海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(34) 奈良原繁書簡(24)

2008-11-11 11:36:09 | 歴史
 前回、明治10年の繁書簡を2通続けて掲載するつもりだったが、2通目の明治10年2月6日付けの手紙は無理だとわかった。他のものよりくずし方が激しかったことと、全体として墨が薄いのではっきりしなかったのである。おまけに尚々書きの部分も長く、一部本文と入り乱れているように見え、手に負えなかった。言い訳がましいが、つまりはまだまだくずし字を読む力がないのである。だから、すでに掲載した書簡の解説と、未掲載書簡の大体の内容に言及することでお許しを願うしかない。
 さて、1月23日付の手紙では、「今日帰縣候」とあるが、私は、これは西南戦争が始まって間もない3月8日に、繁は勅使・柳原前光や随員・黒田清隆及び高島鞆之助らとともに軍艦で鹿児島港に入っていることと関係していると思っていた。要するに、1ヶ月以上も間があるが、それは大阪かどこかへ寄って、そこに長逗留しているうちに西南戦争が始まり、そこで勅使派遣ということが決まり、どんどん予定が遅れていったのだ、と。曖昧な記憶で申し訳ないが、当時木戸は大阪(か神戸?)にいたし、戦争が始まってからは、大久保も前線基地となった大阪に出向いていたはずだから、と思っていたのだ。
 ところが、もう1通の2月6日付書簡では、「午后御尋参楼仕度」という表現がある。ということは、この時点で、繁が鹿児島にいることはありえそうもないし、大隈が東京以外のところにいるならともかく、個人的住まいではないにしろ、東京のどこかの「何々楼」に居る大隈に会いたいと言っているのは間違いないのだ。では、1月23日付の「今日帰縣候」というのは、実際そうだったのだろうか。その日、船で鹿児島へ向かい、用件が済み次第東京に帰ってきたとしたら、矛盾しないだろうが、当時、13・4日前後で、鹿児島と東京を往復するのは困難だっただろう。まあ、晴天平穏で、船を貸切り、記録を目指すのならともかく。それにそれが可能だったとしたら、その辺りのことを手紙で触れてもよさそうだが、そんな記述は一切出てこない。尚々書きには、「華族銀行之儀可成速ニ御設立之方可致(?)とや」などと島津家家令らしい話題を出しているのだ。どうも何だかよくわからない。