犬鍋のヨロマル漫談

ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。

小保方晴子『あの日』の読み方 2

2017-09-03 23:49:33 | 大阪暮らし

 『あの日』の前半は、早稲田、女子医大、ハーバード大などで、小保方さんが好きな研究に打ち込む姿が、詳しい研究内容とともに綴られています。

 小保方さんの論文が「ネイチャー」に掲載、発表されたとき、日本のマスコミは彼女を「リケジョ(理系女子)の星」と持て囃しました。

 早稲田の学部生時代は、むしろ部活(ラクロス)のほうに熱心だったようですが、大学院に入ってからは実験に明け暮れる毎日。

 ちょうど私の長女も「獣医学」で、実験で使うマウスやヤギの世話のために始発電車で大学に行ったり、研究室に泊まり込みで実験したりする姿を見ていましたので、「リケジョ」の研究生活も想像がつきました。

 小保方さんは、小中学生時代、親しい友達が小児リウマチで、この友達のために「自分にできることを探したい」という思いを強くしたそうです。そして医師よりは、研究の道に進むことを選ぶ。

 早稲田大学の応用化学科へのAO入試で志望理由書に「現在根治治療が不可能な難病への新たな治療法を開発していくとともに、それらの研究を通し、私たちが生きているという生命の本質を見つめる新たな観点を提案できるような研究者になりたい」と書いたとのこと。

 卒業研究は、常田聡教授の研究室で「海洋微生物の単離培養法の開発」をテーマにしました。大学院では、研究テーマを「再生医療」に変更し、組織工学(細胞と、足場となる材料を用いて生体外で移植可能な組織を作り出す学問)の研究のために、女子医大先端生命研の大和雅之氏の下で学びます。そこでは、「細胞シート」(特殊な培養皿の上で細胞をシート状に培養し、すぐに患者への移植に使えるようにする技術)を研究することになりました。彼女が生命科学に足を踏み入れたのは2006年。まさにその年に、京大の山中教授がマウスのiPS細胞(人工多能性幹細胞)を発表しました。

 女子医大では、角膜移植への利用が期待される「口腔粘膜上皮細胞シート」を研究。ラットに麻酔をかけ、ほほの内側から口腔粘膜組織を採取。組織を消毒し、酵素を使って上皮と真皮を分離、上皮細胞だけを集めてフィーダーレイヤー法という方法で培養して細胞シートを作ります。その次は、同じラットにまた麻酔をかけて背中の皮膚に移植、縫合し、数日後に細胞シートの変化を顕微鏡で観察する、というものです。観察の結果、移植時に単層だった細胞シートは移植後に生体内で重層化し、上皮細胞に含まれる特定タンパク質の発現も確認されました。

 説明には、かなり専門的な内容が出てくるのですが、専門用語が出てくるときは必ずその前後にていねいな説明があり、きちんと読みさえすれば素人にも理解できるようになっています。版元の講談社は、啓蒙的な科学読み物シリーズ「ブルーバックス」を出しているので、もしかしたら、本書の校閲の段階でブルーバックス編集部の編集者から助言があったのかもしれません。

 実は私は、社会人生活をスタートしたとき、文系出身でありながら、数年間、科学雑誌『Newton』の編集に携わっていたことがあります。Newtonの読者には中学生も含まれるので、専門的な話をいかに分かりやすく伝えるかに苦心しました。『あの日』を読みながら、担当編集者の苦労も想像できました。

 前半部分で出てくる用語や概念は、本題である「STAP細胞騒動」を理解するための「基礎知識」ともなるので、ここを読み飛ばすと、本書の核心部分の理解がつらくなるかもしれません。ある意味、巧みな構成といえましょう。

 さて、小保方さんが女子医大で取り組んだ研究では、小保方さん独自の工夫がありました。ラットを生かしたまま口腔粘膜組織を採取するのは難しかったため、通常はラットを殺して粘膜を採取し、別のラットの背中に「他家移植」するのが普通だったのに、小保方さんは、この技術を将来治療に応用するためには「自家移植」で行うことが重要だと考え、ラットを麻酔して同じラットを使うことにし、見事に成功したのです。

 この成果は2007年シカゴで開かれた学会で発表され、小保方さんの最初の業績となりました。

 博士課程ではハーバード大学に留学、ここで再生医療の世界的権威、バカンティ教授や同じ研究室に所属する小島宏司氏の指導を受けます。

 ここで与えられた課題は「ヒツジの鼻腔粘膜上皮細胞シート」の作成。ヒツジの鼻腔粘膜には雑菌が多く含まれていて細胞培養が難しい、細胞の増殖速度がきわめて遅いなどの困難がありましたが、組織の消毒法を工夫したり、増殖を促進するためにインサートと呼ばれる培養皿を用いるなどの方法を用いることを思いついて、課題を達成。

 このとき、指示されていたわけではないものの、ラット(ドブネズミ)よりも難しいとされていたマウス(ハツカネズミ)の表皮細胞の培養にも挑戦。表皮の採取部位を変え、角化層のゴミの混入を防ぐなどの工夫をすることにより、従来不可能とされていた大人のマウスの表皮細胞の培養にも成功。その技術を、ハーバードの他の研究室の研究員に指導するまでになりました。

 小保方さんがその次に取り組んだのは幹細胞の研究。バカンティ教授の指示により、過去の幹細胞に関する膨大な論文を読破。バカンティ教授が仮説として提唱している「スポアライクステムセル」(あらゆる組織に共通の幹細胞が存在しているという仮説)を証明するため、体細胞から生じたスフェアと呼ばれる球状の細胞塊を一つ一つ分析し遺伝子の種類を調査しました。そのためには、RT-PCR(逆転写ポリメラーゼ反応)という精緻な手法が必要で、小保方さんはそれぞれのスフェアについて、これを繰り返し行いました。

 このときに着目した遺伝子がOct4。Oct4は未分化な(さまざまな細胞に分化しうる)細胞に発現することが知られています。小保方さんは、スフェア細胞の中にOct4が発現することを確認し、バカンティ教授に報告。バカンティ研究室は、総出でスフェア細胞の研究に取り組み、「組織の由来によらずスフェア細胞にOct4という多能性(三胚葉由来のすべての細胞に分化できる能力があること)を示す代表的な遺伝子の発現があること」を証明したのです。

 そして、その多能性を証明するために、外胚葉、中胚葉、内胚葉の培地をそれぞれ用意し、細胞の形態変化を確認することで、スフェア細胞が三胚葉すべての細胞種に分化できることを証明。次に、免疫不全マウスへの移植実験を行い、テラトーマ(さまざまな組織を含む奇形腫)に似た組織を作ることに成功。ここまでの研究を論文にまとめ、「ネイチャー」、「セル」、「サイエンス」に次ぐ影響力をもつPNASに投稿しました。

 しかし、PNASからは「Oct4などの多能性を示す遺伝子発現が確認されているが、スフェア細胞はキメラマウスになるのかどうかを確かめるべきだ」という指摘を受けます。キメラマウスとは、多能性幹細胞をマウスの受精卵の初期胚に注入したときにできるマウスで、受精卵由来の遺伝情報と注入された細胞に由来する遺伝情報が共存するマウスです。しかし、バカンティ研究室には、キメラマウスを作成する設備・技術がないため、断念。

 小保方氏は、研究を持ち帰り、日本でのキメラマウス作りに取り組むことになります。
そして、女子医大の大和教授から紹介されたのが、理化学研究所の若山照彦氏でした。若山氏は、世界で初めてクローンマウスを作った、この分野の第一人者。

 この出会いによって、小保方さんの研究は新しい段階に進みます。

 小保方さんと若山氏は共同研究者として、のちにネイチャーに載る論文を書き上げていくわけですが、のちに論文の不正が明らかになると、その責任がどちらにあるのかについて、小保方氏と若山氏の見解が異なることになります。

 ここまでは、「STAP細胞事件」のいわば序章。

 しかし、ここまでを読んだだけでも、幹細胞生物学という生物学の最前線で、研究者たちがどのようにしのぎを削っているのかを垣間見ることができ、とても楽しく読みました。

 私は文科系でしたが、高校では、科学の4つ分野の「Ⅰ」はすべて必修。文系の生徒であっても、1分野に関して「Ⅱ」もとらなければなりませんでした。それで私は「生物Ⅱ」の授業をとりました。教師はちょっと変わっていて、教科書とは関係なく、当時最先端の分子生物学のことを授業で紹介し、それに関する実験などもさせていました。ワトソン、クリックによるDNAの二重らせん構造が発表されて以来、遺伝子研究がブームになっていましたが、学校に教育実習に来た高校の卒業生は、大学で学んだ最先端の内容を得意気に語っていました。

 DNA、RNA、バクテリオファージ、培地、遠心分離…。

 『あの日』の中で、これらの言葉に久しぶりに接し、高校時代がなつかしく思い出されました。


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