここをきちんと聴けるようになって初めて本当のジャズファンといえるのではないかと思っている。

このアルバムは、チョーがつくくらい有名な「Left Alone」が収録されているため、何だかその一曲のためだけにあるような盤として捉えてしまいがちだが、何度も聞いていると他の曲もなかなか聴きごたえがあることに気づく。
特に「Cat Walk」や「You Don't Know What Love Is」はすこぶるいい。何度でも聴き直したい気にさせる演奏だ。
これらの曲はまるでピアノとベースのデュオ作品のようにも聞こえる。
それだけベースのジュリアン・ユールの存在が大きいのだ。
「Left Alone」におけるジャッキー・マクリーンのアルトもさることながら、その重いベースの一音一音にもたっぷり情念がこもっている。
そこを聞き逃さないことだ。

Scott Hamilton & Harry Allen 「Heavy Juice」

2011年07月22日 | Tenor Saxophone

これはここ数年の愛聴盤である。
気分がいい時はよくこのCDをかけて身体を揺らしている。
その魅力をズバリ一言でいえば「グルーヴ感」。つまりノリが半端なくいいってことだ。
この楽しさはズート・シムズ&アル・コーンのそれと共通している。
但しズート&アルは、同じテナーを吹いていても音色がまるで違うのですぐにどちらが演奏しているのかがわかるが、このスコット・ハミルトン&ハリー・アレンは二人ともほとんど同じような音色なので、今はどちらが吹いているかなどはじっくり聴いていないとわからない。
どうしても聞き分けたいという人は、ややスローテンポの「If I Should Lose You」あたりを聴くといい。微妙にかすれ具合が違っていて、それを発見できただけでも楽しくなってくる。

この二人、どちらかというとズートに似た太くて丸く澄んだ音を出している。私はまずもってこの音色が好きだ。
いいテナー奏者であるかどうかは、いいフレーズをよどみなく吹くかどうかといったことも重要だが、一番は奏でる音色そのものに魅力があるかどうかだと思っている。
事実、テナー奏者の代表格であるソニー・ロリンズは50年代の音色が最高だった。それがなぜか60年代以降になると音に角が立ってきてしまい、私はそこに彼の魅力を感じなくなってしまった。
その点、変わらぬズート・シムズやこのスコット・ハミルトン、ハリー・アレンはいい。
彼らを古くさいスタイルだとかいう人もいるようだが、新しければ何でもいいというわけでもないだろう。

いずれにせよこのアルバムほど大音量で聴きたくなる盤はない。
ジャズはグルーヴ感がいかに大切な要素であるかをこのアルバムは教えてくれる。
その名の通り、3曲目の「Groovin' High」のアンサンブルを聴けばわかる。
とにかくじっとなんかしていられなくなってしまうのだ。

Joao Gilberto 「Desde Que O Samba E Samba」

2011年07月16日 | Guiter
そっと耳をそばだてて聴く。
このジャケットもその聴き方を示唆しており見事な出来映えだ。
これはご存じボサノヴァを生み出した一人であるジョアン・ジルベルトの傑作である。

これをジャズといえるかどうかはわからない。
ボサノヴァはボサノヴァというジャンルであって(或いはサンバの一種であって)ジャズではないはずなのだが、かつてジャズテナーの名手スタン・ゲッツとこのジョアン・ジルベルトが組んで発表した「ゲッツ/ジルベルト」が大ヒットしたために、ボサノヴァはいつしかジャズの一種としても捉えられるようになった。
しかしこのアルバムはジョアン・ジルベルトのギターと囁くような歌声だけのシンプルな構成になっており、ジャズとはかなり縁遠いところに存在している。
だからというわけではないが、これが全てのボサノヴァアルバムの原点だといえるような気がするのである。
少なくともこれを聴かずしてボサノヴァは語れない。


さて話は変わるが、今日もメチャクチャ暑い。
今年は梅雨があっという間に終わってしまったので夏好きな私にとっては嬉しい毎日が続いているのだが、こんな歌を聴いているとそんな盛夏の喜びが倍増してくるようだ。
今も窓から遠くの山並みに入道雲がかかっているのが見える。
私は何を隠そう大の入道雲ファンで、以前は「入道雲マニア」というブログも書いていたことがある。
この時期になると、夏休みの絵日記帳に描きたくなるような風景を見つけるとカメラで撮りまくっている。
先日も近くの礒海岸から遠い島の横に形のいい入道雲を見つけ、夢中でカメラで撮り続けていた。
入道雲の何がそんなにいいのかとよく人に聞かれるが、「夏」そのものの象徴のような気がするから好きなのである。
夏そのものの象徴といえば、ボサノヴァもそうだ。
単純なシンコペーションによるリズムと呟くような歌声は、真っ青な海と夏空によく似合う。
気怠さも暑さと比例して高まるあたりが快感なのだ。

私にとっては入道雲とボサノヴァがある限り、夏はいつまでも終わらない季節なのである。

CARMEN McRAE 「VELVET SOUL」

2011年07月11日 | Vocal

うまい!というのはこういう人を指すのだ。
エラにしてもサラにしてもあんまり大物すぎる?のであまり聴く機会もないのだが、カーメン・マクレエも久々に聴いてみるとやっぱり納得させられてしまう人の代表格だ。
まぁ、貫禄勝ちといった感じである。

クールなレイ・ブラウンのベースに乗って「Nice Work If You Get It」が始まる。その第一声を聴くだけで、こりゃあいいなぁ~、と実感すること請け合いだ。
このくらいのテンポ(ミディアムテンポ)が一番スイング感を感じる。
しかも歌詞の一音一音をはっきり発音しているせいか曖昧なところが一つもない。
そこに単音をくっきり出すジョー・パスのギターが絡むのだから、まるで絵に描いたような出来映えだ。

しかし、何といっても彼女の真骨頂はバラードである。
特に「Inside A Silent Tear」は私のお気に入りだ。
彼女の歌声は、まるで温かい海風が頬を撫でるように通り過ぎていく。
ギターとの絡みも抜群。
極端に感情を出すでもなく、かといって押さえすぎず、聴き手と絶妙な関係性を築いている。
こうしたところが「うまい!」といわせる要因だ。

アルバムも後半になるとずいぶんポップな感じになる。
ズート・シムズも登場し、いつになく爽やかテナーを披露する。
こちらも聴きごたえありだが、私はやはり4ビートの曲に魅力を感じる。
やっぱりこういう大物チームの演奏はど真ん中で聴きたいのだ。




PETE JOLLY 「Sweet September」

2011年07月08日 | Piano/keyboard

先日友人が「これはすごくいいからぜひ聴いてみてくれ」と手渡されたCDがあった。
最近の欧州ピアノトリオで、ロマンチックなジャケットだった。
彼には「わかった」とだけ告げて、家に持ち帰って聴いてみた。

一通り聴いてみたが、どうにもピンと来ない。
まだまだ聴き方が浅いからなんだろうと思い、再度聴いてみた。
彼のいうこともわからないではない。録音がいいためにピアノの音が澄んでいるし、旋律もメロディアスだ。
ベースやドラムスも何か目新しさを加えようと努力していることが窺える。

でも何かが違うのだ。
私は欧州ピアノトリオも好んでよく聴くが、このトリオは魂を揺さぶらない。
少なくとも今日の気分ではないということだ。
私が今聴きたいのは、もっとストレートにスイングするピアノトリオだ。
軽快で心地よく、誰でもジャズを聴いているという喜びを感じられるようなピアノトリオだ。

そう思ってCD棚を漁っていたら、このCDが目にとまった。
ピート・ジョリー63年の録音盤「スウィート・セプテンバー」である。
この人の聴き方は簡単。
レッド・ガーランドを聴く時と同じような姿勢で聴けばいい。
何も難しいことを考えず、ただリズムに身を任せているだけで幸せになれるのだ。
こういうノリが今の時代に欠けているのである。
もっと物事を単純に考えよう。

CHET BAKER 「Stella By Starlight」

2011年07月03日 | Trumpet/Cornett

約1年ぶりにこのブログに新規投稿している。
復活したのはこれで2回目、またいつやめるかわからない。
気が向いたのでちょっと書こうかという気になった。

今夜はチェット・ベイカーを聴いている。
このジャケットはオリジナルではないが、オリジナルよりもいかしているので棚から取り出す機会が多い。
ジャケットとはそういうものなのだ。何でもオリジナルが一番ということではない。

さて何だかんだいっても、ジャズは孤独でアンニュイな世界が似合う。
その代表格がこのチェット・ベイカー。いい方を変えれば彼の生き方そのものがジャズだったともいえる。
まるで昔話を語り出すような「Deep In A Dream」や「Once Upon A Summertime」を聴けば、誰でも納得するはずだ。
この気怠さを感覚的に「よし」とする人でなければ彼のファンにはなれないし、真のジャズファンにはなれないのではないかと思う。
そこには上手下手などという次元では言い表せない彼の特異性が浮かび上がってくる。
ジャズメンはこうでなくてはいけない。

要するにジャズの面白さは、演奏を超えたところにあるヒューマニズムにあるのだ。
そこのところをわかった上でこのアルバムを聴いてもらいたい。
一度はまるとどうしようもないくらい好きになるのがチェット・ベイカーという人なのだ。