海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(27) 奈良原繁書簡(17)

2008-11-04 10:24:01 | 歴史
益御安康被為渉奉拝慶候(ますますご安康わたらせられ拝慶たてまつりそうろう) 扨別紙者明治三十三年古市博士印旛沼開疏設計ニ付千葉縣会ニ而演説之末文丈を抜卒せしものに御座候付(さて別紙は明治33年古市博士印旛沼開疎設計につき千葉県会にて演説の末文をばっすいせしものにご座そうろうつき) 御一覧奉願度最同氏も今明日中に者帰京之筈候間(ご一覧願い奉りたくもっとも同氏もきょう明日中には帰京のはずそうろうつき) 来ル二十四五両日を期し御参会奉願度候付(来たる24・5日両日を期し御参会願い奉りたくそうろうつき) 只今より御含置被下度此分一筆奉存得尊意を候(ただいまよりお含み置き下されたくこの分一筆尊意をえ奉りそうろう) 以上
    七月二十一日            奈良原繁
大隈重信殿

 繁は、明治11年、内務省御用掛となって以来、猪苗代湖水利事業(安積疎水事業)の責任者として働くことになったが、明治13年、江戸期の農学者・佐藤信淵の『内洋経緯記』を出版している。また、明治16年には、かつて薩摩藩が佐藤信淵に依頼して書かせた調査意見書である『薩藩経緯記』も出版している。前者は、松方正義に、後者は伊藤博文に題字を依頼しているが、2人は、明治11年5月に大久保が暗殺されたあと、伊藤が内務卿、松方が勧農局長となり、大久保が取り掛かった事業を継承しているのである。繁はいわば、大久保、伊藤、松方の部下であり、明治政府の殖産興業政策を担う熱心で忠実な官僚だったようだ。
 ところで、明治16年12月、繁は第2代静岡県令に任命されるが、ただ単に、前任者が薩摩出身者だったからという理由だけでなく、こうした繁の熱心さが評価されたのだろう。伊藤か松方のどちらが視察したのか忘れたが、静岡にも水利・治水事業を施す必要のある地域があったのである。もっとも、繁は翌年の9月には、静岡県令から工部大書記官の地位に移っているので、この事業にはタッチしていない。それどころか、毎日料亭に通い、梅吉という美技を侍らせ、浅杓低吟していたという。また、急を要する書類の決裁などは、部下がそこに出掛け、梅吉から判をもらっていたといわれている。静岡は薩摩には厳しい徳川の郷土(くに)ということを差し引いても、極めて評判の悪い県令だったようだ。
 
 ともかく、この沖縄県知事時代の手紙では、初期のころの役人の顔を出しているし、実際、沖縄の殖産興業には熱心だった。