海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(44) 海江田信義書簡(9)

2008-11-22 11:37:55 | 歴史
 それから、一瞬、喜八郎と喜左衛門を混同するような単純ミスかとも考えたが、何度も校正をした当時の権威ある歴史学者たちが、まさかそんなミスを犯すはずがない、と他の項目も調べてみた。すると、繁は寺田屋事件の際にも喜八郎や幸五郎という名前ではなく、明治後(島津家の家令になった明治6・7年以降)の名前である繁で統一されている。ということは、兄・喜左衛門と明確に区別していたということだろう。つまり、確信をもって書いているということだ。
 しかしながら、この執筆者が参考にした海江田の『維新前後実歴史談』には、明らかに奈良原喜左衛門という名前が載せてあるのである。ましてや、この『・・・実歴史談』の中で海江田は、薩英戦争の際は無論のこと、寺田屋事件の前の有馬らの過激派説得にも、喜左衛門と一緒に行動していたと語っている。そして何度も強調するが、江戸城へのデモンストレーションも喜左衛門と一緒に先頭に立って行動したと書いているのに、である。

 最初は、『鹿児島縣史』の表記をどう判断していいかよくわからなかった。ただ、当時の執筆者たちは、海江田の嘘か「誤解」を知っていた可能性が高いということぐらいしか。
 『鹿児島縣史』第3巻(昭和14年刊)は、生麦事件でリチャードソンに最初に斬りつけた人物を、奈良原喜左衛門としている。もちろん、これがのちに定説となり、さまざまな時代小説や通俗歴史小説などに取り上げられ、普及している。では、この権威ある『鹿児島縣史』は、何を典拠にしているかというと、昭和3年に刊行された、これも重厚な『薩藩海軍史』(中巻)なのである。『縣史』の生麦事件の記述は、ほぼこの『海軍史』を踏襲しているだけで、参考文献も『海軍史』を筆頭に挙げている。では、『海軍史』は、なにを出典に挙げているのかというと、(注)として、『海江田信義実歴史伝及直話』と『海江田信義口演並実歴史伝』なのである。
 当然のことながら、こんな題を冠した本や冊子はない。